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自分が悪いこと思ってへんかったら悪いもんは来ないの

大蜘蛛ヨシ
京都府京都市

はじめに

   最初に取材をさせていただくお電話をしたのがゴールデンウィーク頃。それから、ヨシさんの体調がすぐれず、やっとお会いできたのが7月3日でした。関西では暑い夏の最中・・・曇り空でまだ涼しい日に、京阪電車で大阪から約1時間ほどの道のりを、私と福岡は取材へ向かいました。ヨシさんがお住まいのあたりは昔ながらの京都のたたずまいで、お孫さんの電話案内がなければたどり着けない、入り組んだところにあります。

   おうちの造りも昔からのもので、玄関を開けてすぐに細くて急な階段が2階まで伸びています。おもわず、実家の古い階段を思い出しました。2階の涼しい部屋に、きちんとヘアスタイルをセットしたヨシさんがいらっしゃいました。

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   お話は、ヨシさんのお孫さんの訓子さん、それからインタビュアーの福岡、記録係の伊藤の3人でお聞きしました。それでは、取材でお聞きした口調をできるだけそのままに大蜘蛛ヨシさんの人生を紹介してまいります。


1.花街系の家に生まれて

    「小さい時から三味線あったり・・あたしの母の母親が芸者してたし・・三味線はな習いにいきました。子供のころは、写真に写ってるでしょ、あのときは歌と踊りをね。体が弱いから運動になるでしょ。」

生まれが東京のヨシさんは、小さいころから日本舞踊のお稽古に通われておりました。なんと当時のお写真がまだ残っており、今年で102歳になるヨシさんですが、写真を指さし、当時の様子を鮮明に聞かせてくださいました。

  

       

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「これがいちばん古い写真。10歳ぐらいのときやね。これがあたし。みんな同い年だけど、あたしだけ小さい。ここの台に上がるのに、めまいがして怖かったぁ。」


これがおばあちゃん?と訓子さんが尋ねると

「そうそう真ん中。学校から帰ってきたら、お稽古。帰ったら行って、人が習うの見て、自分が習う時の参考に。遊びに行くようなもんだけど、健康にはいいのよね。」

大きな瞳でやさしく話してくれます。


「小学校まだ行ってるときでね。この人は同い年で、おばあさんが一生懸命ついてきて、たまちゃんてね。おばあさんが一生懸命で。あたしら遊び半分。この人は小田原に練習に行くって。お師匠さんが目かけてはった。そうそう。この人は乾物屋の娘・・・。」

      

 

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明治生まれの方で、お稽古ごとに通われていたなんて珍しいですよね。理由は、ヨシさんの血筋が日本舞踊の家系だったからなんです。

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 ----*取材後に、押し入れに眠っていた三味線を出してくださっている様子。


「あたしの母が芸者してて。新橋で。福井の出だけど。それでみんな東京で育ったの。福井県の武生ってところ。生糸の産地で。都会でね、生糸買いにくる人がいっぱいいてね。芸者も。きれいなシャナシャナした人がたくさんいて、あこがれて。それで東京へ来て、あたしらができたわけ、ほんとは福井の人なの。」

 

「武生ってね。生糸だとか羽二重。昔からの都会だった。あたしの母は田舎の人とかお百姓さんことは何にも知らない。」

だからヨシさんもヨシさんのお母さんも、昔の人がよく知ってるようなことご存知なかったりするんですと、お孫さん。お母さんは芸者さんでしたが、三味線を弾けるのはお父さんのほうで、夫婦ともにアーティスティックなハイカラな家庭だったようです。当時では珍しい境遇なんじゃないでしょうか。

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*このときは残念ながら壊れており、また聞かせてもらうことを約束しました。


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それから、小学校4年生頃に東京は神田から、京都へ引っ越されたヨシさん。

「東京は習いに行ってたけど、京都は格式が高いでしょ。名取だとかなんとか。なかなかお師匠さんがなかった。だから京都に行ってからは習わなかった。安直なお師匠さんはいなかったの。高いし。」

 それでも大人になってからもたびたび三味線を弾かれていたそうで、ひ孫さんも三味線を弾きたいとおっしゃっているそうです。

 現在は全く弾いていないとか。

 

 

