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明治の人の人生
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福雄 勝次 (ふくお かつじ) さん
兵庫県姫路市出身 大阪府狭山市在住
明治43年3月1日生まれ

兄弟は5人、長女は17歳で死亡、私が長男、双子の弟と、妹の5人兄弟。
そして且、継母に長女と長男がいましたので合計は 7人兄弟です。現在私だけが生存者として獨り頑張っています。
祖父の時代から砂糖メリケン粉等の卸業をしていましたが、父は祖父との折合が悪く小生が半歳位の時、母と小生を連れ上海へ無断で逃避行をしていましたが、双子の弟出産の為、止むなく一同帰国。
とは云え、小生にとって最も残念なのは相生町に祖父が建てたがっちりした高家風の建物がアメリカの焼夷弾に上り、他の建物と共に一夜にして焼失してしまった事であり、実母の長期療養の間、祖父母と生活を共にした事が思い出されます。
実の母親は私が小学校3年くらいの時に亡くなったので、その2年後くらいに継母が来ました。
継母はとても教育熱心だったことと、祖父が学費を出してくれたこともあり、当時では上の学校まで行くことができました。

姫路にて船場小学校・姫路中学校に通って居ました。その折、学費は祖父が小生の名義で \100 ( 当時は大金 ) の銀行預金にして、継母に渡していました。当時、姫路中学校は優秀でしたし思想としては「質実剛健」そのものでした。
その後、旧大阪市立高等商業学校・商部 ( 現在の大阪市立大学 ) に入学・卒業後、昭和 5 年 4 月 父のいとこの「福雄商店」にてアルバイト。
この当時は就職状況最悪且つ兵役は甲種合格の為、就職先は全くありませんでした。

その後昭和 5 年 2月1日から幹部候補生として国に \100を納入野砲兵第十聯隊 ( 連隊 ) 第九中隊に入隊。姫路にて現役として 10 ヶ月の猛訓練を受けました。
中学 ( 旧五年制 ) 以上の学歴の者は志願により国に \100を納入、幹部候補生になりました。

除隊後、昭和 6 年 12 月中旬から昭和 7 年 1 月中ごろまで又、急性肺炎により入院生活。
この時も相当ひどかったが奇跡的に命が助かりました。 41 度の熱が出て死ぬ思いだったのです。

その後昭和 7 年 4 月初旬から早山製油所 ( 現在の昭和石油の前身 ) 大阪出張所に入社。→鳥が辻の学校へ赴き就職斡旋を受けての入社。
平成 8 年 10 月頃その会社は一年半程度で退社。理由は、、、若さゆえのロマンがあったからです。
その後すぐに次は伯父の紹介で英国系の会社でウォーカー合資会社というところに入社しました。ここは、リプトン紅茶・バンホーテンココア・ヘネシーブランデー・ロンドンドライジン等の輸入のエージェント会社でした。
新たに設立の輸出部に勤務。だが、輸出先信用状況の不安 ( 上海事件等の影響、戦後東京方面へ進出の由漏れ聞く ) 業績も芳しくなく整理業務をして辞めました。昭和 11 年でした。

その後、昭和 11 年 3 月にドイツ系の、リッカーマン商会に入社。 但し日常仕事上では主として英語で済むので支障もありませんでした。

昭和12年 1 月に結婚してその 7 ヶ月後の 8 月に戦争 ( 支那事変 ) に召集されました。
お見合い結婚で神戸で結婚しました。明治 45 年生まれの家内は約 2 年前に 94 才で他界しました。

昭和 12 年 7 月 31 日〜 14 年 9 月 30 日まで 2 年 2 カ月間、支那事変に応召、北支・中支・山西方面・大別山脈を越え、漢口 ( 中国中部地方 ) へ、揚子江を南下し南京の対岸より北上し、北京経由で京漢沿線の警備中討伐隊に参加、帰途左膝関節部に介達性の桟館掃射を受け、今もその傷跡は残っていますが、歩行に支障は無く助かりました。
モンハン方面の停戦成立により部隊帰還となり召集解除となりました。

昭和 14 年 11 月〜 15 年 1 月まで阪東調帯護漢謨株式会社へ家内の伯父の世話により入社。神戸で本社勤務後外地工場、朝鮮護謨調帯株式会社京城出張所長として赴任しました。

昭和 16 年 7 月 31 日再度京城にて現地召集。輜重兵第 20 聯隊に入隊。朝鮮方面軍、陸上勤務中隊長 ( 隊員 約 600 名 ) として丁度 1 年間朝鮮各地にて工兵隊への協力部隊として活躍、陸上勤務中隊部隊解除により原隊へ帰還。
昭和 17 年 8 月 1 日野砲兵第 20 聯隊補充隊へ転属。京城へ行きました。

