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    <title>明治の人 | 変わり続ける時代に変わらない大切なことを伝え残したい</title>
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    <updated>2011-12-22T11:06:44Z</updated>
    
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    <title>第27回 大蜘蛛ヨシさん</title>
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    <published>2011-12-22T10:22:01Z</published>
    <updated>2011-12-22T11:06:44Z</updated>

    <summary> 	はじめに 	　　　最初に取材をさせていただくお電話をしたのがゴールデンウィーク頃。それから、ヨシさんの体調がすぐれず、やっとお会いできたのが７月３日でした。関西では暑い夏の最中・・・曇り空でまだ涼しい日に、京阪電車で大阪から約１時間ほど...</summary>
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        <![CDATA[<p>
	はじめに</p>
<p>
	　　　最初に取材をさせていただくお電話をしたのがゴールデンウィーク頃。それから、ヨシさんの体調がすぐれず、やっとお会いできたのが７月３日でした。関西では暑い夏の最中・・・曇り空でまだ涼しい日に、京阪電車で大阪から約１時間ほどの道のりを、私と福岡は取材へ向かいました。ヨシさんがお住まいのあたりは昔ながらの京都のたたずまいで、お孫さんの電話案内がなければたどり着けない、入り組んだところにあります。</p>
<p>
	　　　おうちの造りも昔からのもので、玄関を開けてすぐに細くて急な階段が２階まで伸びています。おもわず、実家の古い階段を思い出しました。２階の涼しい部屋に、きちんとヘアスタイルをセットしたヨシさんがいらっしゃいました。</p>
<p style="text-align: center">
	<img alt="1－2.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/1%EF%BC%8D2.JPG" style="width: 93px; height: 64px" width="200" /></p>
<p>
	　　　お話は、ヨシさんのお孫さんの訓子さん、それからインタビュアーの福岡、記録係の伊藤の3人でお聞きしました。それでは、取材でお聞きした口調をできるだけそのままに大蜘蛛ヨシさんの人生を紹介してまいります。</p>
<p>
	<br />
	１．花街系の家に生まれて</p>
<p>
	&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;「小さい時から三味線あったり・・あたしの母の母親が芸者してたし・・三味線はな習いにいきました。子供のころは、写真に写ってるでしょ、あのときは歌と踊りをね。体が弱いから運動になるでしょ。」</p>
<p>
	生まれが東京のヨシさんは、小さいころから日本舞踊のお稽古に通われておりました。なんと当時のお写真がまだ残っており、今年で102歳になるヨシさんですが、写真を指さし、当時の様子を鮮明に聞かせてくださいました。</p>
<p>
	　　</p>
<p>
	　　 　　　　</p>
<p style="text-align: center">
	<img alt="27-2.JPG" class="mt-image-none" height="138" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/27-2.JPG" width="200" />&nbsp; <img alt="3.JPG" class="mt-image-none" height="213" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/3.JPG" style="width: 84px; height: 89px" width="200" /></p>
<p style="text-align: center">
	&nbsp;</p>
<p>
	「これがいちばん古い写真。１０歳ぐらいのときやね。これがあたし。みんな同い年だけど、あたしだけ小さい。ここの台に上がるのに、めまいがして怖かったぁ。」</p>
<p>
	<br />
	これがおばあちゃん？と訓子さんが尋ねると</p>
<p>
	「そうそう真ん中。学校から帰ってきたら、お稽古。帰ったら行って、人が習うの見て、自分が習う時の参考に。遊びに行くようなもんだけど、健康にはいいのよね。」</p>
<p>
	大きな瞳でやさしく話してくれます。</p>
<p>
	<br />
	「小学校まだ行ってるときでね。この人は同い年で、おばあさんが一生懸命ついてきて、たまちゃんてね。おばあさんが一生懸命で。あたしら遊び半分。この人は小田原に練習に行くって。お師匠さんが目かけてはった。そうそう。この人は乾物屋の娘・・・。」</p>
<p>
	　　　　　　</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	--------------------------------------------------------☆</p>
<p>
	明治生まれの方で、お稽古ごとに通われていたなんて珍しいですよね。理由は、ヨシさんの血筋が日本舞踊の家系だったからなんです。</p>
<p>
	&nbsp;<img alt="5.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/5.JPG" style="width: 159px; height: 116px" width="200" />&nbsp;　　　　<img alt="6.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/6.JPG" width="200" /></p>
<p>
	　----＊取材後に、押し入れに眠っていた三味線を出してくださっている様子。</p>
<p>
	<br />
	「あたしの母が芸者してて。新橋で。福井の出だけど。それでみんな東京で育ったの。福井県の武生ってところ。生糸の産地で。都会でね、生糸買いにくる人がいっぱいいてね。芸者も。きれいなシャナシャナした人がたくさんいて、あこがれて。それで東京へ来て、あたしらができたわけ、ほんとは福井の人なの。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「武生ってね。生糸だとか羽二重。昔からの都会だった。あたしの母は田舎の人とかお百姓さんことは何にも知らない。」</p>
<p>
	だからヨシさんもヨシさんのお母さんも、昔の人がよく知ってるようなことご存知なかったりするんですと、お孫さん。お母さんは芸者さんでしたが、三味線を弾けるのはお父さんのほうで、夫婦ともにアーティスティックなハイカラな家庭だったようです。当時では珍しい境遇なんじゃないでしょうか。</p>
<p style="text-align: center">
	<img alt="27-4.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/27-4.JPG" width="200" /></p>
<p>
	＊このときは残念ながら壊れており、また聞かせてもらうことを約束しました。</p>
<p>
	<br />
	--------------------------------------------------------☆</p>
<p>
	それから、小学校４年生頃に東京は神田から、京都へ引っ越されたヨシさん。</p>
<p>
	「東京は習いに行ってたけど、京都は格式が高いでしょ。名取だとかなんとか。なかなかお師匠さんがなかった。だから京都に行ってからは習わなかった。安直なお師匠さんはいなかったの。高いし。」</p>
<p>
	　それでも大人になってからもたびたび三味線を弾かれていたそうで、ひ孫さんも三味線を弾きたいとおっしゃっているそうです。</p>
<p>
	　現在は全く弾いていないとか。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	２．「四組」のお嬢さん</p>
<p>
	　「こういうのまだ残ってるんですね」とインタビュアーの福岡もうなった、当時の通信簿。ヨシさんが18歳頃の、当時通われていた女学校のものです。</p>
<p>
	　「シュウシン（いまのお作法や道徳の科目）がいちばん好きだったけど、１週間に４時間くらいしかなくねて。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	　「あたしらのときは平均点の高い人から。「四組」てのを取らはった。８点５分以上の人ばかり。優秀組みたいなの作っててね。こういうとき（集合写真）はごっちゃにして、差別したらいけないからね。あたし、よく何かするとね「シクミ」のくせにて言われるの。」</p>
<p>
	　当時は成績で組（いまの学年のようなもの）に分けられ、成績が悪ければ組を落とされることもあったようです。いまでは教育委員会に訴えられそうですが・・（笑）</p>
<p>
	--------------------------------------------------------☆</p>
<p>
	<br />
	　ヨシさんのお家はお金持ちでこそないものの、花街系だったので、お姉さんが芸者をし、そのおかげでヨシさんは学校へ行かせてもらえたそうです。体も弱いし、勉強しときなさいという親の教えでもありましたが、通信簿の成績を見ると、とても勉強されたようです。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	　通信簿や女学校の卒業アルバムを見ながら、当時の状況を教えてくださいます。</p>
<p>
	「お伊勢さんの神主さんがいて。朝礼があってね。白砂（神社にあるような白い砂）で遥拝所で。そのときに「フルカゼノ　イシノクミ　ワタラヘノ　カワカミニ」和尚さんをたたえた祝詞を。障子みたいな祝詞。毎朝、それを校長先生がよまはる。さいごに「オオカミ　オオカミ　ミイズ　カガヤクオオトシヤ」て三回おじぎして、それが朝礼だったの。ちゃんと白砂で。そこは普段、入ってはいけないの。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「雨の降る時は講堂で。今はやってないんでしょね」</p>
<p>
	<br />
	「皇后陛下がギョウケンなったのは私立では精華だけ。府一とか府二とか、二条とか公立はもちろんだけど。」</p>
<p>
	皇后さまが視察というか見に来たんですよと、訓子さん。</p>
<p>
	<br />
	「とにかく、校長先生が神主さんだったから。寺町の四条を下がったとこに、神宮街西海ってね、御宮さんがあるんです。そこの。」</p>
<p>
	<br />
	訓子さんも初耳だったらしく「そんなこと知らんかった。神仏系やったなんて。完全に芸術系の学校だと。」と驚かれていました。</p>
<p>
	<br />
	　</p>
<p>
	３．高島屋のレジスター</p>
<p>
	　「これ卒業してすぐに高島屋いったんやな。お張り子さん。呉服屋さんデパートのね」と訓子さん。</p>
<p>
	　</p>
<p>
	「高島屋へ８年。結婚してみんなやめたけど。高島屋でもいろんなことあった。レジスターしてた。」針子さんではなくレジをされていたと訓子さんも初めて知ったそうです！</p>
<p>
	<br />
	「レジスター。トータルと現金と合わなくなるでしょ。１年間トータルしてね、二千円しか違わなかった。私ほら優秀だってね、特別賞いただきました。お釣り間違えたり、勘定まちがえたりして、普通はねするの。そのころで、二円五十銭？二円五十銭まで間違えば、そっから引かれてね、二円五十銭まるまるはもらえなかったけども。あたしはほとんど引かれる事なかった。」</p>
<p>
	<br />
	高島屋では何年ぐらい勤めはったんですか？と福岡が質問します。</p>
<p>
	「売れ残り売れ残りって何度言われたか、８年ぐらいいました。もう２～３年でね。女の人は。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「店員どうし（で結婚する）とかね。あたしらはレジスターだから、接触する人が限られてたの。」</p>
<p>
	--------------------------------------------------------☆</p>
<p>
	　</p>
<p>
	レジスターのときは勘定が合わず、苦労されたようです。</p>
<p>
	<br />
	「お金のことでしょ。なくなってね、今日は５円たらん。昨日は・・てね、計算部長が言ってきはるの。あたしら一生懸命ね、やってるし、どこで間違ったんか覚えがないの。</p>
<p>
	放送する人がいるでしょ。お昼、お便所に行くときにちょっとかわってもらうでしょ。その人がやったの。あたしは、自分が責任あるから、そんなことできやしません。でも替わった人は・・。あとから調べてわかったからよかたけど。この人はいいことした（レジを替わってくれたということ）わりに、かわいそうでした。しょうがないのよねえ、お金って魅力あるから。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<br />
	４．移動はすべて徒歩～朝は大学、夜はダンスバーへ～</p>
<p>
	　「階段、ここ登ってこられるんですか？」</p>
<p>
	　ヨシさんのお部屋までは、傾斜角40度くらいのすごく急な階段があります。それを毎日自分で上り下りされているそうで・・私たちでも大変な傾斜なのに驚きです。</p>
<p>
	「そうなんですよ。上がり降りしてるんで、足腰つよい。・・自転車のれなかったんですよ。これ勤務してた時の写真で、京都大学の農薬研究所みたいなとこの事務員さんやっててね、そのころにおつかいに行かなくちゃいけなくて、全部歩きで行ってたんです。京大の構内を出るまででも広いのに、ものすごい歩いて、だから足腰強い。」と訓子さん。</p>
<p>
	<br />
	　高島屋を退職されたヨシさんは、お父さんが勤めていた会社で少し働かれたあと、京都大学へ勤めることに。実はそれまでに一度ご結婚され、一人だけ出産されています。お当時では珍しいシングルマザーでした。</p>
<p>
	　京都大学では農薬の研究所のようなところでお手伝いされていたようで、訓子さんも大学へ遊びにったそうですが、実験で使ったゴキブリが瓶いっぱいに詰めて置かれていたりしたそうです。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p style="text-align: center">
	<img alt="17.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/17.JPG" width="200" /></p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	　「京大、農薬施設つとめながら、夜もアルバイト行ってたんでしょ？ダンスホールに、DJみたいな。」とお孫さんがまた面白そうなエピソードを言うと、「それは聞き捨てならないですね」と福岡も身を乗り出します。</p>
<p>
	<img alt="18.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/18.JPG" width="200" /></p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「すぐそばにね、ダンスホールがあって、レコードかけ。ダンスは習わないけど、東山に大きなダンスホールがあって。踊れなくても、見にいけたの。ちょっと高い所から。ダンサーが並んでて、男性の前でちょっとおじぎすると一緒になって踊って。兄がね、見にだけ、自分が踊るのを見せにつれてってくれたの。女の人は踊れなくても、男性が踊れれば何とかなるでしょ。」</p>
<p>
	<br />
	　「そんなん学校に知れたら怒られるでしょ。すぐに辞めたの。晩５時に学校帰るでしょ？もったいないしね、使うってゆってくれるし、二重に働いてね、大学首になったらあれだしね。」</p>
<p>
	<br />
	「そこでね、どんな曲かけてはったんですか？日本の？」と福岡がさらに聞きます。</p>
<p>
	「あたしがかけたやつで。レコード置いてあるのが決まってるからね」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「神山さんてね、旦那さんも奥さんも先生。ちょっとだけね、バイトしないかって。</p>
<p>
	「そんなん両方お仕事されてるときね、眠たいとかなかったんですか？」</p>
<p>
	「何もすることないでしょ。５時に終わって。ご飯食べて。お裁縫習いに行ったりしてたけどね、何にも続かない。それでダンスホール？でも学生さんくるでしょ？学校知れたらって母に怒られてね。」</p>
<p>
	<br />
	「大学はね、先生のお宅がずぐ近くにあるの。母が手伝いに行ってたでしょ？なんかあったら、奥さんが怒ってやってくるの。先生の機嫌が悪いと、ヨシさん何があったの？って怒ってやってくるの。でも先生の気持ちまでわたしわからへんわねえ。困ったけどね。怖い先生でね。大変でしたよ。カケイ先生ていう。奥さんが立派なかたなの。体格はいいし、口八兆・手八兆。電話だって、長いことかけはるしね。太刀打ちできないの。」</p>
<p>
	　</p>
<p>
	　大学にいらしたときのヨシさんのお写真もたくさん残っており、もう102歳になるのに、すらすらと昔のことを思い出して話されていました。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	５．変わったお父さん</p>
<p>
	　「魚屋さんしてたのは？」とお孫さんがうまく誘導してくださいます。</p>
<p>
	「父やろ」</p>
<p>
	「おじいさんがね、天皇さんとかに納めるようないい魚あつかってはったんです、だから、ものの無い時代でも食べるものがまわって。</p>
<p>
	<br />
	「東京の青山に御所があったの。そこへ入るお魚やさんの仕事してたの。父が。監査通知があってね、それがないと御所へ入れないの。カワハチっていってね、お魚屋さんの番頭さんがきて。」</p>
<p>
	　すると生まれ故郷の東京のことを思い出されたのか、</p>
<p>
	「どうして京都行くようになったんかね。近所に伝染病がはやってね、ほとんど１軒にひとりかかってね、私子供でねお腹がわるかって、お医者さんにいかなきゃならないんだけど。宿貸しなの。そこは井戸水で、共同の井戸だったから、伝染が早かったの。うちは宿貸しさんでね、病院に行かずに済んだんです。」</p>
<p>
	<br />
	「神田行ってからね、神田は学生の町でしょ賑やかでね。内職もいっぱいあって。あの、奥さんのね、内職。製本・・本にする、本のね、印刷するでしょ、それを折って本にするのが「折り」っていうのがあった。こう麻糸とおして、してはる人が多かった。</p>
<p>
	神田はサンショウ堂とかユウシカクとか本屋さんがいっぱいあってね。」</p>
<p style="text-align: center">
	<img alt="27-1.JPG" class="mt-image-none" height="196" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/27-1.JPG" width="200" /></p>
<p>
	<br />
	　訓子さんが補足で説明してくれました。</p>
<p>
	「この人のお父さんがいろんなことしてはったみていで、本屋さんにも勤めてはったようなことききました。副業でいろいろしてはったのかも。シマズ（お父さんはシマズ製作所にも勤めていて、その転勤で京都へ来た。）の話でっていうのは、本屋とシマズがタイアップして辞書を作る事業を立ち上げるのに、京都へ来たって聞きましたわ。サンショウ堂やったと思う。辞書の。サンショウ堂と関係ある会社だったと思うの。おじいさんは。お魚屋さんにも出入りしながら。今思い出した。」</p>
<p>
	<br />
	６．長生きのひけつ</p>
<p>
	ヨシさんのお家の近くには訓子さん家族も住んでいて、80歳のときにもひ孫さんをおんぶされていたそうです。訓子さんいわく、食生活も長生きできそうなメニューでした。</p>
<p>
	「ご飯も普通に食べますし、沢山は昔から食べないんで。あたしが物心ついたときから、お肉とかは全く食べない。この人中心の生活だったんで。おじゃこと、お漬もんと、卵と、納豆と、お味噌汁と白いごはん。白いごはんが一番ごちそうなんで。給食でものすごい困ったんです。見たことないもんいっぱい出てきて。豚肉、鶏肉、え～これは何？って（笑）」</p>
<p style="text-align: right">
	<img alt="21.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/21.JPG" style="width: 157px; height: 118px" width="200" /></p>
<p>
	　今でも来客があるときは、必ずご自分で美容室へ行かれるそうで、今日も私たちのためにパーマをあててきてくださったそうです。</p>
<p>
	<br />
	　ヨシさんがいつも言っていることがあるそうです。</p>
<p>
	「そやけど、自分が悪いこと思ってへんだら、いろんなものから悪いもんは来いひんて、自分の気持ちがすごくきれいである事が大事やいうことはいつも言うてました。」</p>
<p>
	でもご本人は「私の人生、行き当たりばったり。」と、はぐらかします。</p>
<p>
	　「そんな、しっかりしたあれは無いんだわ。結局、よく言えば柔順なの。なんでも反発する人あるでしょ。自分の意思ばっかり通してね。あたしはそんな無理なことはしない。相手しない。ずるいのね。そんなことかな。できなかったのよ。自分は。体が弱いっていうあれが頭から離れないで。やりたいことの半分。だから、これしたらどうかな・・と思うともうできなくなってね。」</p>
<p>
	<br />
	「無理なことはせぇへんな」とお孫さんがおっしゃるとおり、無理なこと、ストレスがたまることは愛想してまで付き合わないという信念があられるそうです。実はご兄弟が13人もいるのでご親戚もおおいのですが、気に入らない人とは無理にお話しされないそうです。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「そんなこというてもしょうがないやん～てはよく言ってますけど。生きるということにたいしては。みんなが大事にしてくれたしっていうのはいっつも言ってるし。やなことする人は、前世で借りがあると想いって。以前に、きっと迷惑かけたんやと思ってて。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<br />
	７．おばあちゃんのおかげでみんな生きてこられた</p>
<p>
	<br />
	「みんな、おばあちゃんが一生懸命働いてきてくれたから、公務員ですね。公務員やってきてくれたから。苦しい時も、父親が事業に失敗したときも、おばあちゃんがいたし、どうにか。食べてはこれた。いちばん、公務員中でもいい時代やったと思うんです。みんなのためにも生きないとという想いが強いて。くたばれへんていうのがあるんです。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	　100歳を超えてもご家族と家で暮らせるというのは珍しいです。いまは娘さんと二人暮らしですが、よく訓子さんやひ孫さんも家にいらっしゃるそうです。訓子さんから感謝の言葉が自然に出るほど、家族の絆が強いようでした。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	おまけ</p>
<p>
	「私が長生きするなんて、誰も思ってなかった。小さい時に伝染病でしょ、それ患ってから、弱い弱いと行ってね、めまいがして起きられなかったり、みんなが割れ物にさわるみたいに大事にしてくれた。」</p>
<p>
	<br />
	実はヨシさん、小さい時に一度死にかけたことがあり、そのおかげで何か不思議なところがあったそうです。明治時代の人は生まれてもみんなが大人になるまで元気に育つとは限らない時代でしたから、九死に一生の経験もあったのでしょう。</p>
<p>
	<br />
	　「ちょっとかわった人なんです。幽体離脱的なことがよくあるみたい。よく自分が抜けて外から自分見てる・・とかわりと普通の人みたいで、たぶんその、病気したときに生死の間さまよったりしてると思うんです、死にかけたりとか。ちいさいとき。」と訓子さんも。</p>
<p style="text-align: center">
	<br />
	<img alt="27-6.JPG" class="mt-image-none" height="150" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/27-6.JPG" style="width: 227px; height: 175px" width="200" /></p>
<p style="text-align: right">
	<br />
	　☆--------------------------------</p>
<p style="text-align: right">
	取材　福岡久里奈</p>
<p style="text-align: right">
	編集　　　伊藤舞</p>
<p style="text-align: right">
	(2011.7.3取材)</p>
]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第26回 柴田まつゑさん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.yumephoto.com/ym/ /2011/09/26.html" />
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    <published>2011-09-13T04:51:22Z</published>
    <updated>2011-09-13T05:03:48Z</updated>

    <summary> 	◆ご家族 	現在は高砂に住んでいらっしゃるまつゑさんも，生まれは港野村で小学校２年生まで住んでいらっしゃったそうです。 	お父様は港の息子で船乗りをされていて、男やからということで松山という石の出る山の石を港へ馬で出したものを大阪・九州...</summary>
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    </author>
    
        <category term="第21回～第30回" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yumephoto.com/ym/ /">
        <![CDATA[<p>
	<strong>◆ご家族</strong></p>
<p>
	現在は高砂に住んでいらっしゃるまつゑさんも，生まれは港野村で小学校２年生まで住んでいらっしゃったそうです。</p>
<p>
	お父様は港の息子で船乗りをされていて、男やからということで松山という石の出る山の石を港へ馬で出したものを大阪・九州まで運ぶお仕事をされており，お母様も中所で店屋の娘さんだったそうです。男３人，女２人の５人兄弟だそうで，まつえさんが長女で他に次女，三男・・他の男２人兄弟は戦争で亡くなったそうで，現在はまつゑさん以外お亡くなりになってしまったとのこと。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<strong>◆少女時代の思い出</strong></p>
<p>
	～港町での思い出～</p>
<p>
	小２までいた港町での思い出があったそうです。</p>
<p>
	「船場の船へ遊びに行ったときに子供時分やから男女一緒に遊んでいるとき海にはまった。友達のいくえさんが池にどっぷんとはまったが沈んでしまわず浮いてきた。はまって沈んでいたら長生きできなかったかもしれない。忘れないで今でも覚えてる。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	～学校生活について～</p>
<p>
	小２からは今の中学校の当時裏門の近く（に住んだ。）</p>
<p>
	「小学校は男ばっかりの中、先生に優等まではいかないがまぁまぁ勉強ができるので学校の先生になったらどないと言われたが学校へ行かせてもらえなかった。女の子は学校をよく休ませられるし、勉強は必要ないといわれていた時代だった。」</p>
<p>
	そんなまつゑさんは書道がうまく字がきれいな方なのですが，学校は小学校だけ卒業して後は裁縫を習ったそうです。その裁縫はお嫁入りの糧になったのだとか。好きな科目は特にないそうです。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<strong>◆お仕事について</strong></p>
<p>
	学校出てからは、様々なところでお仕事をされたまつゑさん。</p>
<p>
	「家にいるうちは何もわからないからといって、２０歳なってからは女なので何年か奉公に出される。今ならば紹介状書くが当時は口で言ってもらった。向こうも置いてもらって裁縫がよくできるからといって良くしてもらった。大阪でいいところで、電車の通らないいい町だった。」</p>
<p>
	また他にもこんなところに。「父親の弟が大阪にいたツテでいい家やったが出戻りして、またいいところ探した。あちこち女中に行った。つらいことはないが楽しいこともない。裁縫が得意なので重宝がられました。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<strong>◆ご結婚そしてご家族と出会い</strong></p>
<p>
	実家に帰ってきてからは縁談ができて結婚されたまつゑさん。</p>
<p>
	２２、３歳頃に飾磨に嫁いだそうです。</p>
<p>
	旦那さんは飾磨で船を管理する事務員だったそうでまつゑさんは旦那さんのことをこう語っておられました。「役所ではないが真面目な職場へ行きたかったのでちょうど事務員はあっていた。不景気になって、頼んでおって小学校だけしか勉強できてないけど美男やからべんりにおいてもらった。その後市役所で定年まで置いてもらった。運が良かった。」</p>
<p>
	お子さんは全員で男３人女１人の４人兄弟。長女については「長女近くにいてくれるのでありがたい。朝来ていっぺん帰って昼来てみんなほしいもん持って来てくれて、昼ごはんも作ってくれた。どれほど頼りにしているか。」と本当に喜んでいらっしゃいました。</p>
<p>
	とここで、今生活されている状況を少し話してくださいました。「お医者さん近所で親切にしてもらって、さみしいときもあるけど一人に慣れている。だから今日来てもらったのはうれしい。」そう言って，カバンから何か作品出してくださりました。</p>
<p>
	手先が器用で，包装紙まるめて作った作品を何百個もお持ちで，どうやら遊び用にお手玉も作られるそうです。筆者に対しても「お手玉持って帰ってもらおか。チラシを丸めたり、牛乳パックで出来たかごも何百個もこしらえた。何月何日何個と記録。いろんな事してはったが今は中々できない。じっとしているのが厭。」手先動かすと頭が活性化するのだそうです。</p>
<p>
	<img alt="25-01.jpg" class="mt-image-center" height="210" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/25-01.jpg" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="300" /></p>
<p align="center">
	まつゑさんの手作り作品</p>
<p>
	<strong>◆戦時中</strong></p>
<p>
	　続いては戦争中のお話をしてくださいました。</p>
<p>
	「戦前・戦中はお米が配給になっていた。防空壕の中から姫路の空襲を見た。きれいかった。焼夷弾も落ちてきた。」今では考えられない光景で、大きな赤い玉が落ちてきて姫路丸焼けになってしまい、その時まつゑさんはご主人とすごされていたようです。「終戦後は不自由で食べるものも十分とは言えない状態で、お米は闇市に買いに行く。」そう言っておられました。</p>
<p>
	ご兄弟は長男・次男と戦争に出されたそうで、お１人は独身だったもののもう１人のご兄弟はお嫁さんとお子さんが２人（３歳とお腹の中に赤ちゃんがいた）いらっしゃったがお２人とも戦死されてしまいました。「子供の時分に変なもんを食べさす、不自由な思いを子供にさせた。ありがたいことに手術してもらってええなぁええなぁと言われた。　施設に入れない人もいっぱいいてはる。」</p>
<p>
	その後もまつゑさんはお勤めには行かず、女中奉公と子育てに励んでおられました。上３人が男の子だったの１番上の娘さんが出来たのがなんと４５歳の頃だったそうです。</p>
<p>
	<img alt="25-02.jpg" class="mt-image-center" height="210" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/25-02.jpg" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="300" /></p>
<p align="center">
	当時のことを思い出しながら・・・</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<strong>◆まつゑさんの悲しかった出来事</strong></p>
<p>
	「悲しいことはいろいろあったけど言わない、それは自分の心に置いておく。」そう言っておられたまつゑさんも、徐々にお話してくださいました。</p>
<p>
	一番の悲しみは、姫路にある兵庫カネボウの会社、副社長の方の家の奉公においてもらった時のこと。そちらの奥さんに、</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「あんたなんて出ていけ。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	「奉公に行っていて、離婚して私も帰ってきて主人が女を隠しているのが分かった。奉公先に姑さんから手紙をもらって居場所がばれて、姑さん私のいるとこ知ってしまってすぐに姫路にとんでいくって手紙が来た。向こうの子供が死んでしまったと・・。」</p>
<p>
	姑さん「うちのもんや」と長男を取り上げられて生んでしまって帰ってきてからは、あちこちに奉公に出された。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	また、まつゑさんは女の子が欲しかったということで人形を作って寝床に置いておいたそう。途中、意にそぐわない人とお見合いで１回会っただけで結婚させられました。「騙されていたからその当時も子供出来たけど、『向こうの子やから、迎え行かなくてもまた子供出来たらその子のことは忘れるのできれいに諦めろ』と言われた。」</p>
<p>
	「たまたま姑さんも若い時そこで奉公していたために知らないはずの住所を知られてしまい、いろいろ言われてしまった。」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	結婚されてからも辛かったことが多く、悲しかったが言わないで自分の中に納めていたというまつゑさん。「皆それぞれ違うもの、現在子を放っておいて他のとこ行ってたらまた違ったかもしれないが・・。」</p>
<p>
	人に言えない苦労もたくさんされたそうで、「姑以外に舅・小姑もみんないた大家族で、似たようなこと言われた。里の親は怒り、奉公にいかんで帰ってこい、(そんなとこに)よう置いとかんと言われた。これは明治時代には珍しいこと。｣身近なご主人はお人好しでおとなしくも、娘に愛情を注いでおられたようです。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<img alt="25-03.jpg" class="mt-image-center" height="210" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/25-03.jpg" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="300" /></p>
<p align="center">
	｢今は幸せいっぱい。｣そう語るまつゑさん</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	<strong>◆現在</strong></p>
<p>
	先程のお話にも出られていたご主人は７４歳でお亡くなりになりました。</p>
<p>
	来年で３３回忌を迎えるそうですが、｢２５周忌したときはここまで生きていられると思わなかった。人間は本当に生きているのではなく生かされている。こんなもんです。｣</p>
<p>
	まつゑさんが落ち着いたのは姑さん亡くなってからで、亡くなる少し前から神道に信心されるようになり、お稲荷さんの門徒に。｢門真の大祓、土砂払い３段を中央線よりお寺さんに人形を中に結わえて進められて奉納、東京の方へ毎週もう今年２万の人形が葬られてね。手も足も不自由だと聞いてきたのでお箸も作って、その時には勧められて着物に紋付の羽織り・袴を自分の買った。それが私の当時のパワー。｣</p>
<p>
	最近の楽しみはとお聞きしたところ、｢TV見るとしたら新婚さんいらっしゃいかな。折り紙したり&hellip;最初の４つ折りを綺麗におるのが大事。食べるものはなんでも好き。｣とお話され、こう続きました。｢牛乳と牛肉豚肉は四本足信仰のために山椒。お産の時けがれているので。｣と。</p>
<p>
	まつゑさんは結婚してからというもの、辛かったこと口に出したくない言いたくないことや悲しくて言ったら泣けてくることばかりの波乱万丈な人生で、今はもったいないとおっしゃられています。｢妹がえらかった。三男の嫁の親は家庭良かったから最期になっても幸せ。｣そう言うまつゑさん、現在は孫は６人でひ孫は９人、ひひ孫は１０人おられるそうです。まつゑさんが生きてこられたからこその現在のご家族がいらっしゃると思うと、尊敬の念で頭が上がりません。</p>
<p>
	｢今まで生きてて一番嬉しかったのは１００歳の誕生日祝ってもらって、総理大臣に来てもらって。立派に生きてこれたと思う。ただ、去年長男が亡くなったのは悲しかった。最後の別れはよういかんかった。今は幸せいっぱい。お米好みのもんおいしいごはん食べれる。｣　　　　　　　</p>
<p>
	長い時間お話聞かせていただいた最後に｢自分ひとりでは生きられません、幸せいっぱいです。｣と一言、まつゑさんはおっしゃられました。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	◆編集後記◆</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	何が幸せかというかはその人にしか分からないものですが、「幸せいっぱいです」と言えるまつゑさんはきっと一生懸命そのときそのときを生きてこられたからこそ出てくる言葉なのだろうと感じました。私もそんなまつゑさんのような強く美しい女性になりたいものです。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p align="right">
	&nbsp;</p>
<p align="right">
	取材：林さゆり　記事編集：福岡久里奈　取材：2008年</p>
]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第25回 中野 トシエさん</title>
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    <published>2011-07-27T08:21:46Z</published>
    <updated>2011-08-01T00:48:20Z</updated>