2.「四組」のお嬢さん

 「こういうのまだ残ってるんですね」とインタビュアーの福岡もうなった、当時の通信簿。ヨシさんが18歳頃の、当時通われていた女学校のものです。

 「シュウシン(いまのお作法や道徳の科目)がいちばん好きだったけど、1週間に4時間くらいしかなくねて。」

 

 「あたしらのときは平均点の高い人から。「四組」てのを取らはった。8点5分以上の人ばかり。優秀組みたいなの作っててね。こういうとき(集合写真)はごっちゃにして、差別したらいけないからね。あたし、よく何かするとね「シクミ」のくせにて言われるの。」

 当時は成績で組(いまの学年のようなもの)に分けられ、成績が悪ければ組を落とされることもあったようです。いまでは教育委員会に訴えられそうですが・・(笑)

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 ヨシさんのお家はお金持ちでこそないものの、花街系だったので、お姉さんが芸者をし、そのおかげでヨシさんは学校へ行かせてもらえたそうです。体も弱いし、勉強しときなさいという親の教えでもありましたが、通信簿の成績を見ると、とても勉強されたようです。

 

 通信簿や女学校の卒業アルバムを見ながら、当時の状況を教えてくださいます。

「お伊勢さんの神主さんがいて。朝礼があってね。白砂(神社にあるような白い砂)で遥拝所で。そのときに「フルカゼノ イシノクミ ワタラヘノ カワカミニ」和尚さんをたたえた祝詞を。障子みたいな祝詞。毎朝、それを校長先生がよまはる。さいごに「オオカミ オオカミ ミイズ カガヤクオオトシヤ」て三回おじぎして、それが朝礼だったの。ちゃんと白砂で。そこは普段、入ってはいけないの。」

 

 

「雨の降る時は講堂で。今はやってないんでしょね」


「皇后陛下がギョウケンなったのは私立では精華だけ。府一とか府二とか、二条とか公立はもちろんだけど。」

皇后さまが視察というか見に来たんですよと、訓子さん。


「とにかく、校長先生が神主さんだったから。寺町の四条を下がったとこに、神宮街西海ってね、御宮さんがあるんです。そこの。」


訓子さんも初耳だったらしく「そんなこと知らんかった。神仏系やったなんて。完全に芸術系の学校だと。」と驚かれていました。


 

3.高島屋のレジスター

 「これ卒業してすぐに高島屋いったんやな。お張り子さん。呉服屋さんデパートのね」と訓子さん。

 

「高島屋へ8年。結婚してみんなやめたけど。高島屋でもいろんなことあった。レジスターしてた。」針子さんではなくレジをされていたと訓子さんも初めて知ったそうです!


「レジスター。トータルと現金と合わなくなるでしょ。1年間トータルしてね、二千円しか違わなかった。私ほら優秀だってね、特別賞いただきました。お釣り間違えたり、勘定まちがえたりして、普通はねするの。そのころで、二円五十銭?二円五十銭まで間違えば、そっから引かれてね、二円五十銭まるまるはもらえなかったけども。あたしはほとんど引かれる事なかった。」


高島屋では何年ぐらい勤めはったんですか?と福岡が質問します。

「売れ残り売れ残りって何度言われたか、8年ぐらいいました。もう2~3年でね。女の人は。」

 

「店員どうし(で結婚する)とかね。あたしらはレジスターだから、接触する人が限られてたの。」

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レジスターのときは勘定が合わず、苦労されたようです。


「お金のことでしょ。なくなってね、今日は5円たらん。昨日は・・てね、計算部長が言ってきはるの。あたしら一生懸命ね、やってるし、どこで間違ったんか覚えがないの。

放送する人がいるでしょ。お昼、お便所に行くときにちょっとかわってもらうでしょ。その人がやったの。あたしは、自分が責任あるから、そんなことできやしません。でも替わった人は・・。あとから調べてわかったからよかたけど。この人はいいことした(レジを替わってくれたということ)わりに、かわいそうでした。しょうがないのよねえ、お金って魅力あるから。」

 


4.移動はすべて徒歩~朝は大学、夜はダンスバーへ~

 「階段、ここ登ってこられるんですか?」

 ヨシさんのお部屋までは、傾斜角40度くらいのすごく急な階段があります。それを毎日自分で上り下りされているそうで・・私たちでも大変な傾斜なのに驚きです。

「そうなんですよ。上がり降りしてるんで、足腰つよい。・・自転車のれなかったんですよ。これ勤務してた時の写真で、京都大学の農薬研究所みたいなとこの事務員さんやっててね、そのころにおつかいに行かなくちゃいけなくて、全部歩きで行ってたんです。京大の構内を出るまででも広いのに、ものすごい歩いて、だから足腰強い。」と訓子さん。