昭和 18 年 3 月 野砲兵第 30 聯隊に転属の為平壌に赴く。中支よりの帰還部隊 2 箇大隊と小生等京城の 1 ヶ大隊の計 3 ヶ大隊で野砲兵第 30 聯隊編成。
平壌は元来歩兵 1 カ聯隊のみの駐留でしたが、新たに歩兵聯隊が加わりその他工兵隊、砲兵、輜重隊等特科隊を揃え初めて平壌に第 30 師団が創設されました。
当時日本の陸軍としては戦争末期の事ながら、とって置きの敗因でした。

昭和19年 5 月10日平壌出発、釜山港を経て一路比島ミンダナオ島に向い潜水艦の脅威を警戒しつつスリガオ港上陸後リアンガに転進、 3 カ月後再びスリガオに帰りダバオ地区防御の為転進準備をしました。昭和 19 年 9 月 9 日正午ごろ日本が比島全域に渡り大空襲 ( 真珠湾攻撃に対する仕返し ) に遭遇し、『眠豹』抜粋 ( S36.8.27  豹第 12029 部隊戦没者慰霊祭記念) 、本艦 (5000t 級 )3 艘、機帆船 100 艘以上、グラマン F6F( 航空母艦から来た小型飛行機 ) 数十機の反復攻撃により凡て撃沈されました。此の間、唯一隻の桟帆船のみ漂流、是に漂流中のもの一途移乗したもの幹部としては小生のみを残し、他は激しい潮流関係もあり遺体の行方も知れずでした。
正しく奇跡の中に立ちはだかった感じがしました。
その後、体制を立て直しカガヤンを経て一路悪路 ( 道路荒廃甚だし ) と闘い乍らやっとの地点にまで達しました。
レイテ島情勢の悪化により反転せしも甲斐なく再び同島中央部のマライバライに集結。
最後の砲撃戦の後、ジャングルに入り奥地「ワロエ」 ( 師団現地自活予定地 ) に集結中、 8 月 15 日の無条件降伏のビラを撒かれ昭和 20 年 9 月 10 日、それから約 1 か月経ったものの、師団長も意を決しようやく投降することにしました。
昭和 21 年 3 月末、米軍の LST に上りようやく浦賀に帰還しました。

戦争中、一番つらかった時期はやはり最後のジャングルの中での生活。ジャングルに入った時は 130 名居た兵は 13 名になり最後は 6 名に。 (その中には韓での特別志願兵2名生還)
食べるものは無く体は骨と皮だけになっていった。それでもかろうじて生き延びた者だけが残った。言葉では言い表せないくらい壮絶な状況でした。
依って、昭和 20 年 8 月 15 日終戦記念日はジャングルの中に居たわけです。

私が 3 月に横須賀帰還してから、約 10 カ月遅れて妻が博多へ引き上げてきました。その時はもう乞食みたいなかっこうでした。
妻には本当に苦労ばかりさせましたがよく付いてきてくれたと感謝ばかりです。
子供は二人恵まれ上が女の子と下が男の子は平壌の官舎で産まれました。

帰還してからは神戸の須磨に移り住みました。姫路は爆撃で一夜にしてやられてしまっていたので。
それから姫路の本家の親戚の家に行ったり、後のおふくろのおじさんの家が東天下茶屋で少し住み、そのあと妻が帰ってきてから堺の滝谷の引き上げ住宅に移り住みました。
それでようやく妻と一緒に住むようになりました。

仕事は、私の学友と一緒に商売をして 80 歳まで現役で仕事をしていました。
大阪の谷町にいてそのあと大阪の四ツ橋ビルの 9 階にいました。
工業用機械刃物を扱っていてダンロップや三ツ星ベルト、オーツタイヤ(株)等が取引先でした。

私の場合は数奇な運命だと思っています。

小さい頃から 3 度、肺炎で死にかけています。
最初は現役終了後、二度目は昭和 6 年、三度目は平成 16 年にも肺炎になり死にかけていましたのに助かりました。

「人間は運命」だと思います。

今は、大阪の狭山市に住んでいて自分の人生を自分史としてまとめておきたいと思って何度も書くのですがなかなか思うように進まず困っています。 私のような人生は数奇な人生だと思うから書き残しておきたいと思っているのです。

今も年に一度は必ず大阪の北御堂に「戦友会」のメンバーが集まります。戦争にまつわる色んな経験をしたものが戦友達を偲び集まります。
戦争体験の多くも書き残したいと思っているのです。



『眠豹』抜粋 ( S36.8.27  豹第 12029 部隊戦没者慰霊祭記念)