    <summary>はじめに 取材日は、お天気がよく、風のきもちいいい日でした。敬愛園は、芝生や木々や草花のある大きな中庭を囲むようにして、建物が作られていました。園内はまぶしすぎず、日陰すぎず、心地よい風が吹いていました。 今回、ご紹介する「中野トシエさん」...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yumephoto.com/ym/ /">
        <![CDATA[<p>はじめに</p>

<p>取材日は、お天気がよく、風のきもちいいい日でした。敬愛園は、芝生や木々や草花のある大きな中庭を囲むようにして、建物が作られていました。園内はまぶしすぎず、日陰すぎず、心地よい風が吹いていました。<br />
今回、ご紹介する「中野トシエさん」は、筆者のおばあさんでもなければ、親戚でもありません。友人から紹介してもらったのですが、初めてお会いするので、しっかり取材しようと緊張していました。・・・しかし！実は、敬愛園では、入居者の方々の想いでや人生談などを、順番に取材されており・・それらが掲載された「敬愛園だより」をいただきました。以下の記事は、もちろん敬愛園だよりも参考に書かせていただきました。本当に、敬愛園だよりがなかったら、どうなっていたかはわかりません・・。<br />
はじめは、洗濯場にてお話を聞かせてもらい、トシエさんのお仕事が終わると、お部屋へ移動してお話を聞きました。<br />
それでは、中野トシエさんの紹介にまいりましょう。</p>

<p>中野トシエさん～これまでの人生～</p>

<p>※以下のお話は、参考文献①～⑤と聞き取りをもとに作成しています。また、聞き取りと筆者の方言能力をもとに、現在のトシエさんの語りべ風に綴っています。</p>

<p>(1)育ての母ノエ と百姓しごと<br />
生まれはね、大東町こおでん村。阿原山っていう富士山みだいに立派な山があるの。一ノ関(いぢのせき)から大船渡線(おおふなどせん)さ乗って、千厩の手前で降りるの。そって、馬車で３時間行ぐとあったの。<br />
父親(ちぢおや)は千葉孫ェ門。母親はミドリ。私は三番目の子で、お兄さん一人、お姉さん一人いだの。兄弟４人あって、みんな死んでしまったの。おればり生きて・・(苦笑)。「家は昔、殿様が陣をとる場所として使われたんだと。大きな家だったもの地主さね。」(文献①から引用)</p>

<p>母親は三歳のどきに病気で亡ぐなってね、姉とおばあさんが母親がわりだったの。だがら、お母さんの顔は、ぜんぜん覚えてぃねの。とっても大切にしてもらっだの。んでも、近所のお母さんだち見ると、うんと羨ましかったの。涙が出るほど。そって、５歳のどき、新しいお母さんが来られだの。「ノエ」という人。その人はもともと近所さ住んでだ人だったがら、兄弟みんな安心したの。カラカラ菓子だのねじりっこだの、黒砂糖だの食べさせてもらった。明るぐて一生懸命な人でね、うんと大事にしてもらって、おらだぢも手伝いしたの。</p>

<p>家(うぢ)は百姓でね、養蚕あづかいから田、炭焼きどが、なんてもやったの。馬も４頭いだった。いっそ働いでばりいだの。馬に草刈ってかせたり、蚕あづかいだの面白かった。あだ、田植えのときは、苗(ねぇ)さ小豆まんま(赤飯)５個あげて、赤いタスキかげで、十人もそろって歌うでぇながら植えたった。兄弟みんなで苗運びもひて、楽しがったよぉ。<br />
<img alt="25-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/25-1.jpg" width="130" height="223" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>あだ炭焼ぎもやった。「一釜から15俵位とって、その炭を4俵ずつ馬の背さつけで、山道坂道を三時間かかて岩谷堂まで売りに行ったものでした。」(文献④から引用)</p>

<p>子供のころ大変だったのは、雪道(ゆぎみち)。小学校さは四年生まで分校さ通って、あだ本校さ通っだの。往復(おうふぐ)２時間。雪(ゆぎ)降れば、向こうが見えねぐて、泣ぎながら通ったった～。</p>

<p>(2)13歳で糸とりへ<br />
小学校終わってから(推定13歳のとき)、一ノ関(いちのせぎ)に「糸とり」に(一ノ関の紡績工場へ)行ったの。糸とりわかっでる？あの、あっついお湯で、(蚕の繭を)煮だった。「一年に二百円位稼いで仕送りしたの。」(文献①から引用)一ノ関(いぢのせぎ)とこおでん村はうんと遠かったの。<br />
成績良ぐって、何回も名前呼ばれだった。「賃金は高くて皆と競争だったね。」(文献①から引用)<br />
14歳のとき、繭の試験やったった。一番良い繭は群馬県の。とっても取りやすがった。岩手県のっは、すぐこぼれてしゃんた。寒いどごとのだがら。</p>

<p>ひて、初めての給料で、おばあさんと母親に、反物買ってあげたの。(二人が)うんと喜んでな～。おら恩返しのつもりだったども、「今でも思い出されて、泣がさる時もあるよ。」(文献②から引用)とっても良い母親さ巡りあえで、幸せだった。ほんとに。</p>

<p>(3)20歳で結婚・・東京・お茶の水の思い出<br />
七年務めで、ハタチのときに、嫁に行ったの。おんなじ村の人ど。旦那は・・おれはハタチだったがら23歳(しゃい)だったの。ひて、村さ帰って(けぇって)農家をやったの。<br />
長女が生まれでから、夫っは仙台に二年、東京さ三年働ぎ(はだらぎ)に行ったの。そひて、次女が生まれで、ずっと村さいだったども、村の人達(ひだち)が「離れてるのは良ぐない」って東京さ行かされだの。<br />
<img alt="25-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/25-2.jpg" width="346" height="228" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 0px;" /><br />
<div style="text-align: center;">画像：当時の東京(Google画像より、昭和初期の上野広小路周辺の画像</div></p>

<p>東京の神田。タイプライターやったの。スタータイプライター。御茶ノ水の駅前のビルで。それの、ご飯炊きしたの。あたしもこれやった。ふふ。御茶ノ水の駅前のビルで働いだ(はだらいだ)った。一階はタイプライター、二階はタイピスト。「産まれだばかりの赤ん坊抱いてな・・・それはもう、大変だったよ。」(文献⑤から引用)そんなごどしてきたの。<br />
四年いでね、子供二人あってがらね、帰って来たの。ほって、離婚されだの。・・旦那に別の人がでぎで。長女おいて、村さ帰って来たの。お腹のながには赤ん坊がいたの。9カ月。ひて、帰ってきたらば、次女が亡ぐなってしまって・・。男の子生んで八歳まで育でだども、東京の人さ取られでしまったの。跡取りにするって。「私は気が狂いそうになるくらい泣いたよ。」(文献①から引用)んでも、東京で子供ができだら、(元夫は)その子を跡取りにしたの。今っは、息子も幸せに暮らしでらがら安心してる。</p>

<p>やっぱ今も、東京に行ってみだい。ふふ。</p>

<p><img alt="tokyo.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/tokyo.jpg" width="776" height="150" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /><br />
<div style="text-align: center;">画像：現在の東京(筆者がＪＲお茶の水駅周辺にて撮影)</div></p>

<p>(4)30代後半で歳の差結婚・・北上でリンゴ売り<br />
離婚されでね、村さ帰ってきたらば、村の人達(ひだち)、山のくだへ出でたの。見さ。案じて。泣いて来るど思ったら、笑って来た。ふふ。みんなさ心配してもったのは、うんと嬉しかった。<br />
そのあとね、どごさも行ぎだがないがらね、６年(ろぐ年)一人いだの。家(うち)で。馬あずかって。百姓して。そひて、ろぐ年、一人でいだの。そやっでね、ろぐ年一人でいでね、北上に(お嫁に行った)。離されで。お父さんがね、どこにもいがねば、かまね、ほって行ったの。泣ぎながら行ったの。<br />
北上の旦那は、60歳・・へへへへ。歳とったひと。おれは、30すぎだったんだな。「夫は立派な人で、私には決して苦労させなかった。」(文献①から引用)<br />
北上でも、やっぱり百姓。リンゴだのね、あだ・・あ、リンゴ三反分、・・田は一丁三反分。・・なんぼだがわげわがんね。はは。</p>

<p>北上でも辛いことは、うんとあっだの。三日間寝込んだごどもある。んでも、「これではわねっ」と、なひてもやったった。「色んなこと経験したから、辛いことも大変なことも、苦だと思わねで生きてるの。何があっても、笑ってればいいのだ。アハハ。」(文献⑤から引用)</p>

<p>北上では、40歳すぎに、女の子ひとり生まれたの。そして、男の子ひとり、跡取りに養子もらっで、いま、東京の読売にいる。</p>

<p>なんってもやって、いっそ働いだの。リンゴはニ十貫※1(かん)リヤカーさつけで、ひっぱって歩っだの(ありっだの)。二十貫てね、箱に五貫入れてね・・こういう箱、おきい箱、五貫入り、四つつけて歩ったの(あれったの)。んだがら、ひざ悪ぐ(わりぐ)なったの。<br />
関節だけ。未だに悪いの。三年注射したの。んで、治らねの。三年注射してね。あだ死ぬばり。死ぬの待ってんの。ふふふ。</p>

<p>※1「貫」とは「尺貫法の重さの単位。一貫は1000匁(もんめ)、すなわち3.75キロで、明治24年(1891)から昭和33年(1958)まで商取引で用いられた。」(デジタル大辞泉より引用)</p>

<p>(5)ひざを悪くして、敬愛園へ　※この文章の「」は文献③からの引用です。</p>

<p>―――40歳頃から、現在のお住まい「敬愛園」にいたるまでの事は、あまり覚えていないようで、いきなりですが、40歳すぎで養子をもらったとことから飛んで、75歳で敬愛園に入居された頃からお話しようと思います。―――</p>

<p>75歳のときに、雫石の松寿荘から、敬愛園に来たの。ひざ悪くて(わりくて)。ここは、楽しい。よいどごだね。まず、ここの人達(ひだち)はみんないい人だおね。そこ(中庭の)さ、うんどいいどこもあるの。もみじ。きれいでしょ。そこの、まるっけぇの(丸いの)。</p>

<p>こさ来たばっかりの頃は、ひざ悪くて(わりくて)、『「このまま歩けなくなってしまうのでは・・・」と考えると夜眠れない日が何に日もありました。』　ほって、毎朝、中庭の観音様拝んでがら、マッサージをしたの。足の裏のつぼを押しでがら、ひざをもむの。<br />
『その時は京都の観音様から教えられた言葉を一心にとなえながらもむんだよ。<br />
「我が手にしては　我が手にあらず　この世にかくれます　しくなしこの神(医者の 神)　この苦手をもって　慈悲時は　いかなる病も　慈悲ざることと思う」』<br />
こしてマッサージすると、うんと良くなるの。</p>

<p>あだ、歳とれば腹さ肉つくがら、自分流の体操しだり、「朝と昼のラジオ体操も欠かさずしています。」　ほれから、あんべ悪いどごあれば、神社の狛犬さおっつければ、治るもんだ。「まんずやってみらいん。」</p>

<p>おらはね、人の「ざんぞ話(かげ口)」しないの。昔、ざんぞ話ばりする人がね、京都の観音様だ、痛い(いだい)どこ治してけろって言ったら、どごも悪いどごねって言われただの。「観音様は人の心までも見透す力もってるんだ。んだから、私は人のざんぞ話語るより、観音様ながめてる方がいいんだ。」</p>

<p>(6)365日、毎朝のたたみ物がお仕事☆<br />
いまは、ただみもの(洗濯物たたみ)・・仕事してら時がいちばん楽しい。だってねぇ、話する人もいないし、みんなぼげだ人ばりだし(同じ部屋の方々は、みなぼけが始まっているそうで、話し相手がいないらしい)。一日だまーーーーーーって過ごすことも多いの。ふふふふ。<br />
ただみものはね、こさ来てからずっと続けてるの。365日。毎朝。「いっぺ働いたから、膝の関節悪くしてしまって、今もたまに痛むけど、少しでも役に立ちたくて、 毎日洗濯物たたみしてるよ。働かねと体あんべ悪くなるもんや。これからも体動く限り、働くよ。」(文献⑤から引用)<br />
あの人達(ひだち)(施設の従業員さん)、おれさ気ぃつかってんの。うんと喜んでんの。手伝ってもらって。ふふ。</p>

<p>夫はね、ここさ来る前に、亡ぐなったの。子供もね、みんな死んでしまったの。孫は、仙台、横川目、花巻さいだ。ちょうど一昨日来たったよ。</p>

<p>今までの人生で、楽しかっだごとは、なんぼもあったの。辛かったごども、なんぼもあったの。んでも、なにあっても、大変だと思わない。何あっても。思わない。ふふふ。ばがだがら。</p>

<p><small>◆◇◆参考文献◆◇◆<br />
中野さんが暮らしている特別養護老人ホーム敬愛園さまから頂いた、同園が作成している「敬愛園だより」から、中野さんへのインタビュー記事を参考に、上記の文章を作成いたしました。具体的には、以下の記事を参考とさせていただきました。</p>

<p>①題名：「道程 口では言われぬ苦労してきた」,<br />
聞き手：遠藤良子さん,とき：中野さん75歳</p>

<p>②題名：「野の花のように 母の想い出」,<br />
聞き手：金野雅子さん,とき：中野さん77歳</p>

<p>③題名：「生きる 身体痛くても毎日動かしてるとあんばいいいよ」,<br />
聞き手：佐藤美智子さん,中野さん77歳</p>

<p>④題名：「ふるさと 興田村・阿原山」,<br />
聞き手：高橋尚美さん,とき：中野さん78歳</p>

<p>⑤題名：「あの頃は・・・ 30代のころ 東京のお茶の水で 」,<br />
聞き手：佐藤佑香さん,とき：中野さん98歳 </small></p>]]>
        <![CDATA[<p>トシエさんは、車椅子の乗り降りや、車いすで歩くこともご自分ででき、すごかったです。なにより、もうすぐ99歳になるというのに、はきはきお喋りをされている事に驚きました。<br />
トシエさんの履いている、かわいいミニーのスリッパは、近くのアメリカンワールドで購入した・・という話で盛り上がったり、「いちばん楽しかったことは」という質問には「離婚されだごど(東京の人と離婚したこと)」と、冗談のような事をおっしゃったり。<br />
すごくお喋りの方はしっかりできるので、耳が一年ほど前から聞こえづらくなった事が、とてもつまらないとおっしゃっていました。<br />
それから、敬愛園に来てから23年間、毎朝ずっとお仕事を続けられている・・トシエさんならではなのか、明治の方だからなのかは分かりませんが、いまの私達にはない部分だと感じました。<br />
トシエさんの部屋の机には、お花屋写真、賞状がたくさん飾られてあり、敬愛だよりに四回も取材されたこともあわせて、これまでのトシエさんの歴史を物語っていました。<br />
そして、最後に「丈夫で。これがらの人だがら。これからのひと。あんだは。丈夫で。」と握手しながら私に言ってくださったのが印象的でした。<br />
はじめて会った私に、そこまで気遣いをしてくれる・・・歳をとるごとに思いやりのあふれる人間になりたいと思いました。</p>

<p>謝辞<br />
まず、敬愛園を紹介してくださった、友人の根子さん、根子さんのお母さま、ありがとうございました。<br />
そして、快く取材をさせていただいた敬愛園のみなさま、ありがとうございました。<br />
中野トシエさん、つたないインタビュアーである私に、たくさんお話をきかせて頂き、ありがとうございました。<br />
また、この記事が出来上がったのは、中野さんが敬愛園に入居されてから、敬愛園だよりにて取材をしておられた園の皆さまのお陰です。<br />
今回、こうして、中野さん98歳までの時点での人生をまとめることができ、幸せに思っています。<br />
私事ですが、98歳という、かなり高齢の方にお会いするのは初めてのことでした。<br />
神様にでもお会いするような気持ちでした（笑）。<br />
こんな素敵な機会を与えて下さった皆さまに、とても感謝しています。</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>第24回 佐々木 フチさん</title>
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    <id>tag:www.yumephoto.com,2011:/ym2//16.272</id>

    <published>2011-07-27T08:17:22Z</published>
    <updated>2011-07-27T08:19:42Z</updated>

    <summary>インタビューは、平成 20 年 4 月 17 日、同居の娘様の家（西宮市上大市 5 丁目）で朝 10 時半からおよそ 1 時間半行われた。娘様とご近所にお住まいのお孫様も同席されたが、途中でお孫様はお子様を幼稚園へお迎えのため席をたたれた。...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yumephoto.com/ym/ /">
        <![CDATA[<p>インタビューは、平成 20 年 4 月 17 日、同居の娘様の家（西宮市上大市 5 丁目）で朝 10 時半からおよそ 1 時間半行われた。娘様とご近所にお住まいのお孫様も同席されたが、途中でお孫様はお子様を幼稚園へお迎えのため席をたたれた。そのお孫様のコメント通り「ひ孫と合わせて女４代仲良く」すごされている。</p>

<p>佐々木フチ様のプロファイル：<br />
明治 44 年 3 月 20 日に 鹿児島県姶良郡 で 7 人兄弟の 6 番目として誕生された。昭和 10 年 25 歳のときにご結婚、 7 人のお子様を育てられた （うち一人は幼少時に死亡） 。ご主人が結核を患われたので、炭焼きや行商をして家族の生計を支えた。９３歳まで 鹿児島県 でひとり住まいをされていたので、関西に引っ越されたのは４年前である。今も、漢字、クイズ、ことわざ、熟語などに興味がおありで新聞を読むのを日課とされている。 【あらゆる種類のスポーツをテレビで観ることを楽しみとし、特にプロ野球・高校野球はデータを覚え、熱を入れて応援している。】 また、ご本人曰く「感謝するのみ」を信条に日々をすごされている。「小さいことでも、たとえ 1 センチでも人の喜ぶことをしてからしゃばにおさらばしたい」とおっしゃったのが非常に印象的であった。</p>

<p>＜女 3 人で農業をして自給自足＞<br />
お話はこんな言葉で始まりました。「やっぱりこんなに長く生きておればね、一生の間には面白いこと不快なこといろいろあります。」お生まれは「 鹿児島県姶良郡 栗の町米永...はあちょっと田舎ですね。町から 1 里余りあるところ。農家です。みんな農家」。お誕生日をお尋ねすると「明治 44 年 3 月 20 日」「農業専門にやりましたです」と、きっぱりとおっしゃいました。</p>

<p>16 のときに父が亡くなりましたから、それから女 3 人でね。農業をして、 自給自足みたいなふうで。姉がですね、いっぺん結婚しましたけど、ちょっと病気になってね、離縁せられてそれからずっとうちにおりましたです。長男はもう分家してね。私たちは『隠居』みたいにしておりました。 もう、やっぱり農家は難儀をしますから。男の子ら力持ちの仕事ですからね。その頃は機械がなんにもないしね、もう自分の体でやっていきましたから。</p>

<p>＜バトンの継ぎ方なども繊細に詳しく勉強するもんでした＞<br />
フチさんの学校生活でのトピックは二つありました。高等小学校で短距離の選手として走ったことと中等公民学校へ通学できたことでした。「お勉強が好きだった。やっぱり字とは親しみがね...」とおっしゃるフチさんですが、実はリレーの選手だったそうです。</p>

<p>その頃に連合運動会というてね、隣の村と連合して大運動会がありよったです。そのときに選手で出てね。私は短距離でしたからね。バトンの継ぎ方なども繊細に詳しく勉強するもんでした。それは非常に先生がやかましくいうてね。時間的に躊躇せんように順調にいくように継がにゃいかん。そりゃ難しいもんでした。 6 年まででした。高等小学校に来たらもう、顔見知りでしょう。スポーツの選手でね、リレーで、「あんたも選手じゃったなあ」って。そん時にはもう体が肥えてきてね。だめでした。ほか分校の人たちが優秀でしたなあ。それで、スポーツの走るのはあきらめました。</p>

<p>明治から昭和戦前期の学校制度では、多くの人は尋常小学校（義務教育）で 6 年間、次に高等小学校で 2 年間学習しました。ただ、「男子は 3 年がありましたけど」といわれるように男女間の差はあったようです。フチさん自身はさらに、家から歩いて 1 時間 10 分かかる、衆目「憧れの」中等公民学校へ進まれましたが、 2 年制のところを 1 年で断念されました。「もう 1 年出たかったけどねえ」と述懐されています。</p>

<p>その町内で補修学校というて、 1 級上の学校がありましたもん。それが中等公民学校というて 2 年制でしたから。それにも 1 年間出ました。 裁縫科と中等科があって。...高級なものばっかり、布団とか、男物の袴、 2 枚重ね、和服では高級なものばっかりやったもん。それに材料が続かなかったですもん。もうそういう材料がそろえられんかった。その頃はね、袴を着て、下からこう、裾 12 センチくらい（のところに白線があって、そのことを蛇腹）蛇腹をつけているもんじゃから、すぐ一目でわかるんですわ。その学校にみなあこがれてね、みんなあれに出たいなあ出たいなあって羨望の的でした。財政がやっぱり農家はきつかったですからねえ、...。町で女学校へ行った人 3 人、優秀でお金持ちの財産もちの人が女学校へ行った。それだけ少ないもんでした。</p>

<p>＜私が一番ひがんだのは器量がまずいことで...＞<br />
フチさんが結婚されたのは 25 歳のときで当時では比較的遅い結婚。フチさんは「もうこんな器量が悪いからみんな好まんかったんでしょう」と言われましたが、実は和歌山の紡績工場で働いていたお姉さんが結核を患われて、その方の看病に行かれたことも遅い結婚の一因ではないかと娘様が説明してくださいました。フチさんは 7 人兄弟の下から 2 番目だそうで、一番上のお姉さんはたいそう別嬪で順調にご家庭を築かれたそうです。</p>

<p>あんまり兄弟が多いもんだから、気のきいた兄なんかね、海軍に 2 人行きました。それが全部勉強してね、恩給つけて帰ってきました。海軍でも 勉強して学校に行かんかったら恩給はつきませんもんな。...その学校に行って普通科と学校卒業したらここにつばがつくんですわ。...つばのある帽子、 3 等兵曹 2 等兵曹、つばがつくようになったらいつ退職しても恩給がつくんですよ。すぐ上の兄なんかね、学力なんかあんまりなかったけどな、上官の機嫌取りが上手だったから...。</p>

<p>大正時代か昭和初期、独身だったフチさんは整形手術のことに興味を持たれたそうで、正直これにはたいへん驚きました。当時、劣悪な紡績工場での労働で結核を病む人はたくさんおられたそうで、本当に「野麦峠」の世界だと娘様が教えてくださいました。フチさんは、命がけで肺病のお姉さんの看病をされました。</p>

<p>7 人のうちで私が一番器量がまずいんですわ。ほんとまずいです。鼻もこんなね、団子鼻でね。...私が一番ひがんだのは器量がまずいことで...。 （結核になった）上のお姉さんは別嬪さん。...鼻が一番安いそうですわ。 あれやったら私やったらできるかなあ。整形の鼻がね一番安くて 20 万でできる。いいなあって思ったよ。...姉さんの看病に行きましたもんですからね。姉をひとり置いて帰られなかったですもん。見捨てられなかったですもん。自分も肺病（感染して）で死ぬんだなあって思っておりましたもん。...もう、紡績に行ったら年中綿のごみがしてなあ。結核にうつる人が多かったもん。引き取って家にかえってなあ。会社で死にたくないというてねえ。親の人たちが呼んで家に帰ったら、兄弟 2 ・ 3 人やられとったです。伝染してね。...（自分は器量が悪いから）自分の何でもやられることは自分で努力して負けないという気がありました。器量はもうどうすることもできないけど...やっぱりそういう負けない気があったから、今でもこうだらだら長生きしているんでしょう。</p>

<p>さて、頑丈で負けん気の強いフチさんが生きられた青春時代は大正デモクラシーを想起させてくれます。</p>

<p>その頃はね、あのう、もう、独身が非常に推奨されていました。頭のいい人はですよ。女の人は自分は独身で暮らそうかといって雑誌などにそういう風潮が...職業婦人がね、えらい頭の人は産婆学校にいってなあ。 議長なんかした人はなあ。主席だったもんなあ。あたしたちの頃はまだ男子 7 歳にして席を同じうすべからず。男でも女でも卒業して優秀な頭の人は役場に努めておりました。そのころ月給が 1000 円でしたもん。...　1000 円では暮らされなかった。でもその頃に役場に勤めていた人は、今頃もう退職金をもらってね。退職金が 2000 万。非常にええもんじゃ言うてね　市民が嫉妬心起こしてねえ。...でも、月給がたった 1000 円 でしたから、その頃はみな喜びはせんかったですわ。たった 1000 円 くらいで暮らせるもんかということでしたからね...。</p>

<p>＜伝染するから町におられんから山の上に上がって炭焼きをしておった＞<br />
フチさんが結婚されたのは昭和 11 年。農家においては「 1 年間働いて自給自足でやっと 1 年間食べるものをつくりだしたらいい」という時代だったそうですが、ご主人の家業は羽振りのよい樟脳の製造販売業でした。九州の山のくすのきを買ってチップにして蒸留する。 1 回の出荷で大きな現金収入を得ていました。お金持ちでしたが、一切田畑を買わないで山から山へ転々とした生活をされていたそうです。</p>

<p>農家は一年中苦労してわずかなお金。あのひとたち（ご主人側）は農家はきつかなあとわろうておりましたよ。</p>

<p>ご主人は「九州でナンバー１」の仕事師だったそうですが、ところが結婚後すぐ兵隊で満州に行かれ、 3 年ほどで「結核」を患ったため帰国されました。その後、 5 年間は療養生活を余儀なくされました。</p>

<p>腹膜と結核を患って除隊になって帰ってきましたわ。第 1 線、広東上陸の第 1 線に立ったんですわ。... 5 年間、労力はもう 5 年間何にもせんかったですわ。そのとき、なんもかんも全部売ってしもうて食べるのに困った。</p>

<p>それで、「伝染するから町におられんから山に上がって炭焼きを」始められました。それはもうたいへんな重労働をされたそうですが、末の娘様が学校に上がられるときに山を下りて行商を始められました。自転車もなかった当時、箱や袋に食料品を詰めて背中に背負って雪の日も売り歩かれたそうです。</p>

<p>あらゆる難儀労力をしましたからね。頭で何か商売でもしようかと思ったら上品な高級なあれでなければいけなかったからね。原料を仕入れるか金がなかったからね。 8 人の家族が明日の食う米に苦しんでおればもう、手っ取り早い食料品でなかったら...資本はないし家族の人数は多いし、てっとりばやく朝晩の食料品、行商でなければ...</p>

<p>＜満州をとればね 30 年は食料に困らん...＞<br />
1921 年（大正 10 年）ワシントン会議において、「主力艦保有比率を日本は当初、対英米七割を主張したが入れられず、対英米六割とすること」が決められました。そのことを今もよく記憶されています。また、近年、七夕の飾りに「世界平和」と書かれたそうです。これらのことは、フチさんの問題意識の高さの現われではないでしょうか。</p>

<p>世界に負けないような頭で、私たちの頃は破竹の勢いで行きよったですわ。満州をとればね 30 年は食料に困らんという時期でしたな。 もう学校の教育からがそういう風じゃったもんな。５５３でね。アメリカが 5 イギリスが 5 日本が 3 。軍艦をね。 5 ： 5 ： 3 の比で作れというてね。...でもう、戦争があるときにはしょうゆの５合くらいなのをねえ配給をもらいに行きよったですわ。貧乏でしたよ。日本国中ねえ。もう一口に言うてねえ戦争、争うということは絶対にしないということで。 戦争、人と人とでも個人同士でも争わない、と。争っていいことは何んにもありません。国と国とも戦争していいことはないですからね。</p>

<p>＜子どもが歯噛みをするから　私もきばったんですわー＞<br />
役場の人が「あんたもそんなに苦しければ（町から）補助をもらいなさい」と勧めてくれたそうです。でも、フチさんは頑として補助を受けることはしませんでした。とにかく、「貧乏じゃったよー」とおっしゃるフチさんの世代は、「明日の米」に難儀された方々が国中に大勢おられたのでしょう。その中でも、「力持ちで、仕事は速いし、男勝り」のフチさんは自立心が強く、どんな状況の中でも「ぼうっとしたり泣いたりしない」で貧乏と戦われたのだと思われます。そして、その源泉はやはり、子どもたちへの深い愛情であったと推察されます。相当に山上憶良の詩に共感されておられるからこそ、インタビューの間に何度か「白金も黄金も珠もなにせんにまされる宝子にしかめやも」と憶良の詩を引かれて、その心を表現されたのだろうと思われます。</p>

<p>子ども（たち）が学校でやっぱり主席でしたから、上の方から何番と... 町から援助をもらったら私ら学校へでられん。真ん中の兄貴が一番賢かった。成績がよかった。...兄貴が学校で肩身が狭いからねえ。子どもが歯噛みをするから私もきばったんですわー。その頃はね、援助をもらう人は少なかったもんですから。今はね悠々ともらっていいそうですね。今の世の中はね。そういう風に聞いたよ。</p>

<p>「子どもが丁寧にしてくれるから感謝しております」と言われるフチさんは現在、娘様と住まわれており、一週間に一度、デイサービスを利用されておられます。</p>

<p>戦争で苦労したけれども、今、現代の人たちがよーくしてくれるからね。ありがとうと感謝それだけです。ありがとうという言葉は尊い言葉ですわねえ。...デイケアにいけばね。ご馳走がありますからねえ。...ささいなことであってもありがとうといわれたら邪険なことはできませんもんね。人の喜ぶことをしてしゃばにさよならしたいなあと考えます。喜ぶということは金にも換えがたい...。</p>

<p>最後になりましたが、貴重な人生の経験をお話いただいたことに心から感謝申し上げます。どうぞ、お健やかにお過ごしくださいませ。誠にありがとうございました。</p>]]>
        
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    <title>第23回 高野 留雄さん</title>
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    <published>2011-07-27T08:14:52Z</published>
    <updated>2011-08-01T00:49:29Z</updated>

    <summary>「それでは、わしの詩吟を披露させてもらうだ」 背筋をピンと伸ばし、視線を一点に集中させた顔に赤味が差す。その腹の底から出る声は、声量、音程ともに少しの狂いもない。そして、自作の 詩 ( うた ) を いっきに 詠 い上げるとひと言、 「いや...</summary>
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        <![CDATA[<p>「それでは、わしの詩吟を披露させてもらうだ」<br />
背筋をピンと伸ばし、視線を一点に集中させた顔に赤味が差す。その腹の底から出る声は、声量、音程ともに少しの狂いもない。そして、自作の 詩 ( うた ) を いっきに 詠 い上げるとひと言、<br />
「いやぁ、このくらい朝飯前だな！！」<br />
満足げな顔に笑みがこぼれる。</p>

<p>なんとも頼もしい歌声を披露してくれたのは、今年 98 歳になる高野留雄さんだ。こんなに元気な留雄さんだが、実は数日前に退院したばかりなのだという。近所に住む次男の嫁である高野佳子さんは、こういって目を細める。<br />
「この 4 月 20 日におじいちゃんの白寿のお祝いがあるんですよ。だから大事をとって、みんなで入院させたんです（笑い）」<br />
約百年生きてきて初めての入院だとか。まったくもって恐れ入る。耳も以前よりは少し衰えたというが、会話に支障はない。目だって決して悪くないという。そして、家族が何よりもうれしく思っているのは、みんなと同じ食卓につき、同じメニューを食べられるということ。<br />
「肉が好きだな。あとは天ぷらなんて大好きだね！　天丼なんかにしたら、そりゃもう最高（笑い）」</p>