 高島屋を退職されたヨシさんは、お父さんが勤めていた会社で少し働かれたあと、京都大学へ勤めることに。実はそれまでに一度ご結婚され、一人だけ出産されています。お当時では珍しいシングルマザーでした。

 京都大学では農薬の研究所のようなところでお手伝いされていたようで、訓子さんも大学へ遊びにったそうですが、実験で使ったゴキブリが瓶いっぱいに詰めて置かれていたりしたそうです。

 

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 「京大、農薬施設つとめながら、夜もアルバイト行ってたんでしょ?ダンスホールに、DJみたいな。」とお孫さんがまた面白そうなエピソードを言うと、「それは聞き捨てならないですね」と福岡も身を乗り出します。

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「すぐそばにね、ダンスホールがあって、レコードかけ。ダンスは習わないけど、東山に大きなダンスホールがあって。踊れなくても、見にいけたの。ちょっと高い所から。ダンサーが並んでて、男性の前でちょっとおじぎすると一緒になって踊って。兄がね、見にだけ、自分が踊るのを見せにつれてってくれたの。女の人は踊れなくても、男性が踊れれば何とかなるでしょ。」


 「そんなん学校に知れたら怒られるでしょ。すぐに辞めたの。晩5時に学校帰るでしょ?もったいないしね、使うってゆってくれるし、二重に働いてね、大学首になったらあれだしね。」


「そこでね、どんな曲かけてはったんですか?日本の?」と福岡がさらに聞きます。

「あたしがかけたやつで。レコード置いてあるのが決まってるからね」

 

「神山さんてね、旦那さんも奥さんも先生。ちょっとだけね、バイトしないかって。

「そんなん両方お仕事されてるときね、眠たいとかなかったんですか?」

「何もすることないでしょ。5時に終わって。ご飯食べて。お裁縫習いに行ったりしてたけどね、何にも続かない。それでダンスホール?でも学生さんくるでしょ?学校知れたらって母に怒られてね。」


「大学はね、先生のお宅がずぐ近くにあるの。母が手伝いに行ってたでしょ?なんかあったら、奥さんが怒ってやってくるの。先生の機嫌が悪いと、ヨシさん何があったの?って怒ってやってくるの。でも先生の気持ちまでわたしわからへんわねえ。困ったけどね。怖い先生でね。大変でしたよ。カケイ先生ていう。奥さんが立派なかたなの。体格はいいし、口八兆・手八兆。電話だって、長いことかけはるしね。太刀打ちできないの。」

 

 大学にいらしたときのヨシさんのお写真もたくさん残っており、もう102歳になるのに、すらすらと昔のことを思い出して話されていました。

 

5.変わったお父さん

 「魚屋さんしてたのは?」とお孫さんがうまく誘導してくださいます。

「父やろ」

「おじいさんがね、天皇さんとかに納めるようないい魚あつかってはったんです、だから、ものの無い時代でも食べるものがまわって。


「東京の青山に御所があったの。そこへ入るお魚やさんの仕事してたの。父が。監査通知があってね、それがないと御所へ入れないの。カワハチっていってね、お魚屋さんの番頭さんがきて。」

 すると生まれ故郷の東京のことを思い出されたのか、

「どうして京都行くようになったんかね。近所に伝染病がはやってね、ほとんど1軒にひとりかかってね、私子供でねお腹がわるかって、お医者さんにいかなきゃならないんだけど。宿貸しなの。そこは井戸水で、共同の井戸だったから、伝染が早かったの。うちは宿貸しさんでね、病院に行かずに済んだんです。」


「神田行ってからね、神田は学生の町でしょ賑やかでね。内職もいっぱいあって。あの、奥さんのね、内職。製本・・本にする、本のね、印刷するでしょ、それを折って本にするのが「折り」っていうのがあった。こう麻糸とおして、してはる人が多かった。