「雑感」 福雄勝次
終戦と云う言葉も今ではムード的に受け難い事とは云へ「老兵は死せず」とか、つわものどもの夢の跡か未だに尾をひいているようでもあり、生き還った者達の脳裏にふと浮び上る程その後の十六年は然し所謂娑婆に再び入り込んでからは何故か余りにも長すぎたようにも思われる。戦後の建直しは意外に進み、まさかと思われる事態が百八十度の転回を起し何事にも先づ民主の声がつきまとっている。民主主義が極端な自由主義にはき違へられ只々己の意を全うすればそれで事足れりとの考へ方が動 ( やや ) もすれば風靡しがちな此の時世に誰しもが戦争の話はいやだと単純に割りきって征きて還らざりし者の事を敢て考えようとしないような気もする淋しさは只一部のもののみが抱いていなければならぬのか?
幾百万の英霊、馬鹿な戦争さへ起さなければ、その英霊という言葉もなかりしものをと端的に考えている者達に所謂民主だ、いやレージュアーブームとかで騒ぎたてられる事態にまでなり得た過程が果して分っているのかとぶちたくなる。
「厂史は繰返す」との言葉が今又東西両陣営の冷たい確執の中から再び浮び上りつつある事態は一体どうした事か?神ならぬ人間は互いに自己の主張と威信の保持の為に夫々集団をつくり上げその中で忠誠を誓い合い、その不信者を排他する。これが人間と云う者の強さの一面であり、又弱さの他面でもある。
弱肉強食と云う此の昔ながらの言葉は何時の時代にもあった事だし、又これからもある事だろう。それは人間が神でない限りそうであり、自己の力を培養しつつ之をより強きものにする事により自己を誇示し敢て他を降そうとする。人間が純理性的なものであるとすれば必ずや平和も文字通り維持される筈だ。然し人間は所詮感情の動物であり、触発的な厄介者である。そしてそれは戦後の所謂平和時代と考へられる今時ですら底辺上で絶えず蠢 ( うごめ ) いている。
謙虚乃至自己滅却、これこそ人間かより神への道であり平和維持の最善の心構へであると思われるか積み重ねられた豊かさを失うまいとする者達とその積み重ねが搾取によるものだとしてそれを意地からでも覆えそうとする者達との間には最早そう云った神への道もあり得ないのではなかろうか。
爾後の戦争に対するイメージの恐しさによるお互いの自重と譲歩だけが辛うじて今の平和を保っているとすれば感情の動物である人間としての集団は誤った計算の下で何時ボタンを押さぬとも限るまい。万事休す。
兎や角駄辯ってみても神のみぞ知るで、凡ては時が解決してくれる。
その時によって解決されたものとして吾々は現在生き延びているわけだが、より高度の文明に俗している反面よりスケールの大きい戦争の即決的な危機に晒されてもいる。生き延びた事はいゝか悪いか兎や角論じてみても仕方がないものゝ矢張り生あるものとして生き甲斐はあったとしなければならないだろう。
「昨日の敵は今日の友」鬼畜米英と罵ったその昔は全く夢以外何ものでもなかろう。それが厂史の一駒で運命は皮肉である。
東と西、お互いに自己の陣営を守らねばならぬ運命にあるとして是から先どうなる事か凡て時のみが解決してくれる。その時は果して何時か?
生き甲斐があるとすれば、それを見極めた上での事になるとも云えよう。
ある運命傍観論者の言。