<p>まるで年齢を感じさせない留雄さんの健康を縁の下で支えてきたのが、料理上手な妻のいそ江さん（ 87 ）だ。その証拠におやつに出されているのは、畑で採った野菜のお浸しやほんのりピンク色に染まったらっきょう、そしてさまざまなお新香がテーブルを飾っている。これは全部いそ江さんの自家製なのだ。脇に座るお嫁さんたちから、こんな声が飛ぶ。<br />
「おばあさんのお料理のおかげで、おじいさんは病気ひとつしなかったんだもんね～」<br />
常に時代を先取りしてきた留雄さんの大きな両手が、恥ずかしそうに顔を包んだ。</p>

<p><img alt="23-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/23-2.jpg" width="150" height="146" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />留雄さんの 目標の一つには、運転免許の更新だという。車の運転に立ち合ったが、さすがに元運転手さん。それはそれはスムーズな運転で、バックもお手のもの。<br />
さて、そろそろ取材開始の合図を送ると、留雄さんは開口一番、<br />
「何でもしゃべくるだよ !! 　でもな、一世紀やからそう簡単には終わらないだ !! 」<br />
部屋は笑いに包まれ、百年という時空を越えた回想が始まった。</p>

<p>明治４３年生まれ。出身地は 富士北麓の標高およそ 940m に位置する 山梨県南都留郡忍野村。この周辺は、忍野八海にみられる豊富な湧水とさわやかな気候、そして何よりも 富士を配した美しい景観と豊かな 自然が大変魅力的な土地だ。<br />
農業を営む両親のもと、９人きょうだいの７番目として誕生したのが留雄さんだった。留雄さんは、出生時をこう振り返る。<br />
「明治時代はな、きょうだい多いと『一人つぶすべぇ』って、゛おろぬき゛、要するに間引きされたんだ。それがわしの番だった。でも、親戚のおばさんが『男の子だから、もったいないからとっとけ』って生かしてくれてな。わしはそこで一回死んだんだと思っている。そうなると、もういつまで生きたって同じさ。何も怖いことなんかない。だから何でも思い切ったことができたのかもしれないだね......」<br />
長い人生、留雄さんはこの考えを根底に持つことで、強い自分がいたと公言する。</p>

<p>当時、電話はもちろん、電気もガスもない。 「どの家も電気のかわりにランプを使っててね。学校時代よくランプの掃除をさせられていただよ」<br />
ある日、近所の庄屋の家にはじめて電気がついてたときのこと。<br />
「見に行ったらな、ランプは赤いけんども、それが青い。本当にビックリしてな。でも、まあなんて明るいもんだな～って。そしてマッチもすらんで電気がつくと知って、なおビックリしただ（笑い）」<br />
<img alt="23-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/23-1.jpg" width="150" height="132" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>そして、もう一つ印象的だったのが雪の日の出来事だという。<br />
「この辺は雪がものすごく降ってな、学校にいけねえだ。だから雪かきの代わりに馬を３頭か４頭だして雪の上をバタバタバタバタ歩かせて道ができるん。それでみんな下駄でその雪踏み道を通っていく。でも歩けるのはいいけんど、下駄の歯に雪がひっついてよ。ときどき払わないと動けない。しょうがないから下駄は吊るして裸足で学校にいっただよ」<br />
いまでも冬になっても裸足だという留雄さんに、嫁の佳子さんはこういって笑う。<br />
「おじいちゃんに靴下はかないんですかっていうと、『山の獣が靴下を履いているか？』『カモシカが雪の上を靴下履いているか！？』っていうんですよ」</p>

<p>とにかく元気印の留雄さんだが、小学校５年生のときにはチフスにかかり生死をさまよった。<br />
「２ヵ月以上寝ていて治しただ。でも姉さんはチフスで死んじまったな......とにかく生まれてすぐ一度死んでっから、二度は死ねねえだ（笑い）」<br />
留雄さんの強い生命力と精神がものをいった瞬間だった。</p>

<p>大正 12 年、小学校卒業後、近くにある小浜?糸工業に奉公に出ることに。<br />
そして大正 12 年 9 月 1 日、午前 11 時 58 分 44 秒、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード 7.9 の大地震が発生した。関東大震災である。 留雄さんは、大きな被害をまぬがれたもの、奉公先で被害にあった。 地震の範囲は大きく東京・神奈川を中心に、茨城・千葉・埼玉・静岡・山梨にまで及んだ。ちょうど昼食の時間帯であったため、火災の被害が甚大で、 死者・行方不明者約 10 万 5 千人という多大な被害をもたらした。</p>

<p>「田舎の家だから丈夫やったので、家がおっ潰れたところはなかったな。でも、慌てて外に飛び出したら、すずめが道に落ちていて飛べないだ。きっと空気がおかしかったんだな......」<br />
この地震では、深刻な流言被害が発生した。地震当日の夕方から、『朝鮮人による暴動発生』などの流言が広がり、自警団･軍隊・警 察などによって約 6,000 名以上の朝鮮人が殺害されたといわれている。</p>

<p>「何が怖いかというと、地震のあとに起こったこの朝鮮人騒ぎのほうがよっぽど怖かっただ。地震で各刑務所に入っていた朝鮮人をたくさん解放したんだ。そしたら朝鮮人が暴れるぞっていうんで、みんな騒ぎだして......。そんなんで朝鮮人がだいぶ殺されてな。しまいには日本人と見分けがつかないから、『生年月日をいえ！！』っていわれて、スラスラいえないとやられてしまう。まったくでたらめだったな......」 隣で留雄さんの話にじっと耳を傾けていた妻のいそ江さんも、<br />
「地震は揺れがおさまれば終わりだけど......。朝鮮人騒ぎはな、本当に怖かっただよ......」<br />
声を詰まらせ回想する。</p>

<p>１５歳春。留雄さんはこのような体験を経て２年の奉公を終えると富士紡績に入社した。そして働きながらその工場の夜間補習学校に入学すると 1 日も休まずに 3 年間通学し、精勤賞をもらい卒業した。また、５年間早稲田大学の校外生となり、努力を惜しまず勉学に励んだ。その前向きな姿勢は多くの人を魅了し、次第に人望を集めていく。結果、自動車労働組合の副会長に就任した。</p>

<p>仕事は順調だった。だが、時代は不穏な空気に包まれていた。昭和 6 年、 ９月 18 日夜、満州（中国東北部）の奉天（瀋陽）郊外にある柳条溝で起きた南満州鉄道の線路爆破事件をきっかけに、日本の関東軍が軍事行動を開始。満州事変の勃発である。関東軍は、戦線を拡大。日本はここから一気に戦争に足を踏み入れていく。</p>

<p>そんな中で、留雄さんは昭和 10 年、車の運転免許を取得し横浜で横浜市電気局自動部に入りバスの運転手となった。そこではブラスバンド部に入り、クラリネットの演奏を楽しんだ。また柔道部では２段を取得する。だが――<br />
「そうこうしているうちに満州事変が始まり、支那事変がはじまりって戦争色が強くなって、召集がはげしくなったんだ。それで外地に行けば準軍属になるから召集をまぬがれるっていうので支那にいっただよ」</p>

<p>中国に渡ると済南自動車部に入り、雑穀・綿花の運送するトラック運転手を経て、再びバスの運転手となった。後には、統計係に抜擢される。そこでは信じられないことが起こった。<br />
「ガソリンが満タンに入っているのに、バスが途中でエンコしてしまうんで、変だな......。って思っていただ。どうもおかしいっていうんで夜中、バスを見張っていたら、そこに自分たちのコック長がやってきてガソリンを抜いているだ。まわりには普段、私たちを守っている兵隊たちが銃を持って見張りをしている。そりゃ驚いたね。中国人たちは、昼間は親日で、夜は反日で中国軍となるんだ。戦争とはそんなもんさ......」<br />
生きていくためには、手段を選ばない。人間の本性をしっかりと目に焼き付けた。</p>

<p>昭和 18 年、中国では、 2 人の子どもに恵まれた。だが、先妻に先立たれてしまう。後に現地召集があり、母と子供ふたりを連れて内地に戻ることに。そして留雄さんは再び妻のいそ江さんというよき伴侶をえて、長年苦労を共にすることになる。</p>

<p>日本に戻ると生家の忍野村へ疎開をしたが、電気もガスも通っていない。そこで、懇意にしていた電力会社に交渉。家の近くにも電気を通すと約束させた。だが......<br />
「約束しても柱がないと電気は引き込んでもらえないからな。真夜中にばあさんと二人でカラマツで出来た電柱を盗んできたよ。ふたりでエッサ、エッサと担いできて、広い畑に電柱おったててな（笑い）電気ひとつ使えるようになるまでには、そんなことまでしただよ」<br />
そうこうしながら、都留貨物自動車会社のトラック運転手となった。そして昭和 20 年、日本の敗戦と同時にいち早く、都留貨物自動車に労働組合を作り組合長に就任した。<br />
「いまがよければいいってもんじゃない。常に 30 年先取りして考えて行動しているだ。だから、時代を先取りして先頭に立ってやったな。これまで本もたくさん読んだし、いっぱい勉強して、いろいろな物事を頭に入れてきた。理論で攻められる人って、なかなかおらんかったからみんなわしに頼んでくるだ」</p>

<p>後に、機織りの時代が到来。時代の流れに敏感な留雄さんは、機織りの会社を設立。<br />
「機織りなら女にもできる。わしが死んでも家内が食っていけると思ってな」<br />
常にトップに立ちバリバリと働いていた留雄さんだが、家族には思いやりと優しさにあふれていた。<br />
それぞれの機織り工場では、夜中の 12 時まで機織りをするため、品物がだぶつき、織賃が安くなってしまう。そのため何か妙案がないかと考えた末、留雄さんは問屋に交渉。 「問屋は千台くらいある機械を 7 時にすべてストップさせることが出来れば、織り賃を上げるというんだ。時間を短くすれば商品のだぶつきがなくなる。『でもそんなこと絶対にできるわけがない！！』っていわれてな。だまっているわけにいかない。早速、組合を作って組合長になって全市の機織屋を説得して、織り賃を上げさせただよ」<br />
留雄さんの行動力に、問屋は目を丸くした。</p>

<p>その後は、時計の部品を作る会社、高野精機を設立。時代の先を見越すように工場の建築現場から、自宅の建築から設計まで将来の青写真を練っていた。結局は、その考えが成功し現在につながっていく。</p>

<p><img alt="23-3.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/23-3.jpg" width="150" height="174" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />留雄さんは自分の事だけではなく、困っている人をみるとほっておけない性格なのだろう。自治会においてもそんな性格をいかんなく発揮し活躍した。富士吉田市の旭町西自治会長を受け、そこから脱退する形で竜ヶ丘自治会を創立。『最低の自治会費で最高の自治を行う』をスローガンに掲げ、初代自治会長に就任。費用のかかる『消防』や各家持ち回りの『火の番』制度などを廃止し、効率的に行うことに成功する。『竜ヶ丘会館』の建設にも力を注いだ。多くの改革は、富士吉田内における生活環境をおおいに躍進させた。<br />
そんな留雄さんに目をつける人は多い。老人クラブでも会長職を依頼され、先頭に立って盛り上げていった。</p>

<p>もちろんその間、障害がなかったわけではない。 物事を決定する場合、意見が分かれることもある。 だが、問題があればあるほど、その苦境を乗り切る知恵と力を兼ね備えた留雄さんの魂に火をつけていく。ちなみにこの精神で、自分の病気を 15 日間断食をして治してしまった経験もあるほど。<br />
「物事を進める上では、もちろんいろいろな意見もあるだよ。でも理論で攻めれば、相手は納得するしかないだ。断食だって『断食すれば細胞が死んじゃ困るってんで、ものすごく細胞が強くなって病気が治る』って本で読んで知っていたから、医者を説得できたんだ。人間は水だけで 45 日間生きていることがわかっていたからな」<br />
嫁の佳子さんは留雄さんをこう評す。<br />
「おじいちゃんは、自分のいうことには、必ず確信があるんです。博学ですからね。世界情勢なんかもすごい詳しいから、おじいちゃんの話を聞いていたほうが新聞なんか読むより楽しくて、楽なんですよ（笑い）」　</p>

<p>留雄さんは、毎日その日にあった出来事や、気がついたことなどを日記に書き留めている。<br />
「いつも 30 年先を見ているからな。平成なんてきっとすぐに終わっちまうだ。だから墓建てたときも元号なんかじゃなく、世界に通用する 2000 年とか西暦で書いてもらっただ。坊主がキリストじゃあるまいしって嫌がったけどな（笑い）」<br />
百歳に手が届くほどの年齢で、これほど世界に目を向けている人は希少だろう。</p>

<p>また、留雄さんの魅力のひとつは、その趣味の多さだ。スキー、水泳、囲碁、大正琴、詩吟など、すべて指導できるほどの腕前なのだ。カラオケに至っては、現在もまだ先生を続けている。<br />
カラオケのレパートリーも幅広い。病後は、カラオケ教室で習っている『男の地図』を元気に熱唱し回復をアピールした。</p>

<p>同じ屋根の下に住み、身近で留雄さんの様子を見てきた嫁の織子さんも続けていう。<br />
「 97 歳で肺炎になりかけて入院したら、他の人ならバタバタって逝っちゃうかもしれませんよね......。でも、おじいちゃんは、『病院なんて一日中、寝るしかない。病院なんかにいたら、かえって病気になっちまうだ！！』っていうんです（笑い）それで３週間入院の予定が 13 日で出てきて、ほら、すっかり元気になったんですもんね。健康の秘訣はやっぱりおばあさんの手料理だったと思います」</p>

<p>留雄さんは、おばあさんにむかっていった。<br />
「おばあはブキでバカだけんど、料理はできるな」<br />
いそ江さんが、答える。<br />
「ハイハイ、私はブキでバカですよ。私は何でもおじいさんのいうこと聞いているだけでね。ブキ（不器用）だブキだって、戦争じゃねえだからブキ（武器）はいらねえだからな、っていつもおじいさんにからかわれているんですよ（笑い）」<br />
長年連れ添った夫婦にしかできない会話が心地いい。</p>

<p>隣に座る織子さんが再びそんな二人にフォローを入れる。<br />
「昔ね、おじいさんがあまりに感心することをいったので、『私がおじいさんと結婚してたらよかったわ！！』っていったんです。そうしたらおじいさんが『おめえとじゃケンカ別れしているだ。ばあさんだから、ここまで一緒にこられただ』って。それを聞いて、『ああ、おばあさんじゃなきゃダメだな』って。二人はすごく仲が良くって理想の夫婦なんです」</p>

<p>毎晩、畑で採れた野菜やいそ江さんの色とりどりの手料理がテーブルを彩る。それをほお張る留雄さん。<br />
「長生きの秘訣は水と太陽と空気。なるべく陽に当って、なるべくたくさん水を飲むように。そして山などに行って、いい空気を吸うこと。この三つが一番栄養になるだよ」<br />
「それに、なんといってもおばあさんの愛情がぎゅっと詰まった手料理でしょ !! 」<br />
まわりからの声に留雄さん、少し照れたようにニッコリとうなずく。</p>

<p>「そうそう、あと元気の素はまだあるだ」<br />
ポケットから取り出したのは、愛用の赤い携帯電話。さすがにメールはしていないというが、裏に貼られるひ孫の写真を愛しい眼差しで見つめている。<br />
大きくなった孫たちも常に留雄さん夫婦を気遣ってくれているという。 10 年前のアルバムには、孫からの一通の手紙が大切に保管されている。</p>

<p>『おじいちゃんおばあちゃんおめでとう。<br />
無事に米寿と喜寿を迎えられたことをとても喜ばしく思います。 16 日には参加できなくてとても残念ですが、２人の仲の良い姿が目に写ります。くれぐれもお体を大切にこれからも二人三脚で楽しい日々を送って下さい』</p>

<p>このように約百年かけた留雄さんの遺伝子は、しっかりと受け継がれている。</p>

<p>最後に「これからの夢は？」の問に、身をぐんと乗り出しながら答えた。<br />
「どえらい事をやる予定なんだ !! 　悪者を排除していい者を助ける『黄門市民団体』っていうのを作ろうと思っているだ。たとえ何歳になろうと人のためになりたいからな。あれよあれよでここまできたけんど、それがわしの生きる道だから」</p>

<p>いくつになっても夢があり、希望がある。人間の強欲ばかりが目立つ昨今、どこまでも人のためにありたいと願う姿に、心が洗われていく。</p>

<p>「さあ、最後にもう一節、わしの作った 詩 ( うた ) を 聴いてくれ」<br />
陽が傾き始めた頃、長い回想を終えた留雄さんは、そういって身を正した。</p>

<p>♪　秋の葉落ちる<br />
わが人生の行路は<br />
人生の花道も終わり<br />
白寿の年<br />
明治・大正・昭和・平成と長生きし<br />
人生の道しるべ<br />
晩秋の年<br />
我が人生の行路は<br />
年既に白寿の祝い　　♪</p>

<p>その歌声は居間を震わせ、南にそびえる富士の峯に向かい、朗々と響き渡っていった―― </p>]]>
        
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    <title>第22回 村上 きんさん</title>
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    <published>2011-07-27T08:12:12Z</published>
    <updated>2011-08-01T00:51:34Z</updated>

    <summary>（生い立ち、子供時代） 明治 40 年 11 月 10 日生まれ。 岐阜県伊奈郡陶村に生まれました。 兄弟は 4 人、父も母も岐阜県の人で、父は陶器を作ってました。 名前は最初、母の友人できん子さんという名前ですごくいい人がいたので、その人...</summary>
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        <![CDATA[<p>（生い立ち、子供時代）<br />
明治 40 年 11 月 10 日生まれ。 岐阜県伊奈郡陶村に生まれました。<br />
兄弟は 4 人、父も母も岐阜県の人で、父は陶器を作ってました。<br />
名前は最初、母の友人できん子さんという名前ですごくいい人がいたので、その人の名前からもらってきん子だったのだけれど、当時は子がつく名前が少ないから役所がとってしまって。小学校時代はきん子と呼ばれていましたが、後に鳥取に疎開してからはきんと名乗るようになりました。<br />
小さい頃はお手玉や毬をついたり、でもあんまり遊ぶってことはなかったね。家の手伝いをしていました。<br />
小学校は昔のことだから 6 年生まで行っていました。<br />
私は目が大きかったから「目玉の看板」だって、男の子にからかわれました。<br />
はっきりした顔立ちだったので、小学校の 3 年生の時には役者にならないかという誘いもありました。父は賛成しておりましたが母が反対してやめました。<br />
母は田舎の人だったから、厳しい人でした。しっかりした母でした。<br />
母が反対しなかったら今頃役者になっていたかもしれません。父は役者の舞台関係の仕事もしていましたから私を役者にしたかったようです。</p>

<p>（陶器会社での思い出）<br />
小学校を出てからは父の働いている陶器の会社に入って働きました。土をこねて、形を作って、穴をあけて陶器を作っていました。<br />
そこでの思い出と言えば、誰にも話したことがないけれど、陶器の会社の社長の弟さんが私のことを好きになってくれて、交際していました。でも、私の母が、<br />
「その人と結婚したって一生苦労せんならん。あんたを女中さんとして使いはるだけや」<br />
そう言うて、一緒になったら自分が苦労するから駄目と言って、反対されました。<br />
反対されましたが、その人から時計なんかも貰ってね、その時分娘が時計なんてはめることなかったけれど、映画やなんか見に行く時にははめて出かけたり。<br />
でも、結局その人は、私の同級生の偉い方の娘さんと結婚しました。</p>

<p><img alt="22-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/22-1.jpg" width="150" height="135" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />（横浜の旅館へ　結婚）<br />
それで、私は諦めて、当時私のいとこが横浜で旅館をしておりまして、そこで 20 歳くらいまで働いておりました。<br />
そしたらね、しばらくして、そこの旅館で下宿していた石屋の職人と結婚しないかという話が出て、その人と結婚することになりました。 23 歳のときでした。<br />
横浜の写真館で長い間結婚式の時の写真を飾ってもらっていたのを覚えています。<br />
主人は鳥取出身でしたが、石屋でしたので横浜で銀行やなんやらの建築の仕事をしていました。<br />
そこへ主人の知り合いから東京で仕事をしないかという話が出て、東京へ行って、東京で初めての子供ができました。主人は東京では、宮内庁関係の仕事もしたようです。<br />
そうして、東京でずっと子供を育てていました。</p>

<p>（東京から大阪へ、戦争）<br />
そしたら、私の弟が大阪で電気の仕事をしておりましてね。手伝ってくれへんかいうことで、大阪の堀江へ越すことへなりました。<br />
子供がさらに男の子やら女の子やら 3 人ぐらいできまして、そこで育てていました。<br />
そうしているうちに戦争がはじまりました。<br />
東京で生まれた１０歳の長男を盲腸で、下の女の子も２人亡くしました。<br />
よしこは牛乳を飲んだらお腹が痛いと言い出して、病院に入院せなあかんというときに亡くなりました。３歳でした。ひでこは風邪で肺炎を起こして２歳の時に亡くしました。<br />
長男はやすろうという名前でした。<br />
今だったら死なないけど、戦争の時分のことだから。<br />
辛かった。<br />
はじめは堀江におったけれど、そこで子供が 3 人亡くなってしまったから、天王寺へ移って。そこで、空襲やらが始まって防空壕に入ったり、残りの子供が集団疎開になったり。<br />
食べることが不自由になってお父ちゃんの田舎へ帰ろういうことになって、主人の田舎の鳥取県へ帰りました。</p>

<p>（疎開　鳥取）<br />
主人は石屋だから、鳥取では建築なんかはできへんでしょ。だから石塔なんかを立てていました。<br />
私は瀬戸物のできるところの子供ですから、百姓の仕事なんてしたこともなかった。<br />
山へ行ってキノコをとったり、みんなに教えてもらいながら畑耕したりして子どもを食べさせていました。<br />
田舎で食べるものがないから、着物を食べ物にかえて。でもね、今から考えたらそれでよかったの、だってね、今着物なんて皆着やせんからね。着物持ってっては食べ物にかえて子供育ててね、子供大きして。<br />
苦労しました。戦争のために。<br />
防空壕の中に座っておったら、外でね、誰かが転んだの。<br />
そしたら、中の人がな、「村上さんが転んだ」って。そしたら奥の方で「私がここにおります」ってお父ちゃんの声がして。お父ちゃんが死んだと思ったから、お父ちゃんの声を聞いたときはほっとして。<br />
<img alt="22-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/22-2.jpg" width="180" height="162" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>（終戦後）<br />
終戦になってからは、東京で仕事がなくて、主人は石屋だから鳥取で長者さんやらの石塔を作る仕事をして、私は、製材屋で働いていました。<br />
朝は 4 時半か 5 時くらいに起きて、子供の用意をして、子供を送り出したら会社へ行ってね。子供にもよく手伝ってもらいました。<br />
20 年くらい勤めていました。</p>

<p>（鳥取から大阪へ　現在までの道のり）<br />
それから末っ子が高校に入るくらいになって、また大阪へ帰りまして、大阪で末っ子を高校へ出して。そのあとはずっと大阪へおります。<br />
大阪へ越してからは、 50 代の頃には昼間近所のお宅へ女中で働きに出たこともありました。<br />
60 歳を過ぎてからはゴルフ場の喫茶店で働いていました。<br />
孫ができてからは孫の幼稚園の送り迎えもしました。<br />
働くのが好きです。<br />
じっとしていることが嫌いで、ずっと働いていました。<br />
お金でなくて、働く癖がついているから、何かしないと逆に落ち着かない。<br />
家にいるときは内職をしていました。<br />
80 歳過ぎの時、温泉に行く途中、内職募集の張り紙を見つけて、家族に言うたら働き過ぎや言うて怒られる思って、一人でこっそり内職の応募へ行きました。昔から子供の服でも全部編んで着せました。帽子かてなんでも編みました。よその着物も作っていましたしね。<br />
90 代は傘の内職をしていました。<br />
お金ではなくて、手を動かして仕事をしているのが張り合いがあって好きでしていました。<br />
働けるのがありがたいと思って内職をしていました。 今は体が不自由になってしまいましたが、 2 年前までは家事もすべてしていました。<br />
新聞を読むのが好きで、毎日読んで、雑誌の広告記事なんかを見て、家族に買ってきてほしい本を頼んだりもします。<br />
時代劇や相撲が好きです。<br />
子供 8 人のうち、 4 人は亡くなりました。<br />
戦争の時分に 3 人と戦争の後に 33 歳の息子を１人。<br />
4 人亡くなって、 4 人元気でおります。<br />
今ひ孫はようけおります。 20 人以上います。<br />
健康で気をつけていることは、特にありません。<br />
食べ物はなんでも好きです。<br />
肉や魚も食べますが、野菜が一番好きです。<br />
でも、もう耳が悪くなってしもうたし、歯も悪いし。<br />
働いているのが好きだったから、足が動かないのと手が動かないのが辛いです。<br />
一昨年末っ子の洗濯を手伝おう思ったらね、躓いて転んで、足を怪我してしまってそれから足が不自由で。<br />
せんでもええことを、少しでも手伝ってやろう思って手伝ったらけがをしてしまいました。<br />
デイサービスは週に 4 回。<br />
前は 2 回だったんですが、家でお風呂に入れなくなったので、お風呂が大好きだから週 4 回通っています。<br />
朝早くにいって、楽しくさせてもらって、夕方に帰ってきてます。<br />
今は私の方が病気になっちゃってね、不自由なからだになっちゃったでしょ、転んじゃったから。だから今はこの末の子が世話してくれてね、エヴァグリーンってデイサービスに通ってます。でもね、そこでも私が一番歳大きいからね、みんな「金さん、金さん」言うて誰も「村上さん」言うてくれません。<br />
<img alt="22-3.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/22-3.jpg" width="165" height="156" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />足が動かんからね、不自由なこって。他のところは何も悪ないけれど。<br />
難儀してきました、若いときは。子供がようさんおって、空襲にあって、食べ物も不自由でしたでしょ。苦労しました。<br />
でも、苦労したけれど、長い間生きてきてやっぱり一番辛かったのは、子供が死んだときです。<br />
本当に辛かった。<br />
戦争中に亡くなった 3 人は、風邪や盲腸で、今だったら死なないけれど、戦争の時分のことでどうしてやることもできんかった。<br />
33 歳の息子が死んだときにはね、こっちも歳がいっているし、子供がいたけどどうしてやることもできんし、かわいそうなことになったと思ってね。でも、今は植木屋さんになってくれてね。立派になってくれて本当によかった。<br />
長い人生いろいろ苦労してきました。戦争のためにね。<br />
でも、みんないい子に育ってくれて、子供らもみんなようしてくれてね。<br />
助かります。息子も立派になって。<br />
敬老の日に阿部総理から賞状と祝 100 歳というお皿をもらいました。<br />
3 月には娘が申し込んでくれた市役所の植樹へ行きます。<br />
娘が昔作ってくれた人形も枕もとにあります。<br />
男の子と女の子の人形があって、女の子をくれました。<br />
ちょっと娘に似ています。<br />
家族がいて、自宅で、こうして毎日子供たちが来てくれるのが今一番嬉しいです。 </p>]]>
        
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    <title>第21回 高橋千夏さん</title>
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    <published>2011-07-27T08:10:13Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:51:21Z</updated>

    <summary>「取高橋千夏さんは明治 44 年生れ、現在 97 歳のスーパーキャリアウーマンだ。小柄なお体をクラシックな紺のスーツにきちんと包まれた上品で若々しいお姿には、思わずそのお歳を疑ってしまいそうになる。 高橋さんは 4 歳にして、 1 年間のア...</summary>
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        <![CDATA[<p>「取高橋千夏さんは明治 44 年生れ、現在 97 歳のスーパーキャリアウーマンだ。小柄なお体をクラシックな紺のスーツにきちんと包まれた上品で若々しいお姿には、思わずそのお歳を疑ってしまいそうになる。<br />
高橋さんは 4 歳にして、 1 年間のアメリカでの生活を体験なさった帰国子女でもある。また外で働く女性が珍しかった時代に、仕事を持ち世界を舞台に活躍してこられた、働く女性の草分けでもある。<br />
大阪府女子学問学校、平安女学院短大で助教授を歴任され、その後アメリカの大学に留学したのち、同校の教授に就任。帰国後関西学院大学の非常勤講師として、これまで多くの生徒たちに英文学を教えてこられた。<br />
「主人が病気になって、私が働かなければいけなくなりました。でもそれが、私にとってはよかったんです。」<br />
とおっしゃる高橋さんからは、いつも目の前の人生を受け入れ、聡明に道を切り開いてこられた、美しく健気な実在のヒロインのような印象を受ける。<br />
退職後も日本福音ルーテル協会を代表するご活動や、途上国の生活改善、女性の地位向上、子供の教育など、文字通り世界中で、重要な立場から数々の声を発してこられた。<br />
そんな輝かしい経歴を持つ高橋さんだが、戦時中には母と弟を同時に亡くされるという非業を免れず、そのご経験から、現在は戦争防止、核兵器廃絶など、平和を訴える活動を続けておられる。<br />
高橋さんのお話の中には、人種や歴史、国民性を超えて人々が繋がるためのヒントが見え隠れする。例えば戦争の傷跡から反日意識の強い国での講演のため、壇上に立たれた高橋さんの、機知に富んだエピソードがそうだ。<br />
「私は壇上に上がってまず、"戦争で日本が酷いことをしてごめんなさい！"と謝ったんです。聴いてくれている人達の顔が一斉に笑顔に変りました。講演後はみんなで一緒に散歩したんですよ。」<br />
そう言ってにっこりと微笑まれた高橋さんの笑顔は、どんな人の心も掴んでしまいそうなチャーミングな魅力に溢れていた。<br />
<img alt="21-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/21-2.jpg" width="150" height="146" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p><br />
高橋千夏さん手記　　『　明治生れの回想　』</p>

<p>～父母の出生地～<br />
年を重ねるままに昔の事は忘れゆく思いと、反対に八十年も九十年も前の記憶が妙に残っている私的な歴史を残したいという願いが常にあった。今までに小冊子や記事に残したものもあるが、孫からのご縁で、明治生れに何か聴きたいと云うお話があって心を引かれた。お目だるいとは思うが、お目通し下されば有難いことと思って、私の幼年から学生時代、就職、結婚から戦中戦後の思い出を忌憚なく書かせていただくことになった。<br />
私は明治四十四年八月に東京で生れた。父はまだ封建的と云ってもよい明治十八年に信州下諏訪で生れ、蚕糸工場を営む旧家の厳格な家庭で育った。四人の姉があり末っ子の男子で、父は学業を目指して上京し理化学を学んだ。結婚し私が生れて二年後に、当時の農商務省から、米国のニュージャージィ州に在った高峰譲吉博士の研究室に出張を命ぜられ、四年間の米国生活となった。<br />
母は明治二十五年に生れ、上諏訪であっても諏訪神宮上大社に近い金子という田舎で育った。私にとっては母方に三人の叔父と一人の叔母があった。父が外国で三年の研究後、一年間母と私を米国へ呼び寄せた五歳を過ぎる頃まで、私は母の里で祖父母の家で育った。豊かな自然に囲まれ、大家族とかかわって暮したことは、私にとってどんなに良かったかは計り知れない。</p>