神田はサンショウ堂とかユウシカクとか本屋さんがいっぱいあってね。」

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 訓子さんが補足で説明してくれました。

「この人のお父さんがいろんなことしてはったみていで、本屋さんにも勤めてはったようなことききました。副業でいろいろしてはったのかも。シマズ(お父さんはシマズ製作所にも勤めていて、その転勤で京都へ来た。)の話でっていうのは、本屋とシマズがタイアップして辞書を作る事業を立ち上げるのに、京都へ来たって聞きましたわ。サンショウ堂やったと思う。辞書の。サンショウ堂と関係ある会社だったと思うの。おじいさんは。お魚屋さんにも出入りしながら。今思い出した。」


6.長生きのひけつ

ヨシさんのお家の近くには訓子さん家族も住んでいて、80歳のときにもひ孫さんをおんぶされていたそうです。訓子さんいわく、食生活も長生きできそうなメニューでした。

「ご飯も普通に食べますし、沢山は昔から食べないんで。あたしが物心ついたときから、お肉とかは全く食べない。この人中心の生活だったんで。おじゃこと、お漬もんと、卵と、納豆と、お味噌汁と白いごはん。白いごはんが一番ごちそうなんで。給食でものすごい困ったんです。見たことないもんいっぱい出てきて。豚肉、鶏肉、え~これは何?って(笑)」

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 今でも来客があるときは、必ずご自分で美容室へ行かれるそうで、今日も私たちのためにパーマをあててきてくださったそうです。


 ヨシさんがいつも言っていることがあるそうです。

「そやけど、自分が悪いこと思ってへんだら、いろんなものから悪いもんは来いひんて、自分の気持ちがすごくきれいである事が大事やいうことはいつも言うてました。」

でもご本人は「私の人生、行き当たりばったり。」と、はぐらかします。

 「そんな、しっかりしたあれは無いんだわ。結局、よく言えば柔順なの。なんでも反発する人あるでしょ。自分の意思ばっかり通してね。あたしはそんな無理なことはしない。相手しない。ずるいのね。そんなことかな。できなかったのよ。自分は。体が弱いっていうあれが頭から離れないで。やりたいことの半分。だから、これしたらどうかな・・と思うともうできなくなってね。」


「無理なことはせぇへんな」とお孫さんがおっしゃるとおり、無理なこと、ストレスがたまることは愛想してまで付き合わないという信念があられるそうです。実はご兄弟が13人もいるのでご親戚もおおいのですが、気に入らない人とは無理にお話しされないそうです。

 

「そんなこというてもしょうがないやん~てはよく言ってますけど。生きるということにたいしては。みんなが大事にしてくれたしっていうのはいっつも言ってるし。やなことする人は、前世で借りがあると想いって。以前に、きっと迷惑かけたんやと思ってて。」

 


7.おばあちゃんのおかげでみんな生きてこられた


「みんな、おばあちゃんが一生懸命働いてきてくれたから、公務員ですね。公務員やってきてくれたから。苦しい時も、父親が事業に失敗したときも、おばあちゃんがいたし、どうにか。食べてはこれた。いちばん、公務員中でもいい時代やったと思うんです。みんなのためにも生きないとという想いが強いて。くたばれへんていうのがあるんです。」

 

 100歳を超えてもご家族と家で暮らせるというのは珍しいです。いまは娘さんと二人暮らしですが、よく訓子さんやひ孫さんも家にいらっしゃるそうです。訓子さんから感謝の言葉が自然に出るほど、家族の絆が強いようでした。

 

おまけ

「私が長生きするなんて、誰も思ってなかった。小さい時に伝染病でしょ、それ患ってから、弱い弱いと行ってね、めまいがして起きられなかったり、みんなが割れ物にさわるみたいに大事にしてくれた。」


実はヨシさん、小さい時に一度死にかけたことがあり、そのおかげで何か不思議なところがあったそうです。明治時代の人は生まれてもみんなが大人になるまで元気に育つとは限らない時代でしたから、九死に一生の経験もあったのでしょう。


 「ちょっとかわった人なんです。幽体離脱的なことがよくあるみたい。よく自分が抜けて外から自分見てる・・とかわりと普通の人みたいで、たぶんその、病気したときに生死の間さまよったりしてると思うんです、死にかけたりとか。ちいさいとき。」と訓子さんも。


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取材 福岡久里奈

編集   伊藤舞

(2011.7.3取材)