「追記」 福雄勝次
丁度十七年前の茫らいだ記憶の中から引き出せる。そして自分としては恐らく他の犠牲者と同じ運命を辿っていたゞろうと思われるが斯うして生き還っている事実が一つの奇蹟であると考へられる事に「スリガオ」湾上爆撃の一節がある。此の件については自分が野砲部隊としては只一人の最終的な生還者であった事から書き残しておいてもと思い追記します。
「ダバオ」地区への転進命令による警備地区「リアンガ」の撤去から再び「スリガオ」を経て「カガヤン」に至るべく「スリガオ」桟橋で火砲、装甲車等師団主要火器の相当数を積み込んだ大祐丸?は桟橋を?れて一応沖合に仮泊し、僚船一隻の外轆馬等積載の機帆船百数十隻と共に翌昭和十九年九月九日の出帆を待った。
出帆当日九時頃だったか警戒警報発令、各自部署についたものゝ敵機らしきもの来らず稍々気抜けした気持で正午も過ぎ此の分ならばと思っていた矢先(一時過ぎ)超低空のグラマン編隊丘陵線上すれすれに来襲、すわとばかりいきこんだ各対容火器は一斉に火を吹きだしたものの戦果、零、全くしてやられた結果はまさしく真珠湾奇襲の仕返しといったところ、本船は他の僚船、機帆船同様に既に危ふく退船命令となり、海中に飛び込む者多数、一方船内では自分は当時第二大隊(野砲)の宰領者として乗り込んだ次第だが、本然の指揮下中隊( 6A )関係で負傷者一名を出したので藤井少尉( 6A 小隊長)外に班長一、戦友一を付添わせ手当中たまたま機帆船(マヤ丸?)が本船救出の為接触したのを幸い各隊の船上残存者と共に之に移乗、船は浜ならず方向を沖合にとった為敵機としてはまさに好餌と云ったわけ、反復銃撃を受けた船内では死傷者多数、既に船外に飛び出した者も可なりあった。支那事変当時の討伐時一、二回奇襲にあった時は陸上の事ではあり、何んとか身動きもついたものゝ船内の事とて全く身動きもつかず、もう是が最後と念仏代りにとでも云ほうか天皇陛下万才と口ずさんだものだった。此の時船内には僅か数名が同じような心境で残っていたが同乗の坂根大尉、藤井少尉等の姿は既に見当らなかった。此の間船は既に火災を起し始めた為止まる事ならず、ゆくてに島影を認めたのが生き得る自身を呼び起したきっかけとなった。早速軍刀は腰にさしかえ、銃弾除けとしての鉄帽をかぶり海中に飛び込んだものゝ執拗な迄に銃撃を受け乍ら岸辺に泳ぎついた。泳ぎついた者の調査、集合の結果は何分各兵科の寄り合いという事になり、負傷の船舶砲兵小隊長の外、腹部を貫通された大西軍曹( 4A )―よくそれで泳ぎついたものだか人間は矢張り気力だ、― 外に大隊内の兵一名、他は各隊負傷者を含め約三十名。
早速各本隊との連絡の為「バンカ」二隻を入手、船舶砲兵の小隊長と大隊の兵一名を「バンカ」に乗せスリガオに向わせた。
一方重傷者は手当てと言っても殆んど不可能だった為やがて次々と七名の戦死者を出した。(大西軍曹もその一人)
さて連絡に出した「バンカ」も果して筋書き通りに行くかは疑問故後は何んとか「バンカ」を都合しなければと思い、他の島等各方面を捜索させたが結局見当らず爾後は可能性のないでもない救援を待つばかり、然し燃し続けた火が(椰子の枯葉で燃え続けている機帆船から「バンカ」で火種をとる)何よりの目印となり、夜半大発から呼ぶ声に一同救われた思い、然し定員の関係上やっと重傷者のみを乗せ遺骸の事もあり異常なきものゝみ十名残留。一応連絡がついたので再び救援を依頼したおいたが待てど来らずで夜も明けた。此の間附近の一軒の民家から誰かゞ石油一箱一杯の「キャッサバ」を見付け出してくれたので当面の腹ごしらへとしては何よりだった想い出も懐かしい。
次に遺骸の処置の事になるが是は椰子の枯葉のみでは聊か無理だし、丁度見付けた丸太が何よりだった。椰子の枯葉の上に丸太を並べ、その上に七つの遺骸を置き、更に椰子の枯葉で掩い茶毘にふした当時の情景が今でも忘れられない。拾い上げた遺骨を夫々適当な容器に正分の上関係各隊の戦友が持ち、これで後は只如何にして各原隊に復帰させるかゞ問題で、一隻のバンカでは解決もつかず、兎も角現地を撤収する事に決心し、更らに島内を物色中日も既に暮れかげんとする頃全く天祐とでも云うのだろう。大型バンカ二隻、中型一隻を草叢 ( ムラ ) 中に発見、全員勇躍の上之に分乗、尚之続けるスリガオに向い、岸辺寄りに暗中を幾度か沈みそうになり乍らやっと辿りついたと云う次第。
早速上司に報告、然し生還を喜んでもらへた事は第二次的な問題。と云う事は何故大発に乗って速に復帰しなかったかと云うお叱り、是はまさしく軍隊という一つの組織として自己の部下の事を考へようとしなかった責は免れないという事になる。然し一面その場の現況として如何に他隊の寄り合い世帯とは云へ、幹部のいない遺体を抱えた残存者は見捨てるわけにも行くまい。此の考へ方は矢張り指揮官としては適切ではなかったと云う事になり、敢て余計な御節介と云う事になるのか?
涙を飲むべき場面は軍隊には余りにも多すぎる故、余計な御節介は不必要だと云う事に対する一例。
だが、敗戦の将は兵を語らずとか終戦後十六年になる今では只理屈抜きの想い出だけが懐かしくも感ぜられる。

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