<p>～祖父母との暮らし～<br />
祖父母は早起きで、ご先祖様の仏壇に炊きたてのご飯を供えお線香をつけ毎朝拝んで、祖父は濃い緑茶と梅干を楽しみにしていた。堅実そのもので逞しい祖父は一日中畑に出ていて、米も野菜も自給自足の百姓さんだった。祖母は洗い場や囲炉裏端で忙しく過し、心温かく物分りのよいことは、子供心にも分かっていた。お蚕さまの季節には、客間を除いてどの部屋にも蚕棚が所せましと置かれ、時間毎に桑を適当に与える仕事は大忙しで母も姉さん被りにたすきがけだった。また私が小学生の頃盆に帰郷した時の思い出と重なるが、先祖を祀るお棚の用意が懐かしい。直衛叔父さまたちに連れられて神宮寺の裏山に登り、カンゾやのぎ、女郎花を取ってきてお棚を飾り、茄子や胡瓜をお供えした。遠くに八ヶ岳を望む縁先には南瓜や糸瓜が実ってぶら下がっていた。<br />
母と米国行きが定まった時、上諏訪役場へ渡航手続きの為におじい様は（私はその様に呼んでいた）白い丈夫なちりめんの三尺帯私をおんぶして、二里以上も田舎道を歩いて街まで連れて行って下さった。私がまだ長距離は歩けないと思われたのだろう。<br />
次の記憶は日本出発となり横浜港で大きな日本郵船に乗り込み下を見ると、突堤には紋付羽織袴でわざわざ長野県から貴男伯父さまが私達を見送りに来られたのであった。義理堅いと云うべきか、幼子の眼にも心にも鮮やかに残っている。</p>

<p>～アメリカでの思いで～<br />
母は船酔いして気の毒だったが二十五日の航海の後に、シアトルで迎えて下さったのは蝶ネクタイに白スーツの洒落た父であったのに、私は知らない人に抱かれて、ワァーッと大声で泣いた。ニューヨーク迄大陸横断鉄道は五日かかった。給水の為に列車は大草原の真中で止り、黄金色に夕陽の沈む光景を見た。肩まで垂れていた私の髪はパッサリと切られおかっぱになり、米国製の服に変った。西洋文化に揉まれ、かなりの思想も開けた父は英語を話せない母に、鯨骨で出来たコルセットや当時流行の長スカートの美しいドレス等を買い求め着方や西洋のマナーなどを教えた。私にも幼女に必要なものを揃えて、子供の教育についても先輩からきいて来たりして、手間もかかり大変だったと思う。母は日本が恋しくなった時もあると思うが、私は日本語が通じないと分って、だんだん英語が自然に這入って来て、遊び友達もふえた。一年足らずの滞在であったのに幼稚園に三、四ヶ月通ったり、教会の日曜学校にも誘われて数人の男女の子供たちと行き、帰りは道草を食ったこともよくあった。周囲が好意的であったことしか覚えていない。</p>

<p>～帰国後日本での娘時代～<br />
父は私を日本娘にしたかったらしい。日本家屋に和服で住むと父は日本男子と云う本質が蘇ってきて、家庭では父家長主義となり特に母と娘に厳しい家の主人となった。約束の門限に遅れて帰宅するときびしく叱られて怖かった。小学生の頃何か悪いことをして私はよく罰として庭に立たされた。時間がたつと母のとりなしで、私は父の前で謝って、やっと許された。或時、何故立たされたのか理由を忘れてしまって、詰問されて「これからは、そういうことはいたしません」と答えたら、流石の父も苦笑したことがあった。「嘘をついてはいけない」、「謝れば許す」という父の教育方針は正しかった。母は父に絶対服従だったが、時には涙をためていた。しかし、家計は大きな買い物は別として、すっかり母に任されていたのは進歩的だと思った。父はお酒がはいると上機嫌になって昔話に花が咲いたり、家族音楽会が始まった。父は「どどいつ」や「木曽節」。母は古い唱歌「空にさえずる鳥の声、峰より落つる瀧の音」と即妙に歌うのであった。昔気質と思うが民主的な空気も好む父に母はよく付いていった。私の弟妹はまだ幼かったので、私だけが胸に持っている家族団らんの映像である。その家屋も後に述べるが戦時に爆撃で壊滅した。</p>

<p>～農家の人々との思い出～<br />
女学生の頃、お盆には家中でよく帰郷した。木曽路に汽車がさしかかると私の胸はわくわくしてきた。下諏訪で先祖の墓詣をすますと、母方の田舎で泊り行事を楽しんだ。祖母は「チナが来たで・・・」と言って大きな錠を下げて土蔵の戸を開け、餅米や小豆を出しに行き、もてなしのぼた餅を作る支度を始めた。集った連中が手伝って餅を搗き、手早やに餅を丸め餡をつけ大皿に盛り上げた。食べ切れないぼた餅はきれいに紫蘇（しそ）でくるんで大きな籠に入れて、涼しい裏座敷の縁側に吊した。ガスも水道もなくご飯はかまどで蒔をくべて炊いた。水は朝早く小川の水がきれいな間に汲んで来て台所のかめや桶に溜めた。食料も自給自足で、お米は一粒でも無駄にしては、目がつぶれるとたしなめられた。土を踏み緑の中で、良い空気を吸って暮らしていた。常には木綿の着物しか着ない質素な祖父母が、私の米国から帰国した際には紫ちりめんに紅梅模様の、両胸に赤い房の付いた被布をこしらえて待っていてくださった。その温情に胸が詰まってくる。<br />
もう一つのエピソードを加えると、私が小学一年の時香炉園に住んでいたが、近くのお百姓さんが汲み取りに来ていた。年末には年中お世話になりましてと黒豆や野菜を持って来て、お礼を言い母と台所の裏口で話していたのを思い出す。お百姓さんは何と腰が低くて謙虚なことかと子供心にも残っている。今思うと里山や田畑を守るためには、万物の生きる循環を助ける習慣があった。今は身分の差などなくて良いが、水洗で流すだけで後は何も知らない。あんなに質素で恩を感じるなんて遠い昔の事となった。現代は経済発展に向かって自己の利益を追求している中に、大事なことを忘れてしまっている。これ程日本が戦後努力して発展したのは有難いが、過去の歴史を学び、日本人として、しっかり前進することが、学校教育だけでなく、社会人としても大切だと思う気になってきた。</p>

<p>～戦後の成り行き～<br />
女子教育に先見の明があった学長の許で、戦前戦中に就職していた七年がある。当初は女子も国際的にも学びも仕事も出来ると思い、学業やスポーツ、趣味にも情熱を注いでいたが、それどころでは無くなってきた。日独伊同盟が消え、国際情勢もわからぬまま大東亜戦争の中にいた。異様な国情を察する術もなく大きな負担が国民にかかってきた。生活物資は次第に乏しく、「滅私奉公」とだけ教えられ、万歳の声に送られて若者の出生は日毎に増した。報道は統制され、アジア各地での苦闘や撃沈された軍艦、南方の死闘、生きて帰らぬ特攻隊などの知らせは、日時が経ってから知った。当時国には知者も賢者も居られたのに、どうして開戦に応じたのか分らない。「贅沢は敵」「産めよ殖やせよ」などの言葉を鵜呑みにして従った。どうして思い上がって戦争を起こしたいという悪魔が日本に取りついたのかよく分らない。<br />
戦争末期には私も結婚していて二児の母となっていた。私達は芋の葉を食べ、薄い雑穀入りの粥をすすり、夫は裁判所へ出勤する際は炒り豆を弁当とし、国民服にゲートル姿であった。遂に昭和二十年六月七日、日本中を荒していた B29 の大編隊が大阪北部の豊中にも襲撃して、大量の爆撃弾をしらみつぶしに落として行った。私の実家の庭にも 1 トン爆弾が落されて、母と弟の家族ら四人が壕の中で爆死した。私は何の助けも出来ずに、大切な人々を無残に死なせてしまって、掘り出され筵に寝かされている大勢の犠牲者の中で、母の亡がらの横に立って茫然と涙するばかりだった。翌週には続くしつこい爆撃で、私達の住居も全焼してしまい、壕から出て見ると辺りは焼け野原となっていた。着の身着の儘で本当に衣食住を失ってしまった。すべて物は灰となり、ピアノの絃だけが残っていた。</p>

<p><img alt="21-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/21-1.jpg" width="150" height="146" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />～私の提言～<br />
戦局は押し迫っていた時、広島と長崎に二回も、史上かつて無かった原子爆弾が落された。一瞬に上空から落すだけで、無数の人命や動物を殺し、街も自然も地獄となった。核兵器を使う戦争は悪魔の業である。残忍な姿でなくなられた方々や後遺症に苦しむ人に対して、どの様に詫び慰めてよいか分らない。戦場で消えた兵士たちと同じ尊い犠牲である。<br />
更に伝え聞くところによると、終戦後にシベリア、満州、北朝鮮などから引き揚げて来られた同胞の生死をかけた苦悶の歴史がある。長期にわたる危険な道で、何万という人々が衣食住を略奪され、暴行、陵辱に怯えて歩き、遂に栄養失調、暴力、凍死などで亡くなられた方々も多いとのことである。この様な多くの犠牲者の霊や悲痛の運命を、どうお慰めしてよいかわからず今に至っている。<br />
私が常々思っていた事を、晩年になってはっきり申し上げたい。現代の日本の発展と繁栄は先祖や兵士、戦争で犠牲となった方々が土台となっているお蔭であること、それらの膨大な反省すべき歴史を学んでこそ、明日があるのを知らなければならない事である。現代の若者に責任はないと云われ、役人は戦争の出来る国にしようとされたいかもしれないが、あれ程の大きな犠牲を払わなければ、日本国は立ち直れなかったのである。戦後は被害や苦痛、悲運は語らない傾向がつづき、語る人々も少なくなった。私は外国で日本の留学生が日本の起した戦争を知らないで恥をかいた実例を知っている。どうして学校で自国の近代史の事実をしっかり教えて、未来に備えないのだろうかと思う人々は多いと思う。<br />
祖先を尊び、先祖の積み上げたご苦労を偲び、戦争を起さぬ様に努力するのが償いであり、先祖へのご恩返しになると思っている。学問や経済、政治も平和をつくり出す為に、最高の努力をすることが日本だけでなく世界の希望だと考えつづけている。 </p>]]>
        
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    <title>第20回 永西 千代さん</title>
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    <published>2011-07-27T08:07:24Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:51:49Z</updated>

    <summary>「取材に伺ったのは、２月末。 「昨年 11 月に脳内出血で倒れて入院して、歩けなくなったんですよ」 という息子さんの言葉を疑った。 千代さんは明治生まれとは思えないほどの驚異的な回復力で、既につたい歩きまでできるようになっており、ニコニコ笑...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yumephoto.com/ym/ /">
        <![CDATA[<p>「取材に伺ったのは、２月末。<br />
「昨年 11 月に脳内出血で倒れて入院して、歩けなくなったんですよ」<br />
という息子さんの言葉を疑った。<br />
千代さんは明治生まれとは思えないほどの驚異的な回復力で、既につたい歩きまでできるようになっており、ニコニコ笑って座っていたからだ。<br />
近所でも「元気なおばあちゃん」で有名な千代さん。その優しい笑顔とは不釣合いなほどの"強さ"は、一体どこから来たんだろう......。息子さん夫婦のお話も加えながら、千代さんの人生を辿ってみた。</p>

<p>■幼少～女学校時代　　淡路島で育つ<br />
「私が生まれましたのはね、兵庫県の、昔は津名郡の塩田というところです。今は名前が変わってしまったんですけど（淡路市）。三人兄弟で兄と妹がおりました。父は『代書』といって、今の司法書士にあたるような仕事をしていて、母は特に仕事はもたず、家庭のことをいろいろとやっていました。<br />
子供の頃に好きな遊びと言えば、昔のダンスというか、音楽ならして、踊るのが好きでしたね。まりつきやお人形ごっこもありましたけど、私は体を動かすのが好きで、みんなで踊るのが楽しかった。あとは、海の近くでしたので、水に入って泳いだりもしました。楽しかったんですけどね、あの頃のお友達はみんなもういなくなってしまいました......。<br />
その頃の好きな食べ物といっても、今のようなものは何もありませんでしたから、母が作ってくれたものを喜んで食べていました。三食のときもあれば、日によっては二食のときもありましたけど。<br />
小学校では、数字を覚えたり......、読み書きそろばんですな。学校は好きでしたね。面白かったです。その後行った女学校では、お花や和裁を習っていました。着物を縫ったりするのは好きでしたね」</p>

<p>以前、千代さんの妹さんが話していたことによると、実家は淡路島の漁師町であったため、誰でもが女学校まで出られるわけではなかったらしい。千代さんのご実家は町では裕福なほうだったのではないかと推測できる。<br />
裁縫を習っていたので、いろいろと作るのも好きだったとか。残念ながら、子供の頃の記憶というのはあまりはっきりと残っていない。</p>

<p>■結婚して大阪へ<br />
　「高校を出てからは、幼稚園の先生をしていました。塩田村のお寺が子供を集めていましたので、そちらで子供たちを教えておりました。子供は好きでしたので、遊んだり、遊戯をしたり、楽しかったです。遊ぶだけでなく、１から 100 までとか、 1 から 50 までとか、数字を教えたりね。今の幼稚園とはちょっと違うかもしれません。早いこと言うたら、託児所みたいなものです。この時期が本当に楽しかったです。そんなに長いことではなかったですけど、２、３年はやっていました。できればもう少し長くやりたかったんですけど、結婚の話が出て大阪来ましたから、それきりになったんです。</p>

<p>結婚したのは遅かったんです。 28 か 9 くらいやったと思います。主人の姉の旦那さんが松屋町（大阪）で紙問屋をやっておりまして、そこで私たちはお手伝いをさせてもらっていました。その後、お手伝いばかりしていてもということで、のれんわけしてもらって、独立して自分たちでやることになりました。<br />
紙問屋というのは、包装紙やらポリエチレンの袋やら作ったりもしていたんですが、そのポリエチレンの袋を作る機械を譲ってもらって、住吉で商売を始めました。大きなロールで巻いたポリエチレンを切って、底をつけて袋にして売るんです。病院などの得意先に入れさせてもらっていました。<br />
住吉から松屋町まで配達するんですけど、今みたいに車はないし、配達が自転車なので主人はえらかった（辛かった）と思います。おこづかいが多少は入ると嬉しかったですけど、でも、主人はほんまにえらかったと思います」</p>

<p>■戦時中　～疎開経験<br />
「戦時中は大阪におりました。戸籍を入れようとしても家は倒れて住所がわからなくなっているような、そういう時代でした。空襲もありましたけど、おかげさまで店が焼けることもなく、親しい人が戦争で亡くなるということもあまりなかったです。ただ、食べるものは少なかったですなぁ。だけど、私はあまり辛い思いはしていません。<br />
戦時中に辛かったことと言えば、半年ほど淡路島のほうに疎開していた時が辛かったです。父の実家においてもらっていたんですが、お世話になってるからと思って水汲みやらお料理やら手伝っていました。あの水汲みがほんまにえらかった。井戸までが坂道になっていまして、そこまで下りて行って水を汲んで、またそれを持って坂道を上って帰らなあかん。お風呂の水も入れなあかんし、何回も何回も行きました。これがほんまにえらかった。<br />
そのうち終戦になって大阪に戻りました。バラバラと家がたち、区役所がたち、また元のような生活が始まりました」<br />
<img alt="20.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/20.jpg" width="158" height="152" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>■女手ひとつで......<br />
「昭和 18 年、私が 31 歳のときに娘が生まれて、 36 歳のときに息子が生まれました。戦後も変わらず住吉でポリエチレン袋を作って配達して生活していました。音がするのでご近所に気の毒と思ったけど、納期に間に合わせるように夜中まで機械をまわしていたこともあります。でも、夜も寝ないで機械をまわしたり、配達したりが大変やったからやと思うんですけど、主人が 54 歳で亡くなりました。それが本当に辛かった。人生で一番辛かったことです。<br />
これからどないしていこうか......、なかなか一人では商売もできんしと思って。だけど、子供も二人おるし、元気出さなあかんと思って、そこから機械をまわして、一人で商売をやり続けました。一人で、なんせえらかったですけど、子供らを育てていかなあかんと思いましたし、機械がありましたので、なんとかまわしてやりくりしていました。お友達に頼んで配達してもらったこともあります。それで、なんとか子供らが高校出るまで働き続けました。<br />
体を動かすのは好きだったんですけど、働くばっかりで楽しむということはあまりなかったです」</p>

<p>千代さんはご主人が亡くなってからずっと働くばかりで、息子さんから見ていても、特に「遊び」であるとか、「趣味」といったようなものはなかったという。子供たち２人を一人で育てようと、ただ一所懸命働く生活が続いた。<br />
55 歳くらいで仕事を辞めたが、それ以降も遊びといえば、老人会などに参加し、たまに旅行に行く程度。ただ、近所の人と話すのは大好きで、そういった会などには積極的に参加し、同年代の人の話を聞き、自分の境遇と照らし合わせては常に感謝できることを探していたという。<br />
息子さん夫婦とは結婚当時から同居していて、３人子供が生まれたため（千代さんにとっては孫）、子育ても手伝ってきた。「初めての子育てでいろいろと不安だったけど、一緒にしてもらったので助かりました」と義理の娘さんも話す。<br />
働いてばかりの人生だったので、今までしたかったことや、これからしてみたいことがあるのではないかと思って尋ねると、「もうなにもありませんわ」と。<br />
自分の境遇に不満を言うことなく、感謝しているのだろう。ただ、ご主人が亡くなった時だけは本当に辛かったようで、何度か「辛かった」と口にされた。</p>

<p>■いつも元気！健康の秘訣とは？<br />
「 96 歳になるまでずっと健康で、病院ひとつ通ったことがありません。風邪ひいたなぁと思ったら、喉を湿布したりしたら治りますねん。去年倒れて入院しましたけど、ついとる先生も（回復力に）びっくりしまして、はよ退院してもええよっていわはりました。<br />
健康の秘訣は、よくご飯をいただくことです。好き嫌いもなく、何でも。固いものも大丈夫です」</p>

<p>千代さんは昨年 11 月に倒れたが、それまでは本当に元気で健康で、 5 キロの米を近所のショッピングセンターで買って、自分で持って上がってくるほどだったという。息子さん夫婦と一緒に暮らしているが、共働きのため平日昼間は一人で家にいることも多かったが、カギの管理はもちろん、小包が届いても受け取り、電話がかかってきても用件をすべてメモして置いておくほど何でも一人でできた。耳も遠くなく、補聴器もつけていないし、普通の大きさの声でほとんど聞き取ることができる。<br />
倒れた時も自分で携帯を使って息子さん夫婦に連絡をしたという。慌てて駆けつけた息子さん夫婦に付き添われて入院し、一時は左足が動かなくなったのに、たった２、３ヶ月でつたい歩きまでできるようになった。これには担当医もびっくりしていたという。<br />
息子さん夫婦も「寝たきりになることは、この時覚悟していた」と言うが、あっと言う間に退院。元々健康ということもあるが、「周りの人に迷惑をかけたくない。自分で何でもやりたい」という気持ちの強さが回復を早めたのだろう。<br />
これについては、義理の娘さんがこんなふうに言っている。<br />
「退院できたことが本当に素晴らしいと思いました。この歳になってもまだ、『もう一回歩こう』という気力があった。その前向きな気持ちが一番すごいと思うんです。回りの人に迷惑かけたらあかん、またがんばらなあかんと、そういう気持ちがあったのでしょう。『自分のことは自分でしよう』と思うことが、一番の生きる糧であり、長生きの秘訣なのかもしれませんね」</p>

<p>■感謝　～みなさんのおかげです<br />
「今まで生きてきて嬉しかったことは、みんなからええ言葉もろたことです。みんなから『おばあちゃん、どうや？』『元気にしとるな』といつも言うてもらえるのが嬉しかったです。みなさんのおかげでこないなりましたんよ。みなさんのお力を借りまして、 97 まで生きられました。また、この人（娘さん）がようしてくれるねん。何より嬉しいです」</p>

<p>入院していた時、千代さんは自分の世話をしてくれる看護婦さん全員の名前を覚えた。「あなたはどなたですか？」と一人ひとりに聞き、名前を覚え、そして「○○さん、ありがとうございます」と、ちゃんと名前を呼んでお礼を言っていたという。自分がしんどくて入院しているのにも関わらず、お世話をしてくれる人に「ありがとう」と感謝を忘れない。その姿を見て、息子さん夫婦も改めて感心したとか。<br />
「物事の始まりと終わりは肝心やから、何か教えてもらう前は『お願いします』などの挨拶をきちんと言う。そして終わったら『ありがとうございました』とお礼を言わないとあかん」と、以前からよく言っていたという千代さん。<br />
取材の終わりにも、何度も何度も「ありがとうございました」と頭を下げ、そして優しく「気をつけて帰ってね」と声をかけてくれた。<br />
優しく、強い千代さん、どうぞこれからも前向きな気持ちで、長生きなさってください。 </p>]]>
        
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    <title>第19回 古川 欽一さん</title>
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    <published>2011-07-27T08:04:13Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:52:17Z</updated>

    <summary>「もともと私は京都で生まれたんですわ。兄が二人、姉が一人いましてな、私は四人兄姉の末っ子として生まれたんです。若い時は『おまえは若いから、若いから』と言われ続けましたけどね、今はもう、両親も兄弟も（他界して）一人もおりませんわ。今は私が（周...</summary>
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        <![CDATA[<p>「もともと私は京都で生まれたんですわ。兄が二人、姉が一人いましてな、私は四人兄姉の末っ子として生まれたんです。若い時は『おまえは若いから、若いから』と言われ続けましたけどね、今はもう、両親も兄弟も（他界して）一人もおりませんわ。今は私が（周りで）一番年上ですわ。」そうおっしゃって古川さんは長年刻まれた自身の人生を回顧し始めてくださいました。<br />
多くのひ孫を持つ古川さんは「家内に倒れられたら私はどないしようもない。私が死んでも、おまえは元気でいてくれよ。」が口癖の奥さんをこよなく愛しておられる様子の九十七歳です。傍で一緒に聞いていてくださった奥様は、にこやかにそれはそれはとても上品な面持ちの大正生まれの奥様でいらっしゃいました。又、古川さんは奥様の次に愛しておられるのでは ? というほどの無類のゴルフ好きでもいらっしゃることを傍でご一緒くださった息子さん ( 末っ子の ) にお伺いしました。９０歳過ぎるまで現役でゴルフを楽しまれていた古川さん、大阪では一番と名高い名門ゴルフ場である茨木カントリーの昔ながらのメンバーさんであり、息子さんのお話からは子供の頃から親父が日曜日に家に居ることがあると「どないしたんや ? どっか具合でも悪いんかな ? 」というくらいゴルフ三昧されていたそうです。<br />
今は最近になり脳梗塞で倒れられてから腰から右半身にかけて不自由はあるものの、今なお元気で長生きを楽しむ古川さんのマイペースな人生は周囲からも「総じて運がいい、良い人生やったんと違うかなー ? 」ということでお話をお伺いしました。</p>

<p>「父と母は洋服店の商売をしてたんですわ。私は小学校まで京都に居てましたが、小学校卒業と共に大阪に行ったんです。小学生の頃の思い出ですか？そうですなぁ。勉強はあんまり好きや無いでしたしな。」<br />
小学生時代の思い出で今もよく覚えている『パンの話』というのがあってね、大正七年前後のことでしたかなぁ、、、 私の母親がお寺参りが好きでね。日曜になったら京都の智恩院に坊さんの説教を聞きに行くんですわ。その帰りに円山公園でね、パンと牛乳の朝飯を食べるのが習慣でね。それが子供心に私は楽しみで楽しみで、母親にようついて行きました。<br />
京都に居たのは十数年、その後、大阪に八十年近く住み続けていいますが、自分は京都人や。といい続けています。<br />
まだ大正（時代）やった頃、大阪の会社を定年退職したら、母親と一緒に京都に住むのがずっと夢やったんですわ。・・でもね、ある時こんなことがあったんです。二月にね、知人に招待されて京都の上等な料理屋の『やまと屋』でご馳走になって、一晩泊まったことがあったんです。その時に、京都は寒うて、寒うて。朝の九時になっても空は青いのに日が射さんのです。なんでここ（京都）は日が射さんのや？と不思議がって聞いたら、私が泊まった場所は東山の麓やったでしょ。（盆地やから）お日さんが真上に来るまでは日が射さんのですわ。<br />
その頃は暖房器具なんて無かった頃でしたからね。大きな火鉢を持って来て、味噌汁炊いて食べさせてもらったんです。・・・それでも体が寒いんだ。寒うて、寒うて、全然暖まらんのです。その時に寒いのはどうもならん、京都住むのは止めやと言って止めにしましたんや。<br />
それから小学校卒業と同時に大阪に移り住み、中学に進学しました。大正十三年のことでした。<br />
大阪市が大阪市立東商業学校を創った年に、私は（中学に）入学しました。中学の時にやってたスポーツは水泳ですなぁ。四年生の時にね、大阪府中等学校の水泳大会に選手で出てねぇ。予選を通って、四百メートルの決勝までいったんですわ、決勝ではベタ（最下位）やったんで優勝はもちろん逃したんですけどね。（笑）そうしたらね、学校に帰って来たら（周りの級友達が）「おまえは学校の恥や！」と言うわけですよ。私はね、「そんなことあるかい！決勝に残るということは、大阪府が全国に残ったということやで。決勝に残るだけでも大したもんやで！」と言い返してやりました。出場した時が四年生やったでしょ。五年生で出場してたら、もう少しええ成績を出せたかも知れへんけどね。（笑）<br />
今でこそ、どの中学校にも備わっている五十メートルプールもその頃の関西には、「宝塚」と「市丘（いちおか）」の二箇所の中学にしか設備がありませんでした。<br />
それから宝塚の少女歌劇に夢中になったのもこの頃だったように思いますねぇ。今で言う有名な「宝塚歌劇」のことですがねぇ、、、。<br />
学校の鞄持ったまま、鞄隠して小遣い持ってよう通ったもんや。その時は宝塚の遊園地に入園するに五十銭と、歌劇見るのに五十銭の二回分、払わなあかんかった。五十銭でしたんや。今はいくらするんですかねぇ、、、 ?<br />
学校出てから就職活動しました。昭和初期くらいかな。<br />
その頃は『海外雄飛の時代』言いましてな。今では考えられへん。中等学校を卒業したら海外で働け！そこに行け！と言われましたわ。当時、台湾・樺太・朝鮮は日本の領土だったでしょ。満州では日本のお札が流通しているし。パスポートも必要ないから、国内を旅行するようにそこで働け、そこに行け！と言われたんですわ。その中で私は一番遠いジャワ島のスラバヤにある三菱商事の子会社の大橋商店に就職したんですわ。友人達も皆、海外に働きに出てましたわ。<br />
ジャワ島にあった大橋商店は、日本・フランス・アメリカへ米やトウモロコシ、豆を輸出する会社でした。朝になると、仕事仲間のインドネシア人や中国人達と共に港に出向き、船からの積荷の積み卸し作業をしました。<br />
「現地ではマレー語で会話してました。職場はインドネシア人や中国人ばかりで日本人は一人もおりません。そやから一緒に昼ご飯食べたり、倉庫で顔合わせるうちに自然とマレー語が話せるようになったんですわ。今でもマレー語は体から抜けません。ものの三ヶ月もしたらオランダ語まで話せるようになりまっせ。」<br />
ジャワ島に居たのは、兵隊検査のある二十歳まででした。<br />
ジャワ島はそりゃええ国やからね、もう一遍戻りたいと思いますよ。旦那さんの仕事についてジャワ島に行った奥さんなんて天国やったと思います。現地（ジャワ島）の女中さんは使いたい放題でしょ。上げ膳、据え膳で、お昼にテニスしてる位で他にやることが無いくらいですからねぇ。今の商社の奥さん達と同じ感じなのかな ?<br />
その後、兵隊検査のために一度日本に帰国したらそのまま兵役に取られてしまいましてね。ジャワ島から日本に戻ってからの人生は、戦争の一色でしたわ。今となってはね、思い出話で話せますけどね。この悲壮さは戦地に行った人じゃないと解りませんわ。当然、命の保証も無ければね。嫁さんの腹に子がいるのに、いつ日本に帰れるか、何にも分からない状態での出兵ですからねぇ。<br />
最初に召集されたのは昭和八年。私は東京の近衛に入りました。それから昭和十一年まで満州事変、昭和十二年から十四年までをシナ事変、昭和十六年からの第二次世界大戦には二度、出兵と撤兵を繰り返しました。<br />
実に四回、召集されましたわ。四回も召集されるなんて珍しいんですわ。本当にねぇ。<br />
その中でも、不思議な因縁を感じた戦争体験がありましてね、<br />
昭和十六年から第二次世界大戦が始まったでしょ。その時、たまたま、私が所属する部隊がジャワ島に上陸しよったんですわ。当然のように、部隊の中に現地のマレー語を話せる日本人はいなかったもんですから、（唯一、現地語を話せる私は）そりゃようモテましたで（笑）。日本人と現地の人がお互いに話したいけど、それぞれの言葉の分からん、そんな状態でしょ？私一人が日本語もマレー語も分かりましたからね・・・あっちからもこっちからも（通訳に重宝されて）来い、来い言われてモテた、モテた。<br />
シナ事変が終戦した昭和十四年には、一端日本に帰国できました。その翌年に結婚しました。そして直ぐに新しい家族が出来たんですがね、そんなことはお構いも無く（第二次世界大戦の）戦地に赴かねばならなくなりました。そんな時の気持ちなんて、そういう経験した人じゃなかったら分かりませんわ、、、。<br />
（出兵する）昭和二十年の三月は大阪が空襲に遭ってた頃でしょ。（大阪にある）宮川の土手から空襲が見えたんですわ。最初はプツンと何かが光って、そこから火の粉がパラパラパラパラと雨みたいに降って来たと思ったら、みるみるうちに炎が街の端から端まで広がって、えらい火の粉ですわ。辺り一面、焼け野原になりましたわ。今でもあの光景は目に浮かびます。そんな時に家内と長男、長女、そして家内のお腹にいる子を残して戦場へ行くんですよ。いつ戦死するかも分からへん。ましてや、残された家族に手当てもない。こんな酷いことはありませんで。<br />
<img alt="19-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/19-1.jpg" width="150" height="147" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>そして昭和二十年、第二次世界大戦は終戦を迎えましたが、私の居る部隊はソウルに居ました。部隊はチンタオから鉄道で、朝鮮（韓国）へ戻って来てたんですわ。戻ってきて『何か様子がおかしいぞ』と二、三日留まっておったら終戦になったんですわ。<br />
その後、うちの部隊の将校が朝鮮軍に「今後、私達の部隊はどないしたらよろしいか？」と聞きに行きよったんですわ。そしたら「勝手にせぇ！」と言われたんです。これが良かった。だから私達は帰還することができたんです。<br />
中には終戦の情報が入らず、戦争が終わってから朝鮮（韓国）に乗り込んで行って人質に取られた不運な部隊も沢山ありました。それでもね、帰りの道中は難儀しましたでぇ。<br />
私らの部隊は、毛布や服、米等の物資を大量に積んだ自動車に乗って帰国を目指したんですがね、その道中で通行税を目当てにした部落の人間が道に電柱を横たえて何度か足止めをくわせたから、なかなか順調には前に進めませんでした。通られへんから、車から降りまっしゃろ？そうすると村の人間が「通行税を寄こせ！」と言ってくる。お金なんかあらへんからね、（毛布）五枚でどうや？と掛け合うと「よっしゃ。」ということで（車のガラスに）「通行許可証」という紙をペタッと貼ってくれる。あれ嬉や、これで通れると思うて次の村に行くとね。「そんな許可書は別の村のもんや。ここを通り過ぎるにはここの通行税を払え。」とこうですわ。そんな交渉に二時間も三時間も掛かるですよ。参りましたわ、、、。<br />
そんな按配なんで部隊は四日か五日掛かってようやく釜山までたどり着きました。やっと着いたと思ったら、街の中には既にアメリカ軍が居てね、「街には入るな、郊外で止まっておれ」と言われまして、困り果てました。。<br />
暫くしたらね、逆にアメリカ軍の方から命令が来よったんです。「日本の軍隊は釜山に来い」ちゅうてね。<br />
その命令を聞いて、部隊内では様々な憶測が飛び交いました。<br />
「行ったら殺される」と言う者もおりました。「何かに使われ」と言う者もおりましたわ。どないしよう、という中で（部隊で一番偉い）うちの将校は、街の中へよう行かんのです。そしたら将校が「古川、おまえ、言葉喋れるから行って来い」と言うんですわ。「ちょっとぐらいの英語なら話せるから、そんならワシ行ってくるわ。」ということで、私は兵隊五十人を連れて自動車で行きよったんですわ。<br />
それでね、（不安一杯で）行ったらアメリカ軍は「桟橋が汚いから、掃除せぇ！」と言いよりましたんですわ。それで、私ら日本兵は沢山の掃除道具を持ってきて桟橋の掃除をやりましたわ。そんな姿を見た朝鮮（韓国）人達は「今まで偉そうにしていた日本人が、アメリカ軍にこき使われて桟橋の掃除をしている。」と言って笑いよりました。<br />
掃除し終わった私達に、アメリカ軍は「掃除、終わったか？」と聞いてきたんです。そこでアメリカはんのええ所は「掃除が終わったんやったら船に乗って帰れ！」と言ってくれたんですわ。アメリカ軍と接触するのが嫌やと言うてる奴はまだ郊外に居たんです。そやけどそんなん呼びにいったら又道中何が起こるか保証も無いし、呼びに行かないまま大阪・淡路島帰りの「天女丸」いう、手を伸ばせば水面に届く程の底の浅い小さな船にみんなで乗り込みましたわ。みんな、「日本に帰れる！」言うて喜びましたわ。<br />
そうして私ら一行は天女丸で、太平洋を突っ切って日本の博多を目指しました。博多に着くまでの海には機雷がぎょうさん浮かんどりました。「お椀（機雷）が浮いとるさかい危ない、こっちの海路で行こう」と路を選んでいるうちに、博多通りすぎてとうとう舞鶴まで行ってしもうたんやわ。それで私達は、舞鶴に上陸したんですわ。<br />
みんな必死で船に乗っているから、便所も行かれへんのです。乗ったら乗ったきりや。一昼夜かかってやっと帰ってきたんです。ほんま、よう転覆せんと帰って来れたわ。（船の中で）「やっぱり、アメリカ軍は日本軍と違うな。」というてました。もし日本軍がアメリカ軍の立場やったら、捕虜に取るかして、掃除終わったら帰国させるなんてこんな事、さしよらへんよ。・・・・ほんまに運が良かったんわ、、、と仲間と言い合いました。<br />
その時の大きな心残りが一つありましてね、実はその時、軍隊手帳やら行動を記した日誌を全部持ってたんですわ。でも、こんなもの持ってるのが知れたら戦争犯罪人になる恐れがあると脅かされて、木箱に全部詰めて、釜山の港に沈めてしまったんですわ。あれだけは今でもあったらと・・・残念で仕方ありませんわ。<br />
それからね、あの有名な「南京大虐殺」については色々といわれてますがね、日本の戦場区域となったほとんどに関わった経験を持つ者の現地での生の声というのは世間で言われているものとは違うんです。南京大虐殺があったのは、昭和十二年十二月です。私が南京を通ったのが翌月の三月終わり。その時に南京の兵隊に聞いた話はね、「南京大虐殺は確かにあった」ということです。しかしね、何故あったかというとね、無碍に人を殺した訳や無いんです。あいつら（敵軍＝中国人）を殺さないと、自分らが殺されるから殺したんですわ。・・というのはね、中国人は上海で戦争に負けて南京に逃げ込んで来てたでしょ。南京に入った日本人は現地にいる中国人を民間人やと思ってる訳ですよ。中国人はそこを狙って、日本人をポンと銃殺したわけですわ。しかも、日本人の下手な所は将校と兵隊の服の色が違うんですわ。だから中国人からすれば、兵隊の位の偉い日本人が分かる訳で、その人間だけを選んで撃つわけです。でも日本軍から見れば、どの中国人が兵隊で、どいつが民間人かが分からん訳やわな。そやから皆殺しして揚子江に沈めてしまえ、と・・・そういう話を私は、南京の兵隊から聞きました。<br />
私の戦友は殆ど亡くなってます。何で亡くなったかと聞かれるとね、ほとんどが｢船｣ですわ。戦場での戦死よりも、敵軍の潜水艦に狙われた船が海に沈んだ為に死ぬ人間の方がはるかに多かったんです。私は沈没する船を二回も見ました。戦地に向かう船は海軍が守ってくれるから、意気揚々として向かうことができるんです。ところが帰国する船は、「おまえら勝手に帰れ！」ってなもんで、誰も守ってくれへん。しかも何艘かが一列に連なって帰るわけですけども、一番速力の遅い船に合わせて進むんです。そこを敵軍にドーンとやられる。しかも一艘目は大抵狙われへん。標的にされるのは二艘目か、三艘目ですわ・・・やられた船は暫くはそこに浮いています。それがだんだんと舳先を残して沈んでいくんですわ。それを私らは『南無阿弥陀仏・・南無阿弥陀仏・・』言うて拝みよったんです。・・でも中にはボートに飛び乗って助けに行きよる勇敢な戦友も見ました。<br />
それから、戦争の思い出でもう一つ、シンガポールでの戦争の最中に日本人は椰子の木で鳥居を設け、昭南神社を作ったんですわ。 それは 日本人が参拝するためだけに作ったんならええんや。すやけど日本人は現地のシンガポール人をその神社に無理矢理連れていって拝むのを強制させよったんです。わしら日本人が有り難いんやから、おまえらも有り難かろう・・日本人の勝手な奢りですわな。私はどうもあればっかりはな、そんなことしたらあかんなとつくづく思うたわ。<br />
そこには戦争によって領土だけで無く、現地の人の思想までもを屈服させようとする日本人の傲慢さがあったように思う、それが私にはどうしても許せませんでした。</p>

<p><img alt="19-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/19-2.jpg" width="180" height="158" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />終戦後、大阪に戻ってからは親父がしていた繊維関係の会社に入って働きました。兄二人も一緒に働いていました。私は最初は四条畷の工場で工場長をしていました。元々は軍服を作る為の工場でしたが戦後は小学校の制服なんかを作っていました。比較的政府やら役所に信用のある会社だったんですね。毎日寝屋川の自宅から四条畷まで自転車で通いました。行きは登りの坂道ばかりで３０分くらいかかりましたが帰りは下り坂で２０分程度でした。週に一度は本社のある大阪まで行きましたが１時間かかりました。途中で腹が減るのでよく覚えています。当時の自転車のゴムは程度が良くなかったので直ぐに駄目になるのでゴムチューブを変えてもらうところもちゃんと決めていてゴムチューブはいつも持つようにしてましたわ。<br />
それから昭和２３年くらいかな ? 政府がお金を変更する際に「今日からお札は一切使えませんよ。」ということをされました。預金は出来るけれど引き出すのに制限が掛けられて、、、。サラリーマンは良かったが商売人はそれはそれは困り果てたものでした。仕入れをするにも新しいお金が無いわけですからねぇ。仕入れられないのです。そういう状況ですからインフレが強くなりだんだんと物がなくなってきて物の価格がどんどん上がってねぇ、、、。お金は有るけれど物がないという時代でした。<br />
工場長をした後は、貿易関係をしました。アメリカへブラウス作って輸出してたんですがね、その時びっくりしたのはアメリカの発注の仕方ですわ。日本ならサイズごとに一枚か二枚か、、、サイズを色々と混ぜて注文有りましたけどアメリカは１ダース単位で買ってくれます。驚きました。ずっと親父の会社で働きましたがとうとう最後は５４歳くらいのときかな ? 社長になりましたわ。二人の兄も居ましたが一人は５４歳で、もう一人は８９歳で他界してました。それから７０歳くらいまで社長して、私が社長を私の兄 ( 長男 ) の息子に譲りました。７０歳の社長から４０歳くらいの社長に代わるわけですわな。そこで大変やったのが古くから居る年寄りを皆辞めさせないといけなかったことですわ。私含めて７人も年寄り居ましたからなぁ。その年寄り辞めてもらうのに退職金が何億も必要になったけれど、そんなんいっぺんに払てしもうたら会社が持ちまへんがな。統制経済でずっと苦労も共にしてきた人達を無碍に辞めさせるわけにもいかしまへんやろ。そやし中央税務署 ( 当時は東税務署 ) に掛け合いにいって退職金を仮払いにはしておくが月賦で払わせてほしいとお願いしに行きましたんや。そしたら税務署の当時の担当の課長さんが出てきて「こういう問題は船場の会社にはしょっちゅうあります。あんた、誰にも言わへんか ? 」言われて「そんなんいいまっかいなーっ。」言うて、何年払いにしてほしいんやと言われて６人やから６年というと「そんなんあかん、３年や。」言われまして、中とって５年にしてもらいました。<br />
それから辞めてもらった人らの再就職先を方々当たって全部世話しました。その時に初めて分かったのが一番役に立たんと思っていた経理マンが一番先に売れましてね、その次に売れたのが総務担当でしたんや。一番売れへんかったんが一番稼いでくれていた営業マンやったんですわ。よその営業で癖付いているような人いらん、、、言われましてね。驚きでしたわ。その後、会社辞めさせてからも経理と総務の二人は５年１０年２０年と、、、中元と歳暮を贈り続けてきよりました。とうとう死ぬまで贈ってきました。わしが酒が好きなの知ってたから辞めてからもしょっちゅう家にも来てましたなぁ。<br />
昭和２４年くらいからなんで３８歳くらいの時からゴルフに明け暮れてましたなぁ。実に九十二歳まで打ち続け、当時ゴルフ場を持たなかった青森県と岩手県以外、全国のゴルフ場をまわりました。ゴルフが人生みたいなもんやったかなぁ、、、。時代と共にゴルフ場に来る仲間の職も様変わりしてましたな。始めた頃は私みたいに繊維関係の会社の人や商社マンや銀行マンが多かったけれど、、、時代と共に医者や不動産関係や色々と入れ替わりましたなぁ。その代わり子供の運動会とか授業参観とかそんなもん一度も行った事がありませんでしたなぁ、その代わり母親が一生懸命行ってやってましたなぁ。<br />
茨木カントリーがホームコースやったんですが、いつも手ぶらでいきよりました。服も道具も春夏秋冬分全部置いてあったし、行けば受付で「この人見たらこの人と同じ組で組んで、、、。」と「頼むわ。」と一言いうたら全部段取りしてくれましたからなぁ。いつも同じような顔ぶれでまわってましたなぁ、、、。</p>

<p>「好きな事をやらせてもらった。長生きも出来てるし・・・我が人生に悔い無しや」 </p>]]>
        
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    <title>第18回 谷野 ヨシエさん</title>
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    <published>2011-07-27T08:01:48Z</published>
    <updated>2011-07-27T08:03:58Z</updated>

    <summary>「歌が好きなんですよ。よかったら聴いてみてください」 娘の公美（くみ）さんがそう言うと、ヨシエさんはびっくりするほど大きな声で歌い出した。詩吟、浪曲、演歌など、歌なら何でも大好きで、いつも楽しそうに歌っているという。数年前に下半身が動かなく...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yumephoto.com/ym/ /">
        <![CDATA[<p>「歌が好きなんですよ。よかったら聴いてみてください」<br />
娘の公美（くみ）さんがそう言うと、ヨシエさんはびっくりするほど大きな声で歌い出した。詩吟、浪曲、演歌など、歌なら何でも大好きで、いつも楽しそうに歌っているという。数年前に下半身が動かなくなってからベッドでの生活を余儀なくされているが、体はいたって元気。食欲も旺盛で何でも食べる。おかゆや流動食のようなものも好まず、「お米がいい」と、咀嚼して食べるものでも全く平気なのだとか。<br />
お腹からしっかりとした声を張り上げるヨシエさんは、なんと 104 歳。体は元気、歌も歌える、だが、やはり昔の記憶はなかなか呼び起こすのが難しいようで......。娘の公美さんが谷野家に嫁いできた頃に聞いていた話などを織り交ぜながら、ヨシエさんの人生を振り返ることにした。</p>

<p>ヨシエさんが生まれたのは、明治 37 年。八尾市の沼というところで育った。６人兄弟の長女だが、ヨシエさん以外は既に亡くなっている。<br />
「私の住んでいた所では、まだ小学校なんかなかったから、みんな読み書きなどは近所のお寺で習っていて、あいうえおから教えてもらってね」<br />
「子供の頃の遊びって言ってもね、手まりつくとか、石遊びとか。今みたいにおもちゃなんかないしねぇ。自分たちでいろいろとこしらえて遊んでいたかなぁ」<br />
その後、 22 歳で結婚するまでの間には「お針」の学校へ通い、結婚前には２、３年、親戚の家に花嫁修業のようなことをしに奉公に出ていたという。</p>

<p>22 歳で結婚し、大阪府柏原市の谷野家に嫁いだ。<br />
「車に乗って、堤防で降りて歩いて来た。大八車に荷物を積んで、箪笥や行李を担いで歩いて来た」<br />
嫁いで来た日のことを思い出し、ヨシエさんはそう語る。<br />
この辺りの地域はブドウの栽培が盛んで、谷野家も広いブドウ畑を持っている農家だった。そのブドウを使い、ぶどう酒（ワイン）を製造していたため、収穫から製造時の夏にはたくさんの人を雇う。収穫し、発酵させ、漉して瓶詰めしていく。暑い中の作業であり、当時はすべて手作業。瓶も１つ１つを手で洗い、煮沸するなど、かなりハードな仕事であった。この時期には親戚も集まって手伝ってくれたという。<br />
ヨシエさんの役目は、ブドウ畑で働く人たちへの食事作りとそれを運ぶこと。これもまた重要な役目であり、大変な仕事だった。<br />
「ぶどう酒はよう買（こ）うてくれた。注文あったら、大阪まで持って行った。車がない時代やから、電車で行って。それで、漉すときは人がいるやろ。親戚の人がみんな手伝いに来てくれたわ」</p>

<p>子供は３人授かったが、真ん中の子はわずか３歳の時に亡くなった。この時、本当に辛くて悲しかったのは当然だが、その後は長い間子供もできなかったので、３人目が生まれるまでは随分淋しい数年間であったのだろうと思われる。ヨシエさんが 39 歳の時、待望の男の子が誕生。歳をとってからの子供、それも男の子であったため、ヨシエさんたちは大変喜び、かわいがったという。この息子さんのところにお嫁に来たのが、今、ヨシエさんのお世話をしている公美さんである。<br />
「生きてきて何が嬉しかったって......。息子がお嫁さんを連れて来て、顔を見た時。あの時が本当に私は嬉しかった。ありがたい、ありがたい」<br />
そんな言葉を聞いて、公美さんは恥ずかしそうに笑うが、ヨシエさんにとっては何よりも嬉しかったことなのだろう、何度かこの言葉を繰り返していた。</p>

<p>戦時中の記憶は、ヨシエさんにはあまりない。「もう忘れたわ」と言う。身内や周りの人を戦争で亡くすなど、辛いことがなかったはずはないが、忘れてしまっているのは、「あまり食べ物などでは苦労していないからかも......」と公美さんは言う。<br />
大きな農家であり、食料をたくさん作っていたため、それほど食べるものに困るということがなかった。また、皆が何をおいても食料を得たい時代であったため、物々交換もできた。そういう意味では苦労は少なかったのかもしれない。</p>

<p>ブドウ畑は昭和 40 年代の初め頃までは続いたが、中小企業を誘致するなどして、農家はやめてしまった。その後、ヨシエさんの夫は町長を務めるなど、歳をとるまでいろいろな役職に就いていたという。<br />
「町に水道を引いたのもお義父さんだと聞いています。とても厳しいですが、尊敬できる人でした」<br />
と公美さんは話す。<br />
このように公的に偉大な業績を成し遂げた人だったので、来客も多かった。女中も雇ってはいたが、お客をもてなすのはヨシエさんの役目。料理上手なヨシエさんだったが、<br />
「今は何でも売ってるけど、昔は何もなかった。お正月の料理を作るんでも、ゴボウの皮むきから始めて、何でも自分でやらなあかん。大変やった」<br />
と語るように、体力も気も使う仕事だったようだ。<br />
また、ヨシエさんの夫は社会的に地位が高く尊敬できる人だったが、その代わり非常に厳格で、ヨシエさんも公美さんもしょっちゅう怒られていたらしい。ヨシエさんも記憶を辿り、「怒られたのは辛かったなぁ」と思い返す。けれど、「外で気を遣う仕事をしていた人やから」と、家の中で気難しくなることは仕方ないと理解していた。<br />
それに、公美さんは、「今でもお義父さんが生きていたらなぁと思うんです。何か困ったことがあった時も、お義父さんが生きてたら相談できたのにと思ったり......。今になってみたら、なんで怒られていたのかもよくわかります」と言う。<br />
それほど偉大な人物であり、それを支えてきたのはヨシエさんであり、途中からは一緒にサポートしてきた公美さんだった。<br />
17 年前、 89 歳で亡くなる前には、ヨシエさんに「今までありがとう」と、人生を共にした感謝を言葉にしてくれたという。</p>

<p>ヨシエさんの老後の楽しみは、近くのお寺で詩吟を習うことだった。そこの奥さんにアートフラワーや刺繍、ビーズなど、いろいろなことを習ったという。また、旅行にもたくさん出かけた。ヨーロッパなど外国にもたくさん旅行した。これはヨシエさんの大切な思い出だ。また、お針の学校に行っていたこともあり、手先も器用で、いろいろなものを作ったとか。（ほとんど人にあげてしまったらしい）</p>

<p>ヨシエさんが 100 歳を迎えたときは、市役所からもお祝いがあり、市民の前で詩吟を披露した。その元気な姿には皆が勇気付けられたことだろう。<br />
ヨシエさんの家からは、町中に赤飯を配った。また、近所の人からも花束をもらったり、孫や親戚も集まったりと、賑やかだった。</p>

<p>一通りの話を聞いた後、「ヨシエさんはどんな人ですか？」というこちらの問いに、公美さんはこう答えてくれた。<br />
「明るくて、褒め上手です。嫌味や人の悪口を言いません。いつもいろいろなことに感謝して、喜んでいる人です。私は自分の本当の母はまだ小さな頃に亡くしているんですが、お義母さんとはもう 42 年一緒です。これも何かの縁だと思っています」<br />
ヨシエさんは毎日大きな声で歌を歌う。公美さんもそれに合わせて一緒に歌う。血は繋がっていないけれど、二人は本当に何かの縁で引き合わされたようで、公美さんも愛情をもってヨシエさんのお世話をしているし、ヨシエさんもまた、公美さんに感謝して生きている。<br />
取材の間に何度も何度もヨシエさんは言った。<br />
「おかあさん（公美さんのこと）に申し訳ない。本当にいろいろ親切にしてくれてありがたい、ありがたい。こうしているのは、おかあさんのおかげ」<br />
また、毎日亡き夫に手を合わせ、「おとうさん、休ませてもらいます」と言ってから寝るのだという。<br />
「ご先祖様、ありがとうございます。まだ生きさせてもらってますねん。おとうさん、いつでも迎えに来てください。阿弥陀如来様、ありがとうございます」<br />
そんなふうに、公美さん、亡き夫、ご先祖様、阿弥陀如来様に手を合わせ、祈ってから眠りにつくのだ。</p>

<p>104 歳。明治、大正、昭和、平成と生きてきたヨシエさん。息子の嫁である公美さんが来てくれた日を人生で一番嬉しかったと語り、今あるのは公美さんのおかげと、「ありがたい。本当にありがたい」と何度も手を合わせる。<br />
誕生日には毎年、子供や孫たちが集まって、お祝いをしてくれるという。<br />
どうぞもっと長生きして、また素敵な歌を聞かせてください。 </p>]]>
        
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    <title>第17回 熱田 政子さん</title>
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    <published>2011-07-27T07:52:58Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:56:18Z</updated>

    <summary>私は、小学校の教員をしていた父清之助、母親はんの長女として明治４０年８月１日に東京の葛飾区金町で生まれました。近所に同年齢の子供がいなくて、いつも一人遊びをしていたので後年の一人暮らしも気になりませんでした。その後、次々と弟や妹が生まれまし...</summary>
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        <![CDATA[<p>私は、小学校の教員をしていた父清之助、母親はんの長女として明治４０年８月１日に東京の葛飾区金町で生まれました。近所に同年齢の子供がいなくて、いつも一人遊びをしていたので後年の一人暮らしも気になりませんでした。その後、次々と弟や妹が生まれましてね、、、二つ違いの妹と四つ違いの弟が産まれ、弟が生まれました年に父親が北海道室蘭市にある日本製鋼所附属青年学校の教員になり北海道の社宅に移り住みました。ただ、私だけは東京の叔母に預けられその後には千葉の祖母に預けられました。ここでも周囲に子供は居なかったので一人で竹薮や椿の花等で遊んでいた記憶が有ります。</p>

<p>私は小学校入学の際に父親が迎えに来てくれて親の元で暮らせるようになりました。その年には妹が生まれいつの間にか妹３人弟３人と私と両親の９人家族になっていました。ただ、本当は女６人男３人の９人兄弟でしたが赤ちゃんの時に２人亡くなったので７人兄弟でした。</p>

<p>母親は朝早くから夜遅くまで靴下、足袋などの縫い物をいつもしていました。私も長女なので子守、洗濯、足袋の繕い等よく手伝いました。弟で長男の正もとても親孝行で家族思いで弟が室蘭高校 3 年のときに誰に相談することも無く勝手に退学して夜学に通い昼間は電気会社に勤めて家計を助けてくれていた。冬には一番早く起きて家族の為に薪のストーブを焚いて部屋を暖めておいてくれたこと等を思い出します。父親がずっと肺を患っていたこともあり、家族全員が助け合い、特に兄弟で上の者は親代わりとしての勤めを自然にこなしいたような気がしますね。日曜日には家族みんなで山登り、海水浴などしてとても楽しかった思い出があります。このように７歳から２１歳までを北海道の大自然の中で暮らしたことは私の生涯の素晴らしい経験として残っています。</p>

<p><img alt="17-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/17-1.jpg" width="150" height="151" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />北海道で生徳尋常小学校に入り徒歩１５分程度の道を仲良しの友達と通いました。冬は雪が多くて外での雪合戦等の遊びが懐かしいです。教室内では薪ストーブで暖かかったです。１クラスは５０人程度で男女別学でした。毎朝先生が出席を取りながら一人ひとりの顔を確認してくれるのが生徒の安心になっていたように思います。小学校の低学年の時には朝ごはんを 3 杯も食べました。具沢山の味噌汁に漬物のおかずでした。おやつはさつまいもかトウモロコシのふかしたもの。甘いお菓子は母親が禁止し南部煎餅くらいしか食べたことがありませんでした。 3 年生くらいになると小学校からの帰ると友達と野草（たんぽぽ、げんのしょうこ、よめな、かたくり、ぜんまい等）を採りに、海辺にはあさり、うに、昆布、岩のりを採りに行きました。母が喜んで手を加えて食卓に上るのが嬉しかった。小学校高学年になると妹達を連れて山にグミやヤマブドウを摘みにも行きました。このころ社宅から母恋町に引っ越しました。 5.6 月ごろになるとスズランが辺り一面に咲き、いい匂いがする原野の中を歩くのが大好きでした。毎朝、あばあさんの納豆売りがやってきて桶に入れた豆腐を天秤棒でかついで売りに来ていました。両親は子供を叱ったことが無く、なごやかな家庭でみんな健康、貧しくとも心豊かに過ごしていましたねぇ。私は子守やおむつの洗濯で勉強をする時間は殆ど無かったので卒業時、成績はビリに近く高等小学校にもう一年行くことを父が薦めましたので放課後暗くなるまで学校に残って受験勉強をしました。室蘭の神戸製鋼所は終業のサイレンが鳴ると一斉に職工さん達が門から出てきて道にあふれ皆とても活気がありまじめでした。工場には外国人が沢山いました。「とっかりしょ」という灯台のある場所にきれいな景色をよく観に来ていた姿を覚えています。社宅には湧き水を汲む井戸があり周囲を土手に囲まれさくらのトンネルが出来ました。妹を養女にというお話もありましたが、いくら貧しくとも子供を手放すということはありませんでした。 ただ、一房のバナナが買えなくて妹のうちの一人は「バナナ、バナナ」と言い残しながら亡くなりました。</p>

<p>大正 11 年 15 歳の時に北海道庁立室蘭高等女学校に入学しました。室蘭には女学校は一つしかありませんでした。袴をはいて 50 分の道のりを歩いて通いました。お琴を習いました。スポーツは不得意で体は大きいのだけれどかけっこはいつもビリでした。弟達はスキー・スケートが得意でよくやっていましたが私は一切しませんでした。朗らかさはこの大自然の生活の中からもらい、弟妹を育てることで和が自分に備わったように思います。</p>

<p>大正 14 年、 18 歳で卒業して同校の補習科に通い小学校本科正教員の免状を頂きました。 19 歳になり父すすめで行儀見習いを兼ねて父の知人の家に女中奉公に出ましたが一年経たないうちに帰ってきてしまいました。そして二十歳になった年の 12 月に東京葛飾区、水元尋常高等小学校に就職して訓導となりました。その頃は就職が難しく東大や一流大学出でも代用教員が多かったのです。就職祝いに父親が腕時計を買ってくれました。その頃の男女の賃金差は 5 円でした。三枝さん、清水さんという同僚の方々と共同生活しました。月給の半分は貯金することが出来ましたので後に弟が結核にかかったときに援助することが出来ました。初めて教壇に立ったときには足がぶるぶる震えました。ピアノの練習があまりできず歌も私はうまくありませんでしたが音楽の授業は楽しく、たびたび音楽会で優勝しました。歌はもちろん、生徒の態度が良いのがとても評価されました。大勢の弟妹の中で育ったので子供が好きで生徒たちの人気者になっていました。<br />
<img alt="17-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/17-2.jpg" width="150" height="131" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>ただ、体育は相変わらず苦手で跳び箱が跳べず、男子受け持ちの石井先生が男女共同の時間割にしてくださり助けていただきました。その頃私は石井先生に想いを寄せるようになりましたが廊下で出会っても恥ずかしくてトイレに逃げ込んでました。教員同士が恋愛する環境など無く諦めていました。退職時には石井先生からコスモスが描かれた色紙をいただき、その時私が想いを寄せていたことをご存知だったことを知りました。</p>

<p>昭和 7 年私が 25 歳の時に兵庫県神戸市御影に転居しました。東芝に勤めておりました弟が関西の会社に変わることになり家族も一緒に移り住みました。父母、妹二人、弟二人との生活でした。私は失業しましたので三宮の口入れ屋らにいったところ危うく遊郭に送られそうになりました。次の年の 12 月に和歌山県田辺第一小学校の教員になれました。その頃、 26 歳の時ですね、結婚を申し込まれていた男性と弟と三人で池でボートに乗りに行きましたところ、その男性がボートを漕ぐのを弟と代わろうとして立ち上がったところ、ボートが転覆してしまいました。私は水の中に沈んで行く意識の中で「もはや私の人生はこれまでか・・・。」と考えてましたら弟が助けに来てくれました。私を助けた後にその男性を助けようとしたらしいのですが、とき既に遅しで結婚を約束していた男性はその事故で亡くなりました。私が一生涯独身を貫き通しましたのは、女の操をその方に捧げる為だったのかも知れませんね。今では考えられないことでしょうけれどもね、、、。</p>

<p>その後 29 歳の時に大阪市港区の軍需工場、帝国精鋼株式会社監査部に勤務し夜は工場内の青年学校で家庭科を教えました。学生を連れて信貴山での修養に良く出かけました。御影から通えなくて北区のＹＷＣＡの寮に入りました。中路牧師に出会い北海道で馴染みがあったこともあり、キリスト教の教会に通うようになりました。そして 31 歳の 4 月 3 日洗礼を受けました。勤労の生活を送ることを決意し以後 78 歳に至るまで働き続けました。</p>

<p>その後 37 歳で大阪市立結婚相談所に勤務するようになりました。女にとって結婚は大事なことと思っていたので懸命に仕事に励みましたが上司のいじめにあい、ありもしない悪評を流され辞めざるを得なくなりました。その後、大阪市民生局婦人部長に指名され勤務しました。</p>

<p>昭和 20 年私が 38 歳のとき 6 月 1 日に大阪大空襲で西扇町の家が全焼しましたので東淀川淡路の信者仲間の家に逃れました。その後、弟晋の家に身を寄せました。その年の 12 月大阪女性文化の会が発足しました。</p>

<p>40 歳で大阪女性文化の会の会長となりました。北区の市民会館の中にあり戦災で焼けなかった建物でした。準備委員会を十回ほど開催し、メンバーは牧師、後の府立大学長、各区からの代表 1 名ずつで成り立ってました。みんな自身の向上のために集まってくるので嬉しくてよく働いたが役所の人は役所の仕事ではなく手当が出ないから手伝ってはくれませんでした。色々な部活動がありました。当時は娯楽もなければ場所も無かった為大勢の人が集まりました。例えばコーラス部・・・ＮＨＫの作曲家内田元先生が指揮をしてくださいました。電気が無いのでローソクに火を灯し楽譜を読みました。後にバンドを組む人も現れ音楽で救われた人が沢山居たことを後に知りました。アイビーの会、つたの会として今も存続しています。聖書講義・・・役所で聖書を取り上げることに反対があったが人間形成に必要と民生局長が後押しをしてくれました。教養部・・・各種講義、源氏物語等。他にダンス部や洋裁部もありました。わずかな会費や寄付金を講師の謝礼にさせていただきました。会の仕事のほかに結婚、就職、母子寮の世話等もしたので忙しかったです。まじめにやっていれば見ていてくださる人が居る。後になって評価されることが多かったように思います。この頃、現在地の戦災者、引揚者用住宅に当たって両親、妹と共に引っ越しました。大阪女性文化の会での友人・知人との関係が今も続いています。</p>

<p>46 歳で大阪女性文化の会の会長を辞任しました。そして大阪市港福祉事務所勤務となりました。 51 歳で社会福祉主事となります。 57 歳のときに社会福祉事務所を定年退職しまして直ぐに社会福祉法人大阪児童福祉事業協会指導員となりました。 59 歳で福祉謡曲同好会に参加するようになります。 62 歳の時に指導員を退職し大阪氏退職者謡曲同好会に出席するようになりました。 9 月準学校法人日本予備校に勤務するようになる。経理全てを任され 75 歳のときに理事に就任しましたが経営者の兄弟げんかが元で予備校がつぶれました。後に再建され再就職しました。その年に母親が亡くなりました。母親は病知らずの健康体であったが昭和 25 年交通事故に遭って大腿骨骨折の重傷でそれから 3 年間くらい数度の手術、 3 年間ギプスをはめたままの生活はさぞかし苦しかったこととよく辛抱したと思う。病に耐えてようやく退院することが出来た時の父と妹の喜びよう、その笑顔は今もまぶたに浮かんでくるほどだ。その後は元気になり毎月 21 日には聖天様に御詠歌の奉仕に行っていた母は毎朝私が勤めに出るとき手を振って見送ってくれていた。その母が昭和 57 年いつものように手を振って送ってくれたのに勤め先の予備校に着くなり電話が入り突然母が倒れたという。直ぐに入院することになりその後は 6 人の子供達が代わり代わりに看病して数日後に孫が見舞いに来た際にきれいな声で「荒城の月」を歌った母を皆で、忘れないで覚えていたんだねぇと話していた。その夜、疲れてはいけないと弟だけ残して皆帰ったが翌朝弟にヤクルトを飲ませてもらい「ああおいしかった。」と息を引き取った。 93 歳でした。母は常に新鮮な心で感謝して一生を過ごした人でしたので幸せだったと思いますよ。</p>

<p>76 歳で私は謡曲が好きで個人的にも習い始めるようになりました。 78 歳で予備校を退職しました。 87 歳からは生涯学習センターの「八尾文章クラブ」に通い始めまして 10 年間続けて通っていましたら、 10 年前から通い続けているのは淋しいことに私一人になってしまっていました。 最初は 40 人も居ましたのに・・・。私は毎日がとても忙しくあっという間に月日が過ぎて行く感じです。謡曲と文章クラブに通い、教会への礼拝は殆ど毎週出席し、毎日散歩を欠かすことなくしています。又人に会うことも大好きなことの一つですし。そして、週に 2 回のデイサービスに通い週に 3 回ヘルパーさんに来ていただいています。誰かの講演で昔「日本人は何事も三日坊主で駄目だ。よくも悪くも三日では分からない。辞めるのはたやすいが続けて行くことが大事だ。」と聞きそれからはやりかけたことは続けることを心がけ遠くてもがんばって通い続けたりしてるんですよ。あっはっは。それから私は「ドクダミ摘み」をもうずっと長くしていましてね。ドクダミが日陰で花穂に黄色い小花をつける 6 月ごろこれをせっせと摘んできては部屋いっぱいに広げ、乾燥させて友人・知人の方々にお配りしています。それももう何年も続けていますね。きっと北海道で青春時代を過ごした中で仲良しの友人と毎日通った野草摘みの楽しさが今も心に残っているからかも知れませんね。食べるものは何でも好きですね。毎朝バナナを必ず 1 本食べています。又、サツマイモをトースターで焼いて食べるのも好きですね。それと、お茶を毎日飲んでいます。戦時中は食べ物があまり無かった時代でしたが苦労と感じることはありませんでしたね。周囲が皆そうでしたからねぇ。</p>

<p>私は今までの人生を結婚せずに通ってきましたから私が一番嬉しいことは甥や姪が皆、結婚してくれたことですかねぇ。</p>

<p>今、時々思いますのは「昔のような時代が来ればどんなにいいだろうと思います。もうあんな時代は来ないのでしょうね、、、。人と人との心からのつながりがあったような時代だったような気がします。心と心のつながり、真から心のふれあいをしたらそこには必ず「平和」があると思いますよ。</p>

<p><br />
<small>備考・・・熱田さんは 2006 年 8 月 1 日のお誕生日に「百歳、私のてくてく人生」という随筆集を出版されていました。<br />
その本に詳しい人生の記録が記されています。そして、その本の出版をお祝いして沢山のご友人、知人の方々のメッセージが最後に収められていましたが、その内容を読ませていただくにつけ、熱田様のお人柄がいかに素晴らしいかが伝わってきました。<br />
「人に好かれる」という人生を歩んでこられた方だということ、天真爛漫で豪快な笑顔のたえない方だということ、一人で一世紀もの年月を生きてこられたという気丈夫さを併せ持つ不思議な人であること、、、そんな風に記されていました。<br />
そしてインタビューの際に付き添っていて下さった教会のお仲間で岡田様とおっしゃる方も同じように「熱田さんは、皆が元気をもらいに挨拶にやって来られるんですよ。次から次へと熱田さんを慕って来られる方がいらっしゃいますでしょ。<br />
お人善し過ぎて心配になるくらいな事もあります。母が生きていたら丁度、熱田さんの年齢だから私も他人事には思えなくてね、、、。」と身内のように親身になられている方でした。</small></p>]]>
        
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    <title>第16回 久野　富美子さん</title>
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    <published>2011-07-27T07:34:58Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:56:46Z</updated>

    <summary>戦争が終わって何もない時だって、ハーモニカ１つでもあったら、子供を集めて幼稚園のようなことをしたかった......。そんな話をしてくれた久野さん。子供が好きで、かわいくて、かわいくて、仕方がなかったのだとか。だから、戦前、戦時中、そして戦後...</summary>
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        <![CDATA[<p>戦争が終わって何もない時だって、ハーモニカ１つでもあったら、子供を集めて幼稚園のようなことをしたかった......。そんな話をしてくれた久野さん。子供が好きで、かわいくて、かわいくて、仕方がなかったのだとか。だから、戦前、戦時中、そして戦後、 77 歳になるまで、学校や幼稚園で子供たちと接し続けた。<br />
足は多少不自由になっているものの、はっきりとした話し方で、時にはユーモアを交えながら、これまでの人生を振り返り、語ってくれた。<br />
「ものすごく良かった。いい人生」<br />
そう言う久野さんの思い出話には、いつも子供たちに囲まれている姿があった。</p>

<p>■幼少期　～父との思い出<br />
私が生まれたのは、神戸市の県庁近く。今では観光施設になっている「相楽園」が当時は小寺さん （三田藩士・小寺泰次郎）の 大きなお家でね、その西側にありました。いいところでしたよ。<br />
私は３人兄弟の真ん中。兄と妹がいました。もう２人とも亡くなりましたけど......。<br />
父は学校の先生をしていました。でも、私が 10 歳の時に亡くなってね......。あの頃は教師の給料は安くて、労働組合のような制度もちゃんとできていなかったんです。それを改革しようと演説して廻って、そのときの流行性感冒にかかって亡くなりました。それからは、母も学校の先生の免許を持っていたものですから、母が先生をやりながら、苦労して頑張って、私たち３人をちゃんと学校へ入れてくれました。<br />
父の思い出ですか？ありますよ。性格は昔気質で、でも前向きの人やったわ。私はその血を受け継いだみたいで、すぐでしゃばるほう（笑）。父はあっちこっち連れて行ってもくれました。その時分は、喫茶店などなかったから、外で食べさせてくれたのは、田楽やオムレツ。そんなのを覚えてるわ。</p>

<p>■子供の頃の生活<br />
バターを初めて食べたお友達が「バターって美味しいねぇ」って言ってきた時、私はまだ食べていなかったんです。食べてみたかったけれど、母は田舎の出身だから、「そんなもの臭いからイヤ」って言って、私は食べさせてもらえなかった。神戸の真ん中辺りに住んでいたので、台湾やロシアの人がいて、焼き豚、ハム、ベーコンなどをもらうことがあるんだけど、それも母が匂いを嗅いでは「こんなもの食べられへん」ってみんな捨ててしまって......。友達の話にあわせるのに苦労したわ（笑）。<br />
お友達のお家に行って、初めてお紅茶をいただいたのもその頃。ミルクとお砂糖が入っていて、ものすごく美味しかったの。その味がずーっと今でも残ってる。最近はあまり飲まないけど、よそで出されると、「あ、子供のときの味だ！」と思い出します。こういう新しい味はほとんど友達から教わって、母からということはなかったですね。</p>

<p>子供の頃の遊びといえば、近所のお友達と、かくれんぼ、まりつき、なわとび、ままごとなど。ままごとは、お菓子の箱などを使ってお部屋を作って、紙で作ったお人形で遊ぶことが多かったわね。広い家を作って喜んだりね。<br />
ああ、でも、今でも思い出すのは、お雛祭りのときに、母がお雛様と一緒におもちゃや実際に使えるようなままごとの道具も飾ってくれてね、つくしをつんできて煮て、初めてそれでままごとしたわ。七つくらいの時やったかしら。一番嬉しかった。普段はそんなことできないでしょ。<br />
10 歳で父が亡くなってからは、だんだん暮らしが辛くなってしまいました。母は一生懸命働いていたけれど、遅咲きで学校の先生になったから、いろいろギャップがあったりして......。私は長女だったから、家のことばかり思うようになってね。見事な孝行娘になったんです（笑）。<br />
<img alt="16-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/16-1.jpg" width="150" height="140" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>■学校の勉強<br />
学校の勉強は嫌いではなかったわ。算術で教わったのは鶴亀算とか並木算。並木って「間の数」より「木の数」が１つ多いでしょう。それを使って考える計算。鶴亀算は、亀の足は４本、鶴は２本でしょ。それを使って計算するの。これはわかったら面白かったです。<br />
その時分はね、ちょうど日本の作曲家が曲を作り出した頃。それまでのお唱歌はほとんど単調なもので文語体が多かったの。平家と源氏の一の谷の戦いで、敦盛の笛が残っていただとか、そういう叙情的な歌を習いましたね。それから、東京のほうの稲村ヶ崎っていう浜辺で新田義貞が剣を海に投げて......という歌や、義経の『 鹿も四つ足　馬も四つ足　鹿も越え行くこの坂道　馬の越せない道理はない』 という歌とかね、面白いのよ。歴史の歌が多かったです。それで、歴史が面白くなって、いまだに覚えてるもの。学校ではいっぱい良いものをもらった気がするわ。</p>

<p>■女学校・師範学校へ<br />
母が一生懸命働いてくれましたが、家も替わって、替わって、場末のような所まできて、女学校へということになったのだけど、女学校なんか受けさせたこともないような学校やってね。でも、女学校へ行きたいという人が何人か出てきて。そんなふうに女性がだんだん目覚めていった時代だと思う。<br />
それで、先生が一生懸命考えてくださって、新しくできた、神戸市立第二高等女学校というところがあったので、そこへ行って。それからちょうど４年生から５年生に上がるときに、神戸高等商業学校といって、今の神戸大学だけど、そこへ行っていた兄貴が、東京の一ツ橋大学に好きな先生がいるから、そこに行って勉強したいって言い出したの。母親は行かなくていいって言うんだけど、私が「兄さん、行って。その代わり、私が早く仕事について、学資くらい送るわ」って大きいこと言って（笑）。<br />
私は５年生になるときだったから、卒業してもよかったんだけど、師範学校を受けたら受かったの。２年間通う、今でいう短大みたいなものだけど、そのときはまだ１年でよかった。もう本当にね、トコロテン突き出すみたいに、早く出してもらって......（笑）。</p>

<p>■教師になる<br />
その頃は師範学校を出たら、２年間は先生をしないといけない。補助があってほとんどタダで授業を受けられるから、先生にならないんだったら、お金を返すの。<br />
それで、とても頼りなかったと思うけれど、先生になって。「鼻の頭にいっぱい汗かいて、なんかいじらしかった」って言われてました（笑）。<br />
初任給は 40 円。男子校だったら 45 円。不景気の真っ最中で、 40 円でももらったのは１年くらいで、次は 38 円に下がったわ。<br />
その頃は、大恐慌で銀行が次々につぶれて......。相楽園のそばに住んでいた頃は、米騒動もあったし。小寺さんの家（現在の相楽園）はお金持ちだったから、火をつけられたり、門にいろいろ投げられたり、とにかくすごかった。それ見てガタガタ震えていたわ。</p>

<p>■結婚　～共働きの生活スタート<br />
兄貴に「学資くらい送ってあげるわ」って大きいことを言ったけど、 21 歳で結婚しました。夫は、県立工業学校に勤めている人で、あまり給料もよくないし、家は貧乏していたし、兄貴も学校へ無理して行っているしで、私も学校の先生に戻りました。いろいろ理由はあったけれど、一番は先生の仕事が好きだったから、ずっと続けたかった。<br />
それで、いわゆる共稼ぎをやりだしたのだけど、すぐに子供が生まれて。今みたいに保育所はないし、どうやって育てようか悩みました。でも、何とかやり通したいと思っていたら、助けてくれる人がいるものね。<br />
ただ、女中さんには本当に苦労したわ。きつい人だったから、だんだん子供の顔から笑顔がなくなるの。それが本当に辛かった。でも、私はお乳がよく出たから、女中さんに学校へ連れて来てもらって、お乳をあげたりして、なんとかやり通しました。<br />
ある日、女中さんが夜中にいなくなったこともありました。部屋を見たら道具も何もないの。次の日におまわりさんが来て、「おたく、女中さんいなくなったでしょ？」って。なんでも牛乳屋の配達員と留守中に逢引きしていて、示し合わせて荷物を全部持って出て行ったんだって。おまわりさんがつかまえて荷物を調べたら、行李の中からうちのスプーンとかナイフとか所帯にすぐいるようなものを入れてる。......なんかいじらしくて、「もういいですわ」って言ってあげました。</p>

<p>■ 10 年間の東京生活<br />
昭和 10 年、 25 歳くらいの頃、夫が東京の都立大学を作るために引っ張られて、私も一緒に東京へ行くことになりました。私が勤める学校もすぐできて、東京暮らしが始まりました。<br />
東京の子は標準語でペラペラしゃべるでしょ。賢そうな子ばっかりやと思って。吉祥寺の住宅地で、山本有三とか野口雨情が住んでいたようなちょっといいところでした。そこの子供さんたちだから、言葉がきれいで、私がしゃべると「言葉がおかしい」って笑うのよね。私はすぐに順応したけれど、主人は標準語にならずに困っていたみたいです。</p>

<p>■戦争勃発　～明石へ逃げる<br />
そのうち、戦争（第二次世界大戦）が始まって、空襲で火に囲まれて、本当に危なくなることが何度もありました。生徒の家もずいぶん焼かれて預かったりもしました。昭和 19 年に息子が生まれましたが、その頃は母親も学校を辞めて家にいたから一緒に東京へ来てもらって、私が働いている間の面倒を見てもらっていました。<br />
それが、その母親が咳をしたり、血を吐いたりして、お医者さんに結核だと診断されてしまって......。うつらないように母を２階に住まわせて、子供も上に行かさないようにしていたんです。そうしているうちに、焼夷弾が落とされるようになって、明石にいる妹が「危ないからこちらへ帰ってらっしゃい」と言ってくれたので、汽車に乗って子供２人と母親を連れて明石へ戻りました。切符も無理やりとって、母親を２人分のシートに寝かせて、私たちは地べたに座って。それが昭和 20 年。<br />
でも、明石へ帰ってから母親をお医者さんにみてもらったら、結核じゃないって。当時はちゃんと検査する道具もなかったから......。ただ、カルシウムとか結核に効く高価なお薬をいっぱいもらっていたせいか、その後、母親はずっと元気でね、風邪ひとつひかなかったからよかったです。それでね、じゃあ、あの血は何だったんだろうって聞いたら、たぶん歯槽膿漏やったんちゃうかって（笑）。</p>

<p>■明石での空襲体験<br />
せっかく帰ってきたのに、今度は明石に爆弾が落とされるようになり、明石公園に逃げることになりました。でも、母親がトロトロしていて、「先に逃げて、後から行くから」って言うんだけど、「離れ離れになるから、一緒に待ってる」って言って待っていたら、公園のほうからポトポト顔の皮がむけて、ボロボロの人ばっかりがトボトボ帰って来るのよ......。結局、公園に爆弾が落ちたらしくて。......行かなくてよかったんです。<br />
その代わり、何日か経ってから家が焼夷弾でやられてしまったけどね。妹の家の空いている所を借りていて住んでいたんですが、そこは機械油の仕事をしていて、倉庫にいっぱい油があったものだから、そこへ焼夷弾が落ちたら、よう燃えてね......。丸焼けです。<br />
私は前日に怪我をして右手を吊ってたのよ。上の娘と下の子は 12 も歳が離れてるから、すごく弟の面倒をみてくれて、この時もおぶってくれて。私は焼けかけた家に置いてきた物を取りに行くって戻ったんだけど、気付いたら足踏みミシンの上に妹の家から借りていた柱時計を置いて、手が痛いのも忘れて片手で引っ張ってたの。子供のおしめや着替えを取りに戻ったのに（笑）。だから、必要なものはみんな燃えてしまった。後からは笑い話だけど。気が動転して頭が真っ白になってたのね。<br />
右手は交通事故で骨折したのよ。広い国道を娘と乳母車に乗せた赤ん坊と３人で渡ろうとしたら向こうからトラックが来て、逃げようと走って歩道まで着いた時に、トラックが私の肩をさっと擦って、店に突入してしまった。乳母車は国道を走って......。無事だったんだけど。でも、その店も次の日に焼夷弾が落ちて焼けてしまったの。私のせいでつぶしたかと思っていたんだけど、それで罪悪感がなくなったわ（笑）。</p>

<p>■終戦後、再び教師に<br />
８月、戦争が終わって、一人東京に残り、文部省に勤めていた主人もこちらへ帰ってきました。東京では学校をつくる仕事をしていたので、帰ってきてからも、今の大阪府立大学をつくるのに奔走していました。<br />
芦屋駅の近くに大きなお家があって、終戦後は８年間もそこでお世話になりました。主人の中学時代に面倒をみてくださった方なんです。主人は成績は良かったのに貧困家庭で上の学校へ行くお金がなかったから、その方に世話していただいて。<br />
それで、ちょうど離婚されて奥さんが出た後だったから、部屋も余っていて、事情を話したら「来い」って言ってくれて、行ったら喜んでくれました。</p>

<p>そのうち、私もだんだんともう一度学校の先生がしたいと思うようになって。やっぱり子供が好きやったからね。<br />
芦屋駅を降りて山のほうを眺めたら、山の上にホテルみたいなきれいな建物があって、「あれ、なんだろう」ってきいたら「山手小学校や」って。東京では建て替える前の学校ばかりやったから、「きれいやね。あんなところで先生できたらいいな」って言っていたら、そのお世話になっていたお家の方が芦屋でちょっと顔が利く方で、「それやったら、僕が言うたるで」って言ってくれて。終戦後やったから、先生もちょうどいなかったんです。<br />
それで市役所へ行ったら、昔一緒に勤めていた男性が総務部長になっていて、その話をしたら「そりゃ来たらいいわ」ってトントンと話は進んで、その小学校へ勤めることになりました。<br />
忘れられないわ。ホテルみたいなきれいな学校。本当にきれいだった。春には桜がいっぱい咲いてね、職員会議よりも桜の散るのを見てるほうが楽しかった（笑）。</p>

<p>■幼稚園の園長に抜擢<br />
その小学校で３、４年勤めた頃、芦屋には４つ小学校があって、それぞれに幼稚園が付属してたんです。それを市長さんや教育長が、独立させて幼稚園としての教育をしたいということで、私の所へ来られて「園長になってくれませんか」と。<br />
いきなりだったし、経験もないけれど、子供はかわいいし。戦争が終わった時に、ハーモニカ１つあったら子供を集めてそういうことしてみたいなと思っていたこともあって。主人もやれって言うし、私もやってみようと思って迷いもなくその話を受けました。それから１年ほどして、次々に幼稚園が独立していったので、定年まで園長をやりました。</p>

<p>■定年後、私立の幼稚園へ<br />
でも、定年といってもまだ 57 、 8 歳で元気でね。これで辞めてしまうのは惜しいと思っていた時に、ちょうど幼稚園ブームになって、入園できずに待つ子供が出てきたの。その時、西ノ宮のお百姓さんで土地をいっぱいもっている人が、「幼稚園作ってあげるから園長になってくれませんか」と言ってきました。<br />
それで、芦屋で一緒に勤めていた時に一番優秀だった先生を引っ張って、二人でそこへ行ったの。でも、１年目の園児がたったの 45 人しか集まらなくて......。 45 人の月謝だけでは運営は難しいし、幼稚園を作ってくれた方を満足させるのと、引っ張ってきた先生にお給料を払わないといけないのとの間に入って大変でした。<br />
だけど、その先生が「 45 人でもやりましょう」と言ってくれたんです。それが嬉しくて、嬉しくて。ほんまに先生は大事にしなあかんって、改めて思いました。<br />
運動会もたった 45 人じゃ淋しいし、どうやってこの広い運動場を使おうかと悩みましたね。でも、その先生は頭のいい人だったので、例えば行進なら、一人が歩いて１分くらい待って、次の子を歩かせて......というようにしたんです。そうしたら親は自分の子が歩くのがよく見えるでしょ。人数が少ないから遊ぶ場所や道具もいっぱい使って遊べるしね、そんなのですごく評判がよかったんです。</p>

<p><img alt="16-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/16-2.jpg" width="150" height="143" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />だから、次の年からだんだん生徒が増えていって、入れずに待つくらいになりました。自分は芦屋で長い間、園長をしていたし、自信はあったんです。どうやって子供を喜ばせて、遊ばせて、幼稚園を好きになってもらおうかと一生懸命考えていました。先生達とも相談したり、勉強したり。それで、ここが一番いい幼稚園だって、自負できるくらいにはなりました。<br />
保護者はいろいろ要望があるんです。送り迎えのバスや給食が欲しい、保育時間は長くしてほしいとか。でも、私は「送り迎えにバスを使っていると子供の足が弱りますよ。今は親が子供を一番大事にみるべき時ですから、朝は間違いがないように連れて来てください」とか、「子供が健康でいられるように、栄養や配色を考えてお弁当を作るのもお母さんの仕事ですよ」と説明して、バスも給食も取り入れませんでした。子供がいかに遊ぶかということばかり考えて、先生らにもそういう教育をして。私が辞めるまではそのままのやり方できました。<br />
保育が面白かったから、またそこで 20 年。 77 歳まで。振り返ってみると、ものすごく良かった。いい人生。</p>

<p>■夫の死　～人のありがたみ<br />
主人は私が 45 歳のとき、 48 歳で亡くなりました。学校をつくるという仕事は、とても大変だったようです。芦屋（兵庫県）から堺（大阪府）まで通っていたので、「遠足みたいなものや」ってよく言っていました。最後のほうは、授業を午後にとってゆっくり行くようにしていたんですけど。<br />
日曜日の朝、突然、脳溢血で亡くなったんです。大阪府立大学をつくって、まだ間もない頃でした。上の子供はもう 20 歳だったけど、下の子はまだ 10 歳。だから、時々、「お父さんってどんな人やった？」って聞きますね。やっぱり父親のことを想うことがあるみたい。<br />
共働きしていたのに、いつもお金がなかったのは、主人が人におごってばかりいたから。よく学生を連れて来ていました。だから、主人が亡くなったのが給料日の前日だったから、家にはお葬式を出すお金もなくて......。昔の父兄が近くに住んでいたから、３万円借りに行って何とかお葬式を出しました。<br />
それで、私一人の収入になったら、なぜかお金に困らなくなったの。主人が生きているときは、あんなにお金がなかったのに。いかに主人がお金を遣ってきたかということね（笑）。だけど、いまだに主人が世話した人が「あの時、こんなことをしてもらった」「あの時、いただいたものが美味しかった」って、話してくれるんです。<br />
いい加減なことをしたりしないで、辛くてもその人のためにしてあげるということが、やっぱり大事。</p>

<p>■人生を振り返って　～現在の暮らし<br />
ずっと先生や園長をしてきたのは、子供がかわいいから。本当にかわいい。大きくなると顔を見てもわからないし、あまり接触はないんだけど、お母さんたちとは今でも付き合っています。園児の中には、ずっと来る子もいました。家庭に問題があって、荒れてしまって......。園長室から出て行かないくらい。<br />
人生を振り返って想うのは、「人を大事にしてあげる」ということの大切さ。先生という仕事をしてきたら、よけいにそう思います。<br />
辛かったことはあまりないわね。主人が亡くなった時は、下の子が 10 歳やったから、まだまだ頑張らないとあかんという気持ちが強くて、悲しんでばっかりおれなかったし。東京へ行ったり、戻ったりする時も、不思議と辛くなかった。戦争で家が燃えてしまった時も、あちこちの人が経験していることだから、あまり辛くなかったしね。<br />
嬉しかったのは、カギっ子だった下の息子が、塾も行かずに一人でちゃんと勉強して、中学時代はずっと会長も務めて、東大に入ったこと。出てからは自由に生活をしていて、心配も多かったけれど。貧乏しても「金は天下のまわりもの」なんて言っているから、私は「地獄の沙汰も金次第」って言うんだけどね（笑）。まあ、どちらも本当でしょう。</p>

<p>今の楽しみは、川柳。川柳をやっていると、お題に対して常にいろんなことを考えるから、出来栄えよりも「考える時間がある」ということが自分にとっていいなぁと思うんです。みんなもそれが楽しいと言いますね。<br />
お友達は、同年代の方はみんな亡くなったか病院やケアハウスなどに入っているかで、家へ来てくれるお友達は、川柳友達や学校の先生の後輩です。この間も４人で、ここで集まったの。忘年会しようって。<br />
体は丈夫です。もう今更病気してもじたばたしなくていいから、お医者さんはなるべく行かないで、何かあっても電話で薬だけもらうようにしています。<br />
年をとると大変なのよ。だから、何かやりたいと思ったときに、やらないと！私は何も考えないで走って、走ってから最善を尽くしてきました。 77 歳まで仕事があったということは、本当にありがたかったです。 </p>]]>
        
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    <title>第15回 馬杉 次郎さん</title>
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    <published>2011-07-27T07:31:23Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:57:13Z</updated>

    <summary>歳は関係なくバリバリの現役で動き回っています。平成 12 年から高齢者パワーを社会に生かすニューシルバーパワー活動も始めました。その内容は多岐にわたりますが、今特に力を入れているのが&quot;昭和&quot;という時代の意義を考えるきっかけとなる啓蒙活動です...</summary>
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        <![CDATA[<p>歳は関係なくバリバリの現役で動き回っています。平成 12 年から高齢者パワーを社会に生かすニューシルバーパワー活動も始めました。その内容は多岐にわたりますが、今特に力を入れているのが"昭和"という時代の意義を考えるきっかけとなる啓蒙活動です。平成 19 年から、 4 月 29 日 ( 旧天皇誕生日 ) が「昭和の日」として国民の祝日に加えられました。それに先立って、昭和について考えてみようというわけで活動を始めました。</p>

<p>"昭和"に関しては皆さんそれぞれいろんな考えや感慨、あるいは思い出をお持ちのはずです。私の場合、まず思い浮かぶのは「昭和天皇の大御心」で助かったということです。それと、空襲による焼け野原から、昭和を懸命に生きた人たちの努力で、今日のような繁栄をもたらされた。そのエネルギーにも、感銘しています。基本的には"昭和"という時代を平成に生きる私達が感謝の気持ちを持とうではないかと言うことです。</p>

<p>そんな"昭和への感謝の気持ち"を多くの人にアピールするため、平成 18 年 4 月 29日及び平成19年4月28日 の 2回にわたり講演会等を行いました。このような活動は今年（ 2008 年）も 4 月 29 日に行う予定です。<br />
<img alt="15-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/15-1.jpg" width="188" height="155" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>それと私が今もう 1 つ力を入れているのが、生活習慣病の撲滅を目指す運動。今年 (2008 年 ) の 10 月 18 日に、中ノ島公会堂で講演を行い、その後皆さんと御堂筋を歩こうというもので、すでに 3 回目 になりますね。</p>

<p>私は泉州堺で、明治 43 年 1 月 12 日に生まれました。ですから、いま 98 歳ということになりますか。兄妹は兄と妹が 1 人ずつおりましたが、すでに他界しています。子供の頃のことにちょっと触れましょうか。</p>

<p>私の父は、大阪府で 8 番目に免許をとった薬剤師で、自営で仕事をしていました。母親は石見の国 ( 島根県 ) の出身で、なんでも醤油屋の娘だったと聞いていますわ。とにかく堺で生まれ育ったわけです。誰でも、子供の頃の印象深い思い出というものがありますよね。私の場合、小学校低学年の時に、友人を集めて、水をはったコップへ赤インクを落とし、水の色が透明から薄い赤へ変わるのを見せながら、「朱に交われば赤くなる」という話をしたことです。子供の頃から積極的なところがあったんだと思います。あと鉄棒から落ちたことを今でも鮮明に記憶しています。変なことを覚えていますよね。</p>

<p>ところで、私は幼い頃、肋膜炎を患ったため、滋養のためだと毎日、お肉や卵を食べさせてもらっていました。肋膜炎はすぐに治りましたが、その後は病気知らずで健康に過ごせてきたのも、幼い頃の滋養の賜物だと思っています。</p>

<p>小学校を出てからは旧制高津中学校 ( 現・高津高校 ) へ進みました。 3 年生からはバスケットボール部へ入部。キャプテンも２回務めているんですよ。この頃はとにかく毎日走り回っていた。勉強はあまり出来ませんでしたけどね。</p>

<p>そうこうしているうちに中学を卒業する昭和 3 年になりました。ところが、その頃は世の中、ものすごく不景気だった。でもそこは頑張って就職することが出来ました。中学時代、パプアニューギニア島 から帰国した人の講演を聞いたことがあり、海外雄飛を夢見ていたので、選んだのは大阪商船。</p>

<p>中学校の卒業アルバムのコメントの大意は「日本海の分水嶺に立ってショウベンすれば、一方は太平洋、一方は日本海に注ぐ。これからの一歩が重大なのだ」というもので、海外への憧れが込められているな～と今でも思いますね。</p>

<p>昭和 3 年 4 月 から大阪商船に勤め始めたのですが、昭和 6 年に徴兵検査があり、結果は甲種合格。大阪の歩兵第 37 兵隊へ入営しました。 21 歳の時です。ところで、お若い方のためにちょっと説明しておくと、大阪には第４師団があり、その下に歩兵第 8 兵隊と歩兵第 37 兵隊が属していました。大阪市内在住の人は 8 兵隊、郡部の出身者は 37 兵隊へ振り分けられるわけです。堺出身だから私は第 37 兵隊へ、幹部候補生として入隊しました。幹部候補生は 200 名ほどいたのですが、主席で除隊できたんですよ。</p>

<p>ところが、働き盛りの 28 歳だった昭和 13 年に召集令状が来た。俗に言う「赤紙」ですわ。これもちょっと説明しておくと、当時の日本では原則として満 20 歳で徴兵検査をうけます。私のように甲種合格だと、現役兵として 2 年間の兵役がありますが、乙・丙種は軍隊へは行かず、地域に残留します。それに、 2 年間の兵役を終えて帰郷した甲種合格者が、"在郷軍人"として市民生活を送る。この在郷軍人を召集するための命令書が、赤紙です。</p>

<p>第 37 兵隊かなと思っていたら、どういうわけか広島の宇品港にあった陸軍船舶司令部へ配属された。ご存知のようにこの頃から日本は戦争の時代へと突入していく。船舶司令部は、徴用船舶の入出港の司令塔のような役割を持っているので、私も上海、南支那、北支那、仏印、香港、ラバールと、転々として結局 8 年間の戦時生活になりました。</p>

<p>香港へは当時の統治国である英国の軍隊との戦闘を経ての上陸です。私も弾丸が飛び交う攻略戦へ夢中で参加しました。"陸軍"ではあっても、船舶司令部ですから、降伏を勧告するメッセージの看板を、軍用船へ付けたりする仕事もやりましたね。</p>

<p>香港で召集解除かと思っていたら、そのまま軍隊へ残り、ラバールへ転勤を命ぜられ、剛部隊の参謀部に所属しました。仕事は兵站です。ガタルカナルをはじめ、東南アジア方面の各部隊への物資の補給計画の立案が主な仕事でした。</p>

<p>そして昭和 18 年、広島へと転属。結婚をしたのも広島でした。昭和 20 年 8 月 6 日には米軍によって原爆が投下されましたが、私もこの身を持って、その恐ろしさを経験しました。</p>

<p>私は当時、陸軍大尉でした。朝 8 時から朝礼開始の点呼を取っていたのですが、空が真青に晴れていたのを、今でもよく覚えています。広島の原爆投下は 8 時 15 分ですから、まさに朝礼の真っ最中に巻き込まれたわけです。投下時の記憶はあまり無いのですが、砂煙が物凄い勢いで背中を押したことは覚えています。気が付いたら、私は防空壕の中にいました。おそらくそのために原爆の直撃被害を免れたのだと思います。</p>

<p>とにかく夢中で防空壕から出てみると、あんなに青かった空が、一転して火の粉が混ざった厚い雲にモクモクと覆われている。ガスタンクに命中したのかと、兵隊を出して周辺を調査した結果、異常なし。軍の幹部ではこれは"特殊爆弾"だと判断しました。"原爆"なんて皆知りませんでしたからね。</p>

<p>家族は安芸の宮島に近い五日市という所へ疎開していました。当時、昭和 19 年生まれの長男は 1 歳です。心配でたまりませんでしたが、妻と共に無事であることが分かった。これは私の想像ですが、家の中に居て放射線を直接浴びなかったのが良かったんでしょうね。家内は私より 8 歳下の 89 ですが、まあ無事に生きていますからね。</p>

<p>子供は長男と長女の 2 人。長男は 山梨県甲斐市 に住んでいます。すでに定年退職し、現在は再就職して元気に働いています。一方、長女ですが、平成 19 年、 61 歳という若さで癌のため亡くなりました。孫は 4 人で、曾孫は 3 人。今年の正月は例年通り、長男の所で迎えました。温泉も多いし、山梨は良い所ですよ。南の方角に富士山が見えるんです。</p>

<p>ところで、終戦後、帝国陸軍は西日本 10 地区所在の 12 機帆船運航会社を合併して、西日本石炭輸送という公社を作ったのですが、終戦時、私はこの会社で仕事をしていました。戦後は公団としてこの会社は存続したので、そこに務めていたわけです。ところが、昭和 25 年に"統制解除"でこの会社が解体されてしまった。</p>

<p>そこで、とりあえず自立を決意。エンジン付きの木造船で、若松から石炭を大阪へ運ぶ仕事を 1 ～ 2 年続けました。そうしたら今度は統制解除。詳しい説明は省きますが、船舶による輸送が自由になったら、戦前の船舶輸送の拠点だった九州へ多くの輸送船が帰ってしまった。自分で舟を所有していたのではなく、いわばコーディネートビジネスだったので、私が動かせる輸送船はほとんど存在しなくなってしまったのです。</p>

<p>しょうがないので廃業。親戚の世話で石炭問屋へ就職しました。と言っても大会社ではなく、お得意先へリヤカーで石炭を配達する程度の規模です。私はまあそこの番頭みないなものだった。</p>

<p>その当時、面白いエピソードがあります。戦前の陸軍大尉時代によく行った飲み屋が私の会社のお客さんだった。石炭をリヤカーで搬んで行ったら、「石炭なら裏に積んどいてや」と女将にいわれてしまった。戦前の陸軍大尉時代はまさにしたにも置かない扱いでしたから、人間、立場や地位が変わると、相手の接し方も手の平を返したようになるのだと、痛感させられましたね。</p>

<p>その後、その石炭会社から、昭和 28 年に野口ゴムというゴム靴を製造するメーカーへ転職。創始者がまだ経営を指揮していて、当時は 80 人位の規模の会社でした。総務や営業の仕事を任されましたが、ここでは大活躍しましたよ。</p>

<p>この頃は、まだ物資不足で革靴の製造は無理。そこで、ビニールを原料にした靴が多く出回っていました。しかし、ビニール靴は冬になると寒さで硬くなり、亀裂が入りやすくなるという欠点があった。そんな中、創業者の野口進氏がそのような欠点を補う革付きビニール靴を発明して発売したところ、爆発的に売れたんですよ。</p>

<p>私も忙しく働きました。革付きビニール靴の売れ行きが順調なため、取引する問屋の数が急に増え、全国規模になったのですが、それらの問屋への折衝・営業のため、日本中を飛び回っていましたね。</p>

<p>また、私は工事現場や工場で利用されている安全靴に目をつけました。つま先の部分に薄い鉄板が仕込んであり、靴底も釘を踏み抜かない丈夫なゴム底の靴です。これから、経済が成長する日本では、モノ造りに関するビジネスは伸びると思ったので、社長へ安全靴の製造を進言したんです。</p>

<p>この企画は受け入れられて、私も最前線で営業を指揮。当時の国鉄、いまの JR にも売り込みをかけて採用してもらいました。新幹線の路線の工事現場で働く人たちは安全靴をはいていますから、私が売ったものも随分利用されていたはずです。高度経済成長の只中で、夢中で仕事をしてきたなと思います。</p>

<p>私は野口ゴムでは最終的に営業部長まで務めましたが、その頃には創業者の子供達も成人し、専務や常務になっていた。そこで、彼らが働きやすいようにと考えて身を引きました。ところが縁とは本当に異なもので、陸軍船舶司令部時代の上司だった富田三男氏から、声をかけられたのです。かれはダイキン工業 ( 旧大阪金属工業 ) の専務をしていました。ダイキンの総代理店の常陽ダイキン空調で働いてみないかというのです。人は出会いによって人生が決まりまるものですが、私も軍隊時代の縁によって大阪へ戻ってきたわけです。この会社へは長く勤めて営業部長や関連会社の社長もやりました。</p>

<p>この関連会社は 10 名に満たない小さな会社です。その中で、経理の担当者の仕事振りが、特に目に付きました。真面目でよく働いてくれるんです。そこで、すっかり信用して小切手の印鑑も彼に渡して自由に決済できるようにしたところ、城陽ダイキンの経理部から、 3000 万円程度の使い込みの可能性があると指摘を受けたんですよ。</p>

<p>そこで、調べたところ、帳簿に記載されていない小切手が多数切られていた。ビジネスでは人を不用意に信用してはならない、そして印鑑の大切さを痛感させられた事件でしたね。使い込みをした社員は、結局追い詰められて自殺をしてしまいました。とにかく私の人生の中でも、非常に後味の悪い出来事でした。</p>

<p>関連会社を退職してからは友人と会社を共同経営しました。 61 歳くらいの頃ですかね。そのオフィスが大阪のうつぼ公園の側にあったのですが、仕事も昔と比べると落ち着いたので、朝公園を走ることにしたんです。そうしたら、「早朝走ろう会」というグループと出会い、私も入会。それからジョギングがやみつきになりました。</p>

<p>とにかく走るのが大好き。始めたのは遅かったのですが、77 歳と 86 歳の時、ハワイのホノルルマラソンにも参加したほどです。ちゃんと完走しましたよ。 77 歳の時が 6 時間、 86 歳の時には 7 時間 20 分のタイムでした。さすがに今ではフルマラソンというわけにはいきませんが、 60 歳以上のシニアクラスのジョギングクラブに属しています。毎月 1 回大阪城を一周するイベントがあるのですが、欠かさず参加してますよ。ですから、友人も多いですね。</p>

<p>昭和 63 年 11 月から、枚方大橋から淀川河川敷を走る、市民マラソンイベント「大阪リバーサイドマラソン大会」を創設し、"健康は自らの足で鍛えよう！" をスローガンとして健康の自己管理を呼びかけ、今年で20回目、2,000人以上の参加があり、毎年継続してゆく予定です。<br />
平成12年12月には、ランニングの普及発展に貢献したと第13回ランナーズ賞を受賞しました。<br />
このジョギングという楽しみは、今も続いています。ついこの間も、小豆島で 3Km ほど走ってきました。そうしたら、村長から表彰されちゃいました。</p>

<p>ところで、話は変わりますが、私は東京軍事裁判には疑問を持っています。侵略国家だというアメリカ側の一方的な判断を押し付けられた。その後の占領政策でも、修身や歴史道徳や歴史認識に至るまで、日本人の家族観に関する考え方に、アメリカが極端な介入を行った結果、日本人の家族制度の良い部分が決定的に破壊されてしまった。そして、そのような占領教育を受けた世代が団塊で、すでに定年の時期を迎え、その子供達が働き始めている。躾もまったくないような家庭がものすごく多くなっています。</p>

<p>私は今年の年賀状に、"明治男の大風呂敷"で、平成 20 年は大転換の年になると書きました。「民の力で関西に新都市をつくろう！そしてそれを官に賃貸する。関西が変われば日本が変わる！」とぶち上げたわけです。骨子としては「 1. 国会議員堂と官庁街を最新技術で造営する。 2. 観光都市としての景観整備。 3. 大物流センターの建設と運営 ( 大大阪構想 ) 。 4. 日本海文明開発。 5. 瀬戸内海のリゾート化。 6. 地球環境対策センターの設立」などです。</p>

<p>とにかく、民の力で国を運営するのだという自覚。気概と夢を持って日々を明るく生きる。それが大切だと言うことを、私はこの年賀状に込めたつもりです。</p>

<p>東京は江戸時代から現在に至るまで、 400 年以上も首都として機能してきた。でも、そのせいで、弾力を失っていると思うんですよ。私はこれからは「関西の時代や」と思っています。大阪は町人の街だったけど、江戸時代から"天下の台所"として栄えていた。その潜在力があります。世界経済は中国やインドの台頭など、アジアに注目が集まりつつある。ですから、大阪へアジアのハブとなるような大物流センターを作れば、絶対に大きな影響力を発揮できると思いますよ。</p>

<p>それと日本海。いままではあまりにも太平洋側へ注目も財力も集まりすぎていた。日本海側を発展させるための基地としては地理的に大阪がいい。舞鶴や敦賀、新潟などの日本海側の諸都市と位置的に非常にいいわけです。</p>

<p>また、瀬戸内海のリゾート開発のカギは、水上飛行機による交通網の整備だと思います。小さな島が点在しているので、別府、道後、松山、広島などと短距離の航空網を整備すれば、外国人を多く呼び込めるはずです。</p>

<p><img alt="15-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/15-2.jpg" width="160" height="198" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />あまり大きなテーマに触れてしまうと収拾がつかなくなるので、ここでちょっと方向転換。私は健康にも興味を持っていて、今度『お金のかからない健康法』という本を出版します。本は結構多く出していて、『仕事は死ぬまで寿命はあるまで』という本では、生きることそのものが大切な仕事なんだと訴えました。</p>

<p>私は 88 歳で色々なボランティア活動も整理して、青春ならぬ"老春"を謳歌するために、カナダのバンクーバーへロングステイしました。友人が居たということもあったのですが、夏でも 27 度くらいまでしか気温が上がらず、風光明媚、物価も安いバンクーバーは魅力的に映ったんです。</p>

<p>暮らしていたのはもともと友人が住んでいた 30 階建てのコンドミニアム。 17 階の物件を借りました。ちょっと変わったビルで、外観が円筒形をしているんですよ。眺めも良くて全面ガラス張りの部屋もある。全部で 5 部屋、家賃は日本円に換算して 12 万円。 4 月から 9 月までを過ごしました。子供の頃の海外雄飛という夢がかなった気がしましたね。</p>

<p>それからバングラディッシュへも行きました。 250 万円あれば、現地に学校を建てて教師を雇うことができる。そのような目的の募金活動している人が友人にいました。その人に誘われて、募金で建った学校の開校式に出席したんです。首都のダッカから車で 6 時間ほどかかる村まで行ってきました。 700 人位の男女生徒の歓迎を受けて嬉しかったですよ。</p>

<p>海外生活と言えば、「コトバの壁」があると、特に高齢者はしり込みしがちです。でも大丈夫。そこそこの規模の都市ならば、スーパーは日本と同じようなシステムですから、現地語が喋れなくても問題ないんですよ。海外旅行以外にも色々と挑戦していますよ。例えば、 CD も出しました。とにかく勇気を持って行動することが一番。</p>

<p>私の"人生回顧"を一言でいうと、「我、この日本に生を受け、明治・大正・昭和に平成と四代の日々を過ごす。教育勅語に国語・地理、歴史、修身、道徳と基礎学問を教えられる。召集されて、軍人勅諭を空んじ、召集、参戦 8 年間。広島では被爆せるも、怪我もなし。召集解除で民間人。目指すは復興・再建と無病息災で粉骨砕身。仕事に励み青壮年は瞬く間。 60 にしていたって元気。 70 現役、 80 にしてさあこれからと海外生活。 90 を迎えても気力の衰えず、東奔西走で休みなし。これぞ天の恵みとぞ感謝感激極まりなし。広大無辺のこの恩に報いる道はただ 1 つ。人生を人と世のために尽くさんと命の限り働かん」と言った所でしょうか。</p>

<p>昔の日本についてもちょっと感想を述べさせてください「北は樺太、北海道、南は台湾、九州、大小 6800 の島々並ぶ島国にて、同胞すべて 6000 万人。春夏秋冬、桜に紅葉、四季折々の風情あり。風光明媚で花鳥風月、霊峰富士は厳然たり。景観麗しき土地柄なり。島国育ちの国民は神仏混淆。万物に神、宿れりと自然を敬い、それに親しむ。侘び、寂び、渋み、粋など、情緒溢れる言葉の宝庫。仁義礼知信、名誉、道徳の教えを受け、義理人情ば厚くして、強きを挫き、弱きを助ける義侠心。恥の文化に、察っしの文化、勤勉実直、感性豊かな国民性。人みな慈愛に満ち充ちて、一旦、緩急起こりなば、挙国一致。守りは固し大和魂 ( ヤマトダマ ) 」</p>

<p>この言葉に込めた思いは、とにかくそんな日本を保っていくためには基礎学問が大切だとうことです。私達は教育勅語と軍人勅諭を丸暗記させられた世代ですが、幼い頃に脳を鍛えないとダメ。ゆとり教育なんて間違ってますわ。 3 歳までの脳への刺激が大切です。子供は世の中のことが分からないんだから、大人が手を差し伸べないと成長しないんですよ。</p>

<p>またここで、方向転換。私は 98 歳ですが、いまが一番楽しいと感じています。すでに他界したものもおりますが、子供達も立派に成長してくれて、やりたいことができる。しかも健康です。実をいうと私は 50 年間タワシ摩擦を朝晩 2 回行っているんですよ。私は白内障で手術をしましたので、まだ眼鏡なしで新聞も読めますよ。</p>

<p>ところで、最近ものすごく興味を持ったニュースは、京都大学の山中伸弥教授が、世界に先駆けて開発に成功した、人の皮膚細胞を用いた万能細胞である「 iPS 細胞」。神経や骨、臓器などの細胞に分化する前の細胞で、再生医療などで大きな期待が寄せられています。やはり"皮膚"は大切。タワシ摩擦は間違っていなかったわけです。</p>

<p>それと、健康にはまず快食快便。快食とはよく噛むことです。そして美味しく食事を頂く。快便とは決まった時間にお通じがあること。そして快眠です。快食快便・安眠・休息・運動をバランスよく毎日、保つことが大切なんですわ。それと気分転換をすること。</p>

<p>一番悲しかったのは娘が亡くなったこと。ですが、私は「なにくそ精神」でやってきましたから。本を読んで勉強することも大切。とにかく今でも忙しいこっちゃ。どこの明治の男と勝負しても負けませんわ。</p>

<p>論語の有名な教えに｢我十五にして学を志す｣と言うのがありますよね。ところがこれには 80 歳、 90 歳、 100 歳についての記述がない。私は 80 歳になったら、それまでの人生を振り返って集大成すべきだと思います。そして 90 にして養生第一、熟慮行動すべし。 100 になれば全てに感謝し、有終の美を飾るべし、としたいですね。</p>

<p>芳村思風先生の「感性論哲学」をここ 5 年ほど勉強しています。これからは感性の時代だと思いますよ。</p>

<p>論語といえば、もう一つ、中国の倫理詩文「千字文」を、ここ十年位、毎日少しずつ揮毫しています。<br />
論語と千字文が日本にもたらされたのは應仁天皇の招聘により、韓国百済から博士王仁が日本に帰化し、持ってきたとされているものです。</p>]]>
        
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    <title>第14回 柳生 亮三さん</title>
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    <published>2011-07-27T07:29:33Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:57:37Z</updated>

    <summary>オヤジが横浜税関に勤めてました。東京の外語学校に行った後、アメリカなんかの船を相手にしてたんですが、明治三十八年頃、日韓併合で朝鮮が一緒になって、朝鮮の清心（チョンジン）の税関長になりましてね。兄と姉は岐阜にある母の里に学校があったので、そ...</summary>
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        <![CDATA[<p>オヤジが横浜税関に勤めてました。東京の外語学校に行った後、アメリカなんかの船を相手にしてたんですが、明治三十八年頃、日韓併合で朝鮮が一緒になって、朝鮮の清心（チョンジン）の税関長になりましてね。兄と姉は岐阜にある母の里に学校があったので、そっちにおりました。三つか四つの頃。弟・しろうが生まれました。</p>

<p>六歳か七歳の時に、小学校へ入るために母と一緒に郷里の岐阜に帰りました。</p>

<p>小学校の頃、母の兄の家（本家）に、僕よりひとつ若い量二というのがおって、りょうちゃんりょうちゃんと呼ばれていた。同じ名前なんで、僕のほうは「チョウセンりょうちゃん」と呼ばれていました。</p>

<p>母は活動写真が好きで、弟とよくつれていってくれました。洋画も邦画もよく見ましたけど、僕が非常にショックを受けたのは、ローマ時代の映画でスパルタカス。ある英雄の映画なんですが、主人公の少年時代にショックを受けましたねえ。水をかぶったりねえ。寒いのにねえ。</p>

<p>私は体が弱いのでねえ。今でも冷水摩擦をやってますけど、運動会では一番ビリでした。オヤジは朝鮮にいますから、しょうがないからおかあさんがお寿司なんかとってね、観覧席に座って。僕がビリを走るもんですから、みっともなくてね。一生懸命走ってもダメなんですねえ、心臓が弱いから。いやあ、でも僕も頑張りました。</p>

<p>岐阜中学に入ったんですが、当時試験が難しかったんですよ。オヤジが喜んでくれましてね。スイスの時計を贈ってくれたのを覚えてます。</p>

<p>甲組乙組丙組とありまして、私は丙組に入ったわけです。一番若いクラスだったんですが、先生方が丙組に来るのを一番喜んでねえ。「ここに来るとみんな若々しいので自分も若返る」って。体育の時間なんかは参りましたねえ。学校の回りを走るんですが、一番ビリですわ。しょうがないですよね。心臓弁膜症でしたから。先生が、私について走ってくれました。</p>

<p>二年の時かな、富士登山がありましてね。登山希望者が集められる時、心臓が弱いから言うて僕だけ外されましてね。悲観して帰ってきたら、母親が「そいじゃ、近くのお医者さんに診てもらおう」ということになって。いつもの近くのお医者さんに診てもらったら「大丈夫大丈夫、そのくらいならいけるよ」言うてね。証明をもらって学校行ったら「そうだなあ...しょうがないなあ」言うてね。それで私も許されて、富士登山に行きました。</p>

<p>二十名ぐらいで行ったんですよ、静岡県のほうから入るんですけど、ずーっと登って頂上まで歩いていって、今度は山梨県のほうから降りるんですよ。みんな一緒にスタートしたんですが、僕は頂上についたのが第三着ですわ。頑張ったんですねえ。他の連中は、道草くったり、そこらで争ったりねえ。僕は真面目に歩いたから、三番目に着けたんだと思います。頂上に登ったら曇天でねえ。</p>

<p>兄はずっと体が弱くてね。先天的に腎臓が悪くて、早くに死にました。母親は私の弟のしろうとやすおをつれて朝鮮に行ってしまいました。オヤジはその頃もっぽの税関長でした。</p>

<p>卒業しましてどういう道に行こうかと思ってましたら、オヤジが「りょうぞうはお金はもうけることは出来ない。教育者になるかお医者になるか、あるいは宗教家になるか、三つしかない」といわれましてね。ところが幸い中学の四年生のときに、一番上の姉が福井の歯医者さんに嫁に行くことになって。姉に引き取られて、福井中学に入りました。岐阜中学の三年を終わったところで、姉に引き取られて福井中学に転校しました。</p>

<p>ところが福井というところは気候が悪くてね、私の心臓にも影響したんでしょう、ひどい脚気になりましてね。歩けなくなったんですよ、足が膨れたりしてね。半年ぐらい福井でぶらぶらしてましたが、都合のいいことにオヤジが朝鮮のチンナンポウ（今はナンポウ、ピョンヤンの港）の税関に勤めることになって、ここに日本中学ってのがあったんですわ。出来て四、五年ってとこだったんですが、ここへ四年生として転校しました。岐阜中学から福井へ、それから日本中学へ。転校ばかりでショックでした。</p>

<p>最初の時間に先生にカメてのがいまして‥先生の名前を覚えんのです。あだ名ばっかりで呼んどったもんですから。どうしても出てくるのはあだなのほうで。で、そのカメが問題を出したら、出来たのは私だけなんですわ。福井中学は進んどったんです。そやからその問題は楽に解けたんです。そしたらカメが来て、説明もなくいきなりぴっしゃーんと叩くんですわ。痛かったなあ。腹が立つより涙がぽろぽろ出てね。「わしゃやめる」言うて寮に帰って、オヤジに「こんな学校はもうやめる」言うて手紙書いたんです。こんな野蛮な学校におれん、言うて。チンナンポウにはりんご畑がたくさんあったんで、りんご畑で働くからって書いたら、オヤジが手紙書いてきて「馬鹿言うな。何でも我慢せなダメだ。韓信のまたくぐりっていう話がある。少年時代、がき大将に「おい貴様、俺の股の下をくぐれ」と言われても、我慢してくぐった。その忍耐強さから、後に英雄になった。我慢しておれ」と言われました。野蛮な中学じゃなあと思ったけれども、結局二年我慢して寮におりました。</p>

<p>カメというのはホントにカメみたいに背中を丸めて歩く先生でね。みんなで「もしもしカメよカメさんよ」なんてからかったら、カメが怒ってね。「今歌うとったんは誰や！」言うたけど、みんな「知らーん」言うてね。「歌を歌った奴が出るまで帰さん」と言うことになったんです。僕は幸いなことに寮にいましたからね。へっちゃらですわ。夜中になったって構いやせん。結局、夕方になったらみんな帰りますわ。</p>

<p>でもカメは親切なこともあったんです。修学旅行があってね、カイジョウってところがあって、ソウルの下あたりですかね。歴史のある古いところなんですが、古い城壁みたいなところを歩いとったら、腹が悪くなってね。引率してたカメに言って、横にあった竹林にもぐって用を足したら、カメはわざわざ心配して竹やぶの入り口立っとるんです。そういうところもあるんですねえ。カメと一緒に駆け足で、みんなに追いつきました。だからね、しょうがないですよ。頭殴ったりしても。</p>

<p>寮生活がよかったですね。みんな毎日歌ばっかり歌っとって。マンドリンなんか持ってくる奴がおったりしてね。</p>

<p>卒業して、教育者になるつもりで広島高等師範学校を受けたわけですね。私はカメに聞いたんですわ。東京高師（高等師範学校）と広島高師、もちろん東京を受けようと思うと言うたら、「やめやめ、あそこの問題はひねくれとる。しかもここの校長は広島の出じゃ。何かと都合がいいぞ、広島を受けい」といわれまして。広島を受けることになりました。朝鮮におる学生は、朝鮮で試験を受けられます。ケイジョウのある部屋に閉じ込められて、広島から送られてきた試験を受けました。僕はね、物理科学が好きだったんです。物理や天文が特に好きで、飛行機で飛んだらどうなるかな、あそこの空に星があったらどうなるかな、そういうことばっかり考えてね。ところがね、高等師範の第一希望に「物理化学」と書いて、第二希望を空白にしておくのももったいないんでね、「生物」と書いておいたんです。第一志望はダメでしたわ。化学は福井中学では三年の時に終わっていて、私はその後に転校してきたもんですから、習ってなかったんですね。歯科医の義兄が気の毒がって、よく夜に教えてくれましたから、何とか知識はあったんですけれど。四年に入っても化学の古い本を読んでたりしたんで、まあまあ大丈夫かと思ってたんですけど、ダメでしたねえ。第二希望の生物を受けるために、ケイジョウの宿屋で徹夜で教科書を読んだんですが、そいつが当たったんですよ、うまいこと。第一志望の合否結果はダメでした。教育者になれないんなら今度はお医者になるつもりで、ケイジョウの医科大学を受ける準備してたら広島から電報が送られてきました。「第二志望の補欠に入れ」。第二志望言うたら生物やないか、イヤだなあと思ってたらオヤジが「行け」って言うでしょ。イヤだと思ってたけど、カメも広島出たらこの学校に戻ってこられる、行けっていうんで。</p>

<p>広島に来たはいいけど、補欠に入ったでしょ？最初、作るのが間に合わなくて制服がないんですよ、僕のだけ。僕だけ和服でね。絣の着物で、袴はいて、鉄砲かついで歩いとった。みっともないですよ。競練の時なんかね、何か白虎隊かなんかみたいで。歩くのはまあ、我慢できますけど。飛行機が来ると、みんな寝転がって仰向けになって、飛行機に向かって鉄砲を構えるんですが、寝られんですわ、袴や絣がもったいなくて。お母さんに申し訳なくて。制服が出来るのに二週間ぐらいかかったかな。</p>

<p>出席番号が一番ビリだったんです。僕の前には中国からの留学生が三人いた。僕の前の三人が、こうきんきん、もうていほう、ちょうきょうふく、って言ってみんな三文字で名前が書いてある。「柳生　りょう」まで書いてあって、「ぞう」が抜けとる。しかも名前が鉛筆で書かれてある。だから出席簿呼ぶときに「りゅうせいりょう」と呼ぶんですよ。僕は手を上げて「僕は大和民族です！」といったらね、「何、君は日本人か。いや、失礼失礼。中国人かと思った」って言われてね。失礼な先生だ、もうやめようかと思ってね。泣いとったですよ、情けないなー、と思ってね。留学生の一番後に入れられて。どれだけ行李に荷物詰めて帰ろうかと思いましたけどね。でも待てよ、オヤジに言うたらまた例の「韓信のまたくぐり」が出てくるだろうし、我慢したわけですね。</p>

<p>でも、ええこともあった。実験やら何やらするのは四人づつグループになるんですが、僕は「りゅうくん」として例の中国人三人と同じグループになりましてね。不思議なもんだねえ。四年間毎日行ってるでしょ。中国語を覚えてしまって。おかげで将来、天津の女学校に勤めたりするんですけどね。</p>

<p>生物は嫌々だったんですがね、ひとつだけよかったのは顕微鏡を一台づつもらえた。こいつは都合ええですね。専用ですからね。ところが二週間遅れたもんだから、僕は顕微鏡の使い方がわからなかった。それをこの三人が親切に教えてくれました。温室の上にある、水溜りをみんなですくってね、それを覗いたら、ゾウリムシやミドリムシやらいろんな微生物が出てきて、面白くてね。日本学校でチャンパンが、ああ、これはあだ名ですが、チャンパンが生物を教えてくれたときは、顕微鏡がたった一台しかない。行列作ってね。「はい、その次」「その次」なんて顕微鏡を覗かせてもらうだけだったんです。ここに入ったら贅沢ですよ、一人一台なんだから。そのとき初めて微生物を見たんですよ。ショックだったですねえ。日本学校で見たものは竹の皮やら何やら、動かんもんやったんですが、微生物は動くじゃないですか。片っ端からスケッチしましてね。面白くなって、とりこになってしまった。それは単細胞の微生物が動き回ってる。アメーバーやらゾウリムシやらが、スケッチブックにどんどん増えていきましてね。名前がわからんもんですから、Ａちゃん、Ｂちゃん、Ｃちゃんなんて名前をつけましてね。でもそれも２６個で尽きてしまうもんだから、Ａ'、Ｂ'、Ｃ'なんてつけていって。助手の先生に「こういうものが出来た」っていうと、先生びっくりしてね。「先生、これの名前を教えてください」って言ったら「ぜんぜんわからん」といわれました。参考書はあるか、と聞いたら「この学校にはない」と言われましてね。しょうがないですから、本屋に行って外国の専門書をオヤジに無理言うて買ってもらったりね。とうとう生物の専門家になってしまいました。四年間、楽しかったですよ。</p>

<p>天皇陛下が見学に来られたことがありました。「陛下は特に生物がお好きだから」というんで、教室を特別にご覧になって。僕は顕微鏡を覗いてましたらね、陛下はそのとき、僕のところに立って、私の絵を見ておられた。物は言われませんでしたけどね。陛下というのは非常に雲の上の人でもったいない人で僕の後ろにしばらく立っておられたのが記憶に残っています。</p>

<p>高等師範を卒業して、徳島の女子師範学校に行きました。一緒に卒業した十八名は、中学なんかに行ったんだけど、僕だけねえ、「女子」がついとるじゃないか。それで不平を言ったら「いや、君、しかし「女子」の下には「師範学校」がつくじゃないか。普通はみんな中学校だ。君だけ「師範」というのは特別に偉いんだぞ。先生の先生になるんじゃから」と言われて、そうかなあと思って我慢してたね。「先生、女の子は教えにくいなあ」と言うたら、「なあに、たいしたことないぞ。教えるときは一人ばっかり顔を見て教えたらいかんぞ、みんなの顔を一様に見りゃあええ。なあに、世話ぁない。天井向いてしゃべれ。そしたら公平じゃから」って言われて。</p>

<p>師範学校には一年半ほどおってね、そこで「広島に文理科大学ちゅうのが出来る。よし、そこに行って自分の好きなアメーバーなんかの研究をやろう」と思って。でも、その前にお金を貯めようと。オヤジは「三年間大学出るぐらいまで、お金を出したるよ」と言ってくれたけど、迷惑かけちゃいかんと思ってね。日本におったら稼げないから、植民地か外国に行ってお金をもうける。それで大連、ハワイにある日本中学の校長に勝手にどんどん手紙を出した。返事は来ましたねえ。やっぱり高等師範っていうのはよかったんだな。日本中学の時に大連に行ったことがあって、港町で非常に景色がよかったから、大連の女学校に行くことに決めました。</p>

<p>「お金を稼ぎたいから、植民地の、大連の女学校に行きます」って言うたら、校長が怒ってねえ。「一年半でやめるとは何事だ、少なくとも三年はおらないかん」他の先生が東京高師ばっかりで、広島高師からは僕しかいなかったもんだから、母校のためにも、そんなに早くやめるわけにいかん。しょうがないなあ、と思ったら、運がいいねえ。校長が栄転していって、広島高師卒のおじいちゃんが校長になってやってきた。こりゃええわいと思ってたら、承諾はしてくれたものの、「そしたら君、後任を紹介してくれ」と言われましてね。しょうがないんで、母校の同級生にあちこち手紙だしたら、喜んで来るってのがいましてね。</p>

<p>無事に後任も決まりまして、正式に辞めることになったら、突然「これから全校生徒、講堂に集まれ」と放送が入りましてね。僕の送別式ですわ。講堂に行って、校長が「柳生先生が大連の日本女学校に行くことになりました」って言うたら、びっくりしたねえ。みんな、わあわあ泣き出してなあ。あんなに泣かれたことは初めてじゃ。びっくりもしたけど、感激しました。「忍び泣き　男先生のお別れ」って、新聞にまで載りました。「講堂の乙女ら泣かせし転任」ってね。泣き止ませるのが大変でした。</p>

<p>僕はいつも、天井向いてしゃべってましたからねえ。公平にせにゃいかんってね。相手にはしてなかったんですけど、親切にはしてやった。細かく教えてあげた。それが良かったんですかね。昨日も大連女学校の卒業生が、同窓会に僕を呼びに来るんですわ。みんなおばあさんになってるけれどもね。一番年取ったのが９３歳、若いので７３歳ぐらいですわ。広島の街に三十人ぐらいで集まって、毎年みんなでわあわあ言うてね。東京でも毎年やりますがね。東京へもいっぺん来いと言われとるんですが、面倒くさいから行かんですわ。私はええかげんなことを喋るんですよ。それをまたよろこんで聞いとるんですわ。みんな、最後は握手して別れていく。もう今度はやめようかと思ったけど、是非来てくれって言うからね、挨拶だけしました。</p>

<p>どうして僕はこうもてるんですかね。大連の弥生というところで、今度は色気のついた娘さんじゃない、小学生の担任にあたってね。遠足があったの。大連の郊外に丘があるんです。生徒には港に向かって自由行動です、言うて僕は一人で山のほうへ歩いて行ったら、来るわ来るわ、僕の後にいっぱいついてくる。他の先生にはついていかんのですよ。しょうがないからこれは何とかのほこらだとか教えながら行くとね、「先生、これ何て言うの」「何て言うの」...うるさいからね。みんな手に持って浜辺まで行こう、って言って僕が走り出すと、みんな走り出してね。「先生待ってくれー」「待ってよー」って、袖をひっぱる奴までおってね。とうとう洋服が破れたの。まいったですわ。</p>

<p>女の子ばっかりじゃないんですよ。天津ではね、男子ばっかりの日本商業学校っていうのがあってね。そこも女学校と兼任で教えに行った。</p>

<p>四年生、五年生はいいんだけど、一年生がかなわんわね。僕が植物や動物の話をするときにね、教科書の中だけじゃ面白くないから動物に会った話とか、探検の話とか、いい加減な作り話をするわけです。それが面白かったんじゃろうなあ。坊主たちが「話の続きをやってくれ」って、日曜にも来るんですわ。眠いでしょ。ベットに寝転がったままでおると、坊主たちがぐるっと取り囲んでね。僕は作り話をするんだ。向こうからタヌキが僕の側に来て、かわいがられるとみんな喜んで寄ってくるとかね。それを喜んで聞くんじゃねえ。かわいかったねえ。みんな、坊主たちは。</p>

<p>30半ばの時に結婚しました。天津の日本女学校に四年ほどいましたが、広島に戻ってこいって言われまして。尾道の向かいの島にある、広島大学の臨海実験所ってところで助手をしてました。家内も天津にいたんですが、私より１年半後に戻ってきましてね。別にね、特別に喋ったことはないです。ただ、たまたま親切にごちそう食わせてくれたんでね、覚えてましたけれど特に何とも思ってなかったです。家庭科の先生として、奈良女高師にいたの。丸池っていうてね。天津におったときに料理の試食に呼ばれたりして、おいしいおいしいってほめたことがあってね。親しくしてた体育の先生が、「柳生先生、丸井先生をもらわんか？一人でおったら不便じゃろう」言うてね。もらわんか、言うたってね。自炊してましたからね。その先生が助教授のところまで行って、「柳生さんが一人でいるのも気の毒だから、嫁さんを世話してやりたいと思ってるんですが」って言うたら、賛成って言うたらしい。それで助教授が「先生から聞いた。嫁さんを世話してもらえ」って言うて。じゃあ、しょうがないな、そうしましょうっていうことになって。島みたいな寂しいとこでもいいか、って聞きましてね。</p>

<p>けんたろうは、向島で生まれました。もう戦争が始まっとって、瀬戸内海は潜水艦や魚雷があって危ないと言われとった頃でした。宮崎に家内の里がありまして、呉から船に乗って、大分の港までお産に行って帰ってきました。</p>

<p>九州よりも広島のほうが安全だろうと思ってた時に、原爆が落ちました。３９歳の頃ですね。広島から東、むかいなだに東洋工業という工場があります。自動車の部品とか飛行機のプロペラなんかを作ってるところなんですが、そこに高等師範の生徒を動員していました。３０人から４０人連れてね。向島の寮に泊まって毎日働いてました。８月５日はちょうど休暇で、広島に借りていた家に帰りました。家内も宮崎から赤ちゃんを連れて、広島に戻ってました。</p>

<p>明くる朝１０時に、広島の真ん中にある川のたもとに集まって、建物疎開の手伝いをすることになってまして。爆心地から２キロほど離れたところで寝てました。いつもならよちよち歩きの子供が、外で友達なんかと遊んでるような時間なんですが、その時に限ってどうしたもんかね、家内と一緒に蚊帳の中で寝てましたわ。ちょうど８時前でしたかね。僕もそろそろ出発せにゃならんと思いつつ、新聞読みながらね。あっと思ったら、屋根が飛んでて、青天井になってました。カーッとひかって、ダーンという音がして、縁側に置いてあったタンスが、爆風で頭の上を飛んでいってね。てっきり、僕の家に爆弾が落ちたんかと思ったんですよ。屋根は全部落ちて、柱だけが残ってましたよ。酷い目に遭ったんですわ。窓側におったもんですから、僕だけガラスがたくさん刺さって、目は片方つぶれましてね。家内と坊は、蚊帳の中におったんで助かりました。その日も朝から空襲警報が何度かあったんで、ゆっくり蚊帳の中で寝てたのが幸いしました。外にいた子はみんな血だらけでね。水道が出てましたんで、うちで目を洗ったりしましたが、みんな死にました。その晩はどうすることもできずに、近くの山の麓に行って寝ました。みんな蚊帳を持って行ってね。まあ、その時の話は話しにならん、お話できんほどです。</p>

<p>原爆症で、それからずっと下痢しました。目に入ったガラスは、僕の友達が夕方やってきて取ってくれました。それから学校に報告に行きました。生き残った先生だけでね。血だらけになってたり、びっこ引いたりね。その途中は、死体がごろごろ転がっててね。東練兵場てところを横切る時、学校動員の中学生がたくさん死んでましたわ。仰向いて、手を組んでね。体は焼けてしまってみんな真っ黒ですよ。男性のシンボルがね、空を向いてるんですよ。かわいそうにね。</p>

<p>それから川沿いを歩いてると、今度は女学生が倒れとる。これもみんな仰向けですわね。大事なところには瓦が乗せてあった。これは誰かが僕より前に来た連中が後から乗せたんでしょうが。僕も瓦を乗せてやればよかったんだけども、そんな瓦も転がってませんでしたよ。</p>

<p>それから電車道に来たら、電車に引かれた人がそのままで...話しにならんな。橋の上から河原見たら、川べりにも、黒こげになってごろんごろん転がってる。かわいそうに、みんな、水を飲みに来たんですね。今でも思い出すのが、一人若い女の人が、可哀想に物も言えんと水を求めてね。その辺に水がないんですよ。帰りにはもう見ませんでしたけど。</p>

<p>二番目の子供、おさむは戦後生まれです。だいぶ落ち着いてから、敗戦後に焼け跡にバラックを建てまして、そこで生まれました。この子が生まれた頃は、だいぶ平和になってました。</p>

<p>それからずっと広島大学で、定年まで勤めた後、ひじやま女子短大の教授をしてました。</p>

<p>宮内庁で生物学の研究をしてらっしゃった方と学会が同じだったことがご縁で、天皇陛下が見つけた新種の生物を、頼まれて本にまとめたりしてました。宮内庁に呼ばれたりしたこともありました。昭和５２年と５３年のことです。一度目の時は定例で毎年学者を呼んで話を聞くんですけど、このとき広島大学から行ったのは僕だけですよ。その時いたのは東大、京大、北大。原生動物、小さい３ｃｍぐらいの動物の話を一人あたり３０分ぐらい話しましたね。陛下の顕微鏡を持ってきて、それを見せるのよ。陛下、喜んでご覧になられてねえ。一生懸命、まじめですわ。</p>

<p>（天皇陛下は）珊瑚とかね、海についてる寄生虫の研究をしてらっしゃいました。ある時珊瑚にびっしりとついてるのがいて、これの名前がわからないといって、その虫の写真を送って来られました。これは珍しくて日本ではまだ記録がありません、って送り返したら、侍従が「天皇陛下が直接話を聞きたいから、柳生を呼べと言うてる」って。しょうがないなー、また行かなならんなーということで。二回目は、研究所に僕だけ呼ばれて。これは名誉なことですよ。正式に、個人的に呼ばれたんですから。集めた資料を見て、僕が説明したんですね。陛下がのぞき込まれるんですよ。「これはどう？これはどうなっとるの？」と質問されるから、説明しとるわけですね。陛下の頭がすぐそこにあるんですよ。ああ、白髪があるなって、毛が数えられるところにあるんですよ。仮に僕が気が狂っとったら、どんなことをするかわからん、ここで陛下の頭押さえでもしたら、どういうことになるかと思って、変な想像なんかしましたねえ。亡くなられる１０年ぐらい前の事ですね。僕より４つぐらい上ですから、兄貴みたいな感じですよね。４０分ぐらい喋ったかな。私の講義はこれで終わります、資料は差し上げましょうかって言ったら、ご自分で資料をちゃっちゃっと集められてね、侍従に渡そうとされるから、僕が丸善の紙袋にお入れしてお渡ししたら陛下が受け取られました。ありがとうとはおっしゃいませんが、天皇陛下はちょっと偉そうにお話されるなーっと、敬語はお使いにならないものだなーっと思っておりました。まあ、こっちは下々のもんですからね。しかし礼儀正しいですよ。侍従に「お入り下さい」と言われて入ったら、陛下が立っとられるんですよ。頭は下げんけれども、陛下がこっちきて「お座り下さい」おっしゃて、僕の後からお座りになるんですよ。講義が終わった時も、陛下も立たれてね。玄関先で振り返っても、まだ見送ってらした。先生として迎えられたんだなあと感激しました。</p>

<p>この時のものを「伊豆半島沿岸における新島のきゅうかんちゅう」として英語、ドイツ語、ラテン語で発表しました。陛下が発見されたものですから、喜ばれましてねえ。お通夜も呼ばれたんで、行きました。亡くなられた時に棺桶に乗っとったんですわ。</p>

<p>教え子がたくさんおるからねえ。手紙来たり、何か送ってきたり、いろいろ大変ですわ。そういうおつきあいでお返事書いたり、研究やスケッチを本にしようとまとめたりして結構忙しいです。本にまとめるにはもう三年ぐらいかかりますね。１０５歳までは生きないと。この間は免許を更新しました。車も運転しますし、自分でトンカツも揚げます。一人暮らしですから。ヘルパーは週に二回だけ来ますけど、自分で作りますね。だから誰かが来たら、その人たちの分も作りますよ。朝はベーコンエッグとトースト。郵便局や、銀行に行ったりするのは自分で行きます。<br />
<img alt="13-3.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/13-3.jpg" width="206" height="158" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>部屋も綺麗にしとるでしょ。分類学が専門ですから。海外へも何度か、学会の発表で行きました。家内がリュウマチで１０年前ぐらいから寝たり起きたりしてたんで、それから料理を作るようになりました。レシピを聞いてメモを取ってね。肉が好きですね。トンカツとかライスカレーも作ります。しゃぶしゃぶなんか、簡単でいいですね。昼はうどんを作ったり。すぐできるし、非常に簡単でおいしくていいです。カルピスはもう、毎日飲んでる。お酒は飲まないんですけどね。塩をなるべく取らんようにね。血圧が高いんですよ。</p>

<p>自炊することはええことですよ。好きな物作って食べられるから。人を集中させますね。脳細胞に大変都合がええんですよ。女性のほうが長生きするのがわかりますよ。主人をごらんなさい、ただ作ったものを食っとるだけや、これじゃいかんわね。自分で火の加減とか味加減とか、おしょうゆ加減とか、自分でやってみないかん。うどん煮る時でもね、待てよ、今日は塩を入れるのちょっと忘れたなーと思ったりね。そういうことでしっかりするんでしょうねえ。気にしてるとボケないですわ。食べることは毎日のことだからね。三回ちゃんとしてます。何にも苦に感じませんよ。ただ、材料を買ってくるのは面倒くさい。買い物は、週二回買ってきてもらえれば間に合います。ひとつも心配ないです。食いたくないと思ったら、食わんからね。</p>

<p>家内は一昨年の１月３日に、９１歳で亡くなりました。もう三回忌ですね。１０２歳の僕の誕生日に一緒にやりました。亡くなる前は一年ほど入院してたんですが、毎日車で見舞いに行きました。旦那の鏡や言われてね。介護士さんもそんなに長いことついていられないでしょ。だからそれは僕の仕事や言うてね。一時間ぐらいかけて、食事を食べさせたり。もう毎日看護して。回りの若い人たちには、「いつも元気もらう」って言われました。しょうがないですわ、僕が行かんとね、やっぱり。ほっとくわけに行かんですから。家内が物を言ったことはない。ただ、元気か、と言ったらうなづくぐらいで。でも、心が通じてましたね。嬉しそうな顔するから。最後まで僕を尊敬してましたね。十年間ぐらいはどうもこうもならんかったですからね。リュウマチは怖いですわ。</p>

<p>教え子が先に死んでしまうんですわ。情けないことにね。</p>

<p>教訓なんて偉そうなもんはありません。ただ、好きなことをやっとるだけです。コレしかできないんですから、僕は。くよくよせんこっちゃな。待てよ、お友達はみんなもう死んどるじゃないかと思うとね。こりゃどうもならんなあと思ってね。</p>

<p>あとやっぱり、希望を持つことですかね。これだけはせにゃ、と思ってね。悲観せんこっちゃな。　 </p>]]>
        
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    <title>第13回 福雄 勝次さん</title>
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    <published>2011-07-27T07:26:22Z</published>
    <updated>2011-08-01T01:58:03Z</updated>

    <summary>兄弟は５人、長女は17歳で死亡、私が長男、双子の弟と、妹の５人兄弟。 そして且、継母に長女と長男がいましたので合計は ７人兄弟です。現在私だけが生存者として獨り頑張っています。 祖父の時代から砂糖メリケン粉等の卸業をしていましたが、父は祖父...</summary>
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        <![CDATA[<p>兄弟は５人、長女は17歳で死亡、私が長男、双子の弟と、妹の５人兄弟。<br />
そして且、継母に長女と長男がいましたので合計は ７人兄弟です。現在私だけが生存者として獨り頑張っています。<br />
祖父の時代から砂糖メリケン粉等の卸業をしていましたが、父は祖父との折合が悪く小生が半歳位の時、母と小生を連れ上海へ無断で逃避行をしていましたが、双子の弟出産の為、止むなく一同帰国。<br />
とは云え、小生にとって最も残念なのは相生町に祖父が建てたがっちりした高家風の建物がアメリカの焼夷弾に上り、他の建物と共に一夜にして焼失してしまった事であり、実母の長期療養の間、祖父母と生活を共にした事が思い出されます。<br />
実の母親は私が小学校3年くらいの時に亡くなったので、その2年後くらいに継母が来ました。<br />
継母はとても教育熱心だったことと、祖父が学費を出してくれたこともあり、当時では上の学校まで行くことができました。</p>

<p>姫路にて船場小学校・姫路中学校に通って居ました。その折、学費は祖父が小生の名義で \100 ( 当時は大金 ) の銀行預金にして、継母に渡していました。当時、姫路中学校は優秀でしたし思想としては「質実剛健」そのものでした。<br />
その後、旧大阪市立高等商業学校・商部 ( 現在の大阪市立大学 ) に入学・卒業後、昭和 5 年 4 月 父のいとこの「福雄商店」にてアルバイト。<br />
この当時は就職状況最悪且つ兵役は甲種合格の為、就職先は全くありませんでした。</p>

<p>その後昭和 5 年 2月1日から幹部候補生として国に \100を納入野砲兵第十聯隊 ( 連隊 ) 第九中隊に入隊。姫路にて現役として 10 ヶ月の猛訓練を受けました。<br />
中学 ( 旧五年制 ) 以上の学歴の者は志願により国に \100を納入、幹部候補生になりました。</p>

<p>除隊後、昭和 6 年 12 月中旬から昭和 7 年 1 月中ごろまで又、急性肺炎により入院生活。<br />
この時も相当ひどかったが奇跡的に命が助かりました。 41 度の熱が出て死ぬ思いだったのです。</p>

<p>その後昭和 7 年 4 月初旬から早山製油所 ( 現在の昭和石油の前身 ) 大阪出張所に入社。→鳥が辻の学校へ赴き就職斡旋を受けての入社。<br />
平成 8 年 10 月頃その会社は一年半程度で退社。理由は、、、若さゆえのロマンがあったからです。<br />
その後すぐに次は伯父の紹介で英国系の会社でウォーカー合資会社というところに入社しました。ここは、リプトン紅茶・バンホーテンココア・ヘネシーブランデー・ロンドンドライジン等の輸入のエージェント会社でした。<br />
新たに設立の輸出部に勤務。だが、輸出先信用状況の不安 ( 上海事件等の影響、戦後東京方面へ進出の由漏れ聞く ) 業績も芳しくなく整理業務をして辞めました。昭和 11 年でした。</p>

<p>その後、昭和 11 年 3 月にドイツ系の、リッカーマン商会に入社。 但し日常仕事上では主として英語で済むので支障もありませんでした。</p>

<p>昭和１２年 1 月に結婚してその 7 ヶ月後の 8 月に戦争 ( 支那事変 ) に召集されました。<br />
お見合い結婚で神戸で結婚しました。明治 45 年生まれの家内は約 2 年前に 94 才で他界しました。</p>

<p>昭和 12 年 7 月 31 日～ 14 年 9 月 30 日まで 2 年 2 カ月間、支那事変に応召、北支・中支・山西方面・大別山脈を越え、漢口 ( 中国中部地方 ) へ、揚子江を南下し南京の対岸より北上し、北京経由で京漢沿線の警備中討伐隊に参加、帰途左膝関節部に介達性の桟館掃射を受け、今もその傷跡は残っていますが、歩行に支障は無く助かりました。<br />
モンハン方面の停戦成立により部隊帰還となり召集解除となりました。</p>

<p>昭和 14 年 11 月～ 15 年 1 月まで阪東調帯護漢謨株式会社へ家内の伯父の世話により入社。神戸で本社勤務後外地工場、朝鮮護謨調帯株式会社京城出張所長として赴任しました。<br />
<img alt="13-1.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/13-1.jpg" width="150" height="147" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></p>

<p>昭和 16 年 7 月 31 日再度京城にて現地召集。輜重兵第 20 聯隊に入隊。朝鮮方面軍、陸上勤務中隊長 ( 隊員 約 600 名 ) として丁度 1 年間朝鮮各地にて工兵隊への協力部隊として活躍、陸上勤務中隊部隊解除により原隊へ帰還。<br />
昭和 17 年 8 月 1 日野砲兵第 20 聯隊補充隊へ転属。京城へ行きました。</p>

<p>昭和 18 年 3 月　野砲兵第 30 聯隊に転属の為平壌に赴く。中支よりの帰還部隊 2 箇大隊と小生等京城の 1 ヶ大隊の計 3 ヶ大隊で野砲兵第 30 聯隊編成。<br />
平壌は元来歩兵 1 カ聯隊のみの駐留でしたが、新たに歩兵聯隊が加わりその他工兵隊、砲兵、輜重隊等特科隊を揃え初めて平壌に第 30 師団が創設されました。<br />
当時日本の陸軍としては戦争末期の事ながら、とって置きの敗因でした。</p>

<p>昭和19年 5 月10日平壌出発、釜山港を経て一路比島ミンダナオ島に向い潜水艦の脅威を警戒しつつスリガオ港上陸後リアンガに転進、 3 カ月後再びスリガオに帰りダバオ地区防御の為転進準備をしました。昭和 19 年 9 月 9 日正午ごろ日本が比島全域に渡り大空襲 ( 真珠湾攻撃に対する仕返し ) に遭遇し、『眠豹』抜粋　（ S36.8.27 　豹第 12029 部隊戦没者慰霊祭記念） 、本艦 (5000t 級 )3 艘、機帆船 100 艘以上、グラマン F6F( 航空母艦から来た小型飛行機 ) 数十機の反復攻撃により凡て撃沈されました。此の間、唯一隻の桟帆船のみ漂流、是に漂流中のもの一途移乗したもの幹部としては小生のみを残し、他は激しい潮流関係もあり遺体の行方も知れずでした。<br />
正しく奇跡の中に立ちはだかった感じがしました。<br />
その後、体制を立て直しカガヤンを経て一路悪路 ( 道路荒廃甚だし ) と闘い乍らやっとの地点にまで達しました。<br />
レイテ島情勢の悪化により反転せしも甲斐なく再び同島中央部のマライバライに集結。<br />
最後の砲撃戦の後、ジャングルに入り奥地「ワロエ」 ( 師団現地自活予定地 ) に集結中、 8 月 15 日の無条件降伏のビラを撒かれ昭和 20 年 9 月 10 日、それから約 1 か月経ったものの、師団長も意を決しようやく投降することにしました。<br />
昭和 21 年 3 月末、米軍の LST に上りようやく浦賀に帰還しました。</p>

<p>戦争中、一番つらかった時期はやはり最後のジャングルの中での生活。ジャングルに入った時は 130 名居た兵は 13 名になり最後は 6 名に。 （その中には韓での特別志願兵2名生還）<br />
食べるものは無く体は骨と皮だけになっていった。それでもかろうじて生き延びた者だけが残った。言葉では言い表せないくらい壮絶な状況でした。<br />
依って、昭和 20 年 8 月 15 日終戦記念日はジャングルの中に居たわけです。</p>

<p>私が 3 月に横須賀帰還してから、約 10 カ月遅れて妻が博多へ引き上げてきました。その時はもう乞食みたいなかっこうでした。<br />
妻には本当に苦労ばかりさせましたがよく付いてきてくれたと感謝ばかりです。<br />
子供は二人恵まれ上が女の子と下が男の子は平壌の官舎で産まれました。</p>

<p><img alt="13-2.jpg" src="http://www.yumephoto.com/ym/image/13-2.jpg" width="150" height="147" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" />帰還してからは神戸の須磨に移り住みました。姫路は爆撃で一夜にしてやられてしまっていたので。<br />
それから姫路の本家の親戚の家に行ったり、後のおふくろのおじさんの家が東天下茶屋で少し住み、そのあと妻が帰ってきてから堺の滝谷の引き上げ住宅に移り住みました。<br />
それでようやく妻と一緒に住むようになりました。</p>

<p>仕事は、私の学友と一緒に商売をして 80 歳まで現役で仕事をしていました。<br />
大阪の谷町にいてそのあと大阪の四ツ橋ビルの 9 階にいました。<br />
工業用機械刃物を扱っていてダンロップや三ツ星ベルト、オーツタイヤ(株)等が取引先でした。</p>

<p>私の場合は数奇な運命だと思っています。</p>

<p>小さい頃から 3 度、肺炎で死にかけています。<br />
最初は現役終了後、二度目は昭和 6 年、三度目は平成 16 年にも肺炎になり死にかけていましたのに助かりました。</p>

<p>「人間は運命」だと思います。</p>

<p>今は、大阪の狭山市に住んでいて自分の人生を自分史としてまとめておきたいと思って何度も書くのですがなかなか思うように進まず困っています。 私のような人生は数奇な人生だと思うから書き残しておきたいと思っているのです。</p>

<p><br />
今も年に一度は必ず大阪の北御堂に「戦友会」のメンバーが集まります。戦争にまつわる色んな経験をしたものが戦友達を偲び集まります。<br />
戦争体験の多くも書き残したいと思っているのです。</p>

<p><small>『眠豹』抜粋　（ S36.8.27 　豹第 12029 部隊戦没者慰霊祭記念）</p>

<p>「雑感」　福雄勝次<br />
終戦と云う言葉も今ではムード的に受け難い事とは云へ「老兵は死せず」とか、つわものどもの夢の跡か未だに尾をひいているようでもあり、生き還った者達の脳裏にふと浮び上る程その後の十六年は然し所謂娑婆に再び入り込んでからは何故か余りにも長すぎたようにも思われる。戦後の建直しは意外に進み、まさかと思われる事態が百八十度の転回を起し何事にも先づ民主の声がつきまとっている。民主主義が極端な自由主義にはき違へられ只々己の意を全うすればそれで事足れりとの考へ方が動 ( やや ) もすれば風靡しがちな此の時世に誰しもが戦争の話はいやだと単純に割りきって征きて還らざりし者の事を敢て考えようとしないような気もする淋しさは只一部のもののみが抱いていなければならぬのか？<br />
幾百万の英霊、馬鹿な戦争さへ起さなければ、その英霊という言葉もなかりしものをと端的に考えている者達に所謂民主だ、いやレージュアーブームとかで騒ぎたてられる事態にまでなり得た過程が果して分っているのかとぶちたくなる。<br />
「厂史は繰返す」との言葉が今又東西両陣営の冷たい確執の中から再び浮び上りつつある事態は一体どうした事か？神ならぬ人間は互いに自己の主張と威信の保持の為に夫々集団をつくり上げその中で忠誠を誓い合い、その不信者を排他する。これが人間と云う者の強さの一面であり、又弱さの他面でもある。<br />
弱肉強食と云う此の昔ながらの言葉は何時の時代にもあった事だし、又これからもある事だろう。それは人間が神でない限りそうであり、自己の力を培養しつつ之をより強きものにする事により自己を誇示し敢て他を降そうとする。人間が純理性的なものであるとすれば必ずや平和も文字通り維持される筈だ。然し人間は所詮感情の動物であり、触発的な厄介者である。そしてそれは戦後の所謂平和時代と考へられる今時ですら底辺上で絶えず蠢 ( うごめ ) いている。<br />
謙虚乃至自己滅却、これこそ人間かより神への道であり平和維持の最善の心構へであると思われるか積み重ねられた豊かさを失うまいとする者達とその積み重ねが搾取によるものだとしてそれを意地からでも覆えそうとする者達との間には最早そう云った神への道もあり得ないのではなかろうか。<br />
爾後の戦争に対するイメージの恐しさによるお互いの自重と譲歩だけが辛うじて今の平和を保っているとすれば感情の動物である人間としての集団は誤った計算の下で何時ボタンを押さぬとも限るまい。万事休す。<br />
兎や角駄辯ってみても神のみぞ知るで、凡ては時が解決してくれる。<br />
その時によって解決されたものとして吾々は現在生き延びているわけだが、より高度の文明に俗している反面よりスケールの大きい戦争の即決的な危機に晒されてもいる。生き延びた事はいゝか悪いか兎や角論じてみても仕方がないものゝ矢張り生あるものとして生き甲斐はあったとしなければならないだろう。<br />
「昨日の敵は今日の友」鬼畜米英と罵ったその昔は全く夢以外何ものでもなかろう。それが厂史の一駒で運命は皮肉である。<br />
東と西、お互いに自己の陣営を守らねばならぬ運命にあるとして是から先どうなる事か凡て時のみが解決してくれる。その時は果して何時か？<br />
生き甲斐があるとすれば、それを見極めた上での事になるとも云えよう。<br />
ある運命傍観論者の言。</p>

<p>「追記」　福雄勝次<br />
丁度十七年前の茫らいだ記憶の中から引き出せる。そして自分としては恐らく他の犠牲者と同じ運命を辿っていたゞろうと思われるが斯うして生き還っている事実が一つの奇蹟であると考へられる事に「スリガオ」湾上爆撃の一節がある。此の件については自分が野砲部隊としては只一人の最終的な生還者であった事から書き残しておいてもと思い追記します。<br />
「ダバオ」地区への転進命令による警備地区「リアンガ」の撤去から再び「スリガオ」を経て「カガヤン」に至るべく「スリガオ」桟橋で火砲、装甲車等師団主要火器の相当数を積み込んだ大祐丸？は桟橋を?れて一応沖合に仮泊し、僚船一隻の外轆馬等積載の機帆船百数十隻と共に翌昭和十九年九月九日の出帆を待った。<br />
出帆当日九時頃だったか警戒警報発令、各自部署についたものゝ敵機らしきもの来らず稍々気抜けした気持で正午も過ぎ此の分ならばと思っていた矢先（一時過ぎ）超低空のグラマン編隊丘陵線上すれすれに来襲、すわとばかりいきこんだ各対容火器は一斉に火を吹きだしたものの戦果、零、全くしてやられた結果はまさしく真珠湾奇襲の仕返しといったところ、本船は他の僚船、機帆船同様に既に危ふく退船命令となり、海中に飛び込む者多数、一方船内では自分は当時第二大隊（野砲）の宰領者として乗り込んだ次第だが、本然の指揮下中隊（ 6A ）関係で負傷者一名を出したので藤井少尉（ 6A 小隊長）外に班長一、戦友一を付添わせ手当中たまたま機帆船（マヤ丸？）が本船救出の為接触したのを幸い各隊の船上残存者と共に之に移乗、船は浜ならず方向を沖合にとった為敵機としてはまさに好餌と云ったわけ、反復銃撃を受けた船内では死傷者多数、既に船外に飛び出した者も可なりあった。支那事変当時の討伐時一、二回奇襲にあった時は陸上の事ではあり、何んとか身動きもついたものゝ船内の事とて全く身動きもつかず、もう是が最後と念仏代りにとでも云ほうか天皇陛下万才と口ずさんだものだった。此の時船内には僅か数名が同じような心境で残っていたが同乗の坂根大尉、藤井少尉等の姿は既に見当らなかった。此の間船は既に火災を起し始めた為止まる事ならず、ゆくてに島影を認めたのが生き得る自身を呼び起したきっかけとなった。早速軍刀は腰にさしかえ、銃弾除けとしての鉄帽をかぶり海中に飛び込んだものゝ執拗な迄に銃撃を受け乍ら岸辺に泳ぎついた。泳ぎついた者の調査、集合の結果は何分各兵科の寄り合いという事になり、負傷の船舶砲兵小隊長の外、腹部を貫通された大西軍曹（ 4A ）―よくそれで泳ぎついたものだか人間は矢張り気力だ、―　外に大隊内の兵一名、他は各隊負傷者を含め約三十名。<br />
早速各本隊との連絡の為「バンカ」二隻を入手、船舶砲兵の小隊長と大隊の兵一名を「バンカ」に乗せスリガオに向わせた。<br />
一方重傷者は手当てと言っても殆んど不可能だった為やがて次々と七名の戦死者を出した。（大西軍曹もその一人）<br />
さて連絡に出した「バンカ」も果して筋書き通りに行くかは疑問故後は何んとか「バンカ」を都合しなければと思い、他の島等各方面を捜索させたが結局見当らず爾後は可能性のないでもない救援を待つばかり、然し燃し続けた火が（椰子の枯葉で燃え続けている機帆船から「バンカ」で火種をとる）何よりの目印となり、夜半大発から呼ぶ声に一同救われた思い、然し定員の関係上やっと重傷者のみを乗せ遺骸の事もあり異常なきものゝみ十名残留。一応連絡がついたので再び救援を依頼したおいたが待てど来らずで夜も明けた。此の間附近の一軒の民家から誰かゞ石油一箱一杯の「キャッサバ」を見付け出してくれたので当面の腹ごしらへとしては何よりだった想い出も懐かしい。<br />
次に遺骸の処置の事になるが是は椰子の枯葉のみでは聊か無理だし、丁度見付けた丸太が何よりだった。椰子の枯葉の上に丸太を並べ、その上に七つの遺骸を置き、更に椰子の枯葉で掩い茶毘にふした当時の情景が今でも忘れられない。拾い上げた遺骨を夫々適当な容器に正分の上関係各隊の戦友が持ち、これで後は只如何にして各原隊に復帰させるかゞ問題で、一隻のバンカでは解決もつかず、兎も角現地を撤収する事に決心し、更らに島内を物色中日も既に暮れかげんとする頃全く天祐とでも云うのだろう。大型バンカ二隻、中型一隻を草叢 ( ムラ ) 中に発見、全員勇躍の上之に分乗、尚之続けるスリガオに向い、岸辺寄りに暗中を幾度か沈みそうになり乍らやっと辿りついたと云う次第。<br />
早速上司に報告、然し生還を喜んでもらへた事は第二次的な問題。と云う事は何故大発に乗って速に復帰しなかったかと云うお叱り、是はまさしく軍隊という一つの組織として自己の部下の事を考へようとしなかった責は免れないという事になる。然し一面その場の現況として如何に他隊の寄り合い世帯とは云へ、幹部のいない遺体を抱えた残存者は見捨てるわけにも行くまい。此の考へ方は矢張り指揮官としては適切ではなかったと云う事になり、敢て余計な御節介と云う事になるのか？<br />
涙を飲むべき場面は軍隊には余りにも多すぎる故、余計な御節介は不必要だと云う事に対する一例。<br />
だが、敗戦の将は兵を語らずとか終戦後十六年になる今では只理屈抜きの想い出だけが懐かしくも感ぜられる。 </small></p>]]>
        
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