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馬杉 次郎(ますぎ じろう)さん
大阪府枚方市在住
明治43年1月12日生まれ


全国ニューシルバーパワーの会会長
全国健称マラソン会大阪支部相談役
枚方・交野健康むら 21 ネット代表
生活習慣病撲滅国民運動実行委員長
昭和の日記念行事実行委員長

歳は関係なくバリバリの現役で動き回っています。平成 12 年から高齢者パワーを社会に生かすニューシルバーパワー活動も始めました。その内容は多岐にわたりますが、今特に力を入れているのが“昭和”という時代の意義を考えるきっかけとなる啓蒙活動です。平成 19 年から、 4 月 29 日 ( 旧天皇誕生日 ) が「昭和の日」として国民の祝日に加えられました。それに先立って、昭和について考えてみようというわけで活動を始めました。

“昭和”に関しては皆さんそれぞれいろんな考えや感慨、あるいは思い出をお持ちのはずです。私の場合、まず思い浮かぶのは「昭和天皇の大御心」で助かったということです。それと、空襲による焼け野原から、昭和を懸命に生きた人たちの努力で、今日のような繁栄をもたらされた。そのエネルギーにも、感銘しています。基本的には“昭和”という時代を平成に生きる私達が感謝の気持ちを持とうではないかと言うことです。

そんな“昭和への感謝の気持ち”を多くの人にアピールするため、平成 18 年 4 月 29日及び平成19年4月28日 の 2回にわたり講演会等を行いました。このような活動は今年( 2008 年)も 4 月 29 日に行う予定です。

それと私が今もう 1 つ力を入れているのが、生活習慣病の撲滅を目指す運動。今年 (2008 年 ) の 10 月 18 日に、中ノ島公会堂で講演を行い、その後皆さんと御堂筋を歩こうというもので、すでに 3 回目 になりますね。

私は泉州堺で、明治 43 年 1 月 12 日に生まれました。ですから、いま 98 歳ということになりますか。兄妹は兄と妹が 1 人ずつおりましたが、すでに他界しています。子供の頃のことにちょっと触れましょうか。

私の父は、大阪府で 8 番目に免許をとった薬剤師で、自営で仕事をしていました。母親は石見の国 ( 島根県 ) の出身で、なんでも醤油屋の娘だったと聞いていますわ。とにかく堺で生まれ育ったわけです。誰でも、子供の頃の印象深い思い出というものがありますよね。私の場合、小学校低学年の時に、友人を集めて、水をはったコップへ赤インクを落とし、水の色が透明から薄い赤へ変わるのを見せながら、「朱に交われば赤くなる」という話をしたことです。子供の頃から積極的なところがあったんだと思います。あと鉄棒から落ちたことを今でも鮮明に記憶しています。変なことを覚えていますよね。

ところで、私は幼い頃、肋膜炎を患ったため、滋養のためだと毎日、お肉や卵を食べさせてもらっていました。肋膜炎はすぐに治りましたが、その後は病気知らずで健康に過ごせてきたのも、幼い頃の滋養の賜物だと思っています。

小学校を出てからは旧制高津中学校 ( 現・高津高校 ) へ進みました。 3 年生からはバスケットボール部へ入部。キャプテンも2回務めているんですよ。この頃はとにかく毎日走り回っていた。勉強はあまり出来ませんでしたけどね。

そうこうしているうちに中学を卒業する昭和 3 年になりました。ところが、その頃は世の中、ものすごく不景気だった。でもそこは頑張って就職することが出来ました。中学時代、パプアニューギニア島 から帰国した人の講演を聞いたことがあり、海外雄飛を夢見ていたので、選んだのは大阪商船。

中学校の卒業アルバムのコメントの大意は「日本海の分水嶺に立ってショウベンすれば、一方は太平洋、一方は日本海に注ぐ。これからの一歩が重大なのだ」というもので、海外への憧れが込められているな〜と今でも思いますね。

昭和 3 年 4 月 から大阪商船に勤め始めたのですが、昭和 6 年に徴兵検査があり、結果は甲種合格。大阪の歩兵第 37 兵隊へ入営しました。 21 歳の時です。ところで、お若い方のためにちょっと説明しておくと、大阪には第4師団があり、その下に歩兵第 8 兵隊と歩兵第 37 兵隊が属していました。大阪市内在住の人は 8 兵隊、郡部の出身者は 37 兵隊へ振り分けられるわけです。堺出身だから私は第 37 兵隊へ、幹部候補生として入隊しました。幹部候補生は 200 名ほどいたのですが、主席で除隊できたんですよ。

ところが、働き盛りの 28 歳だった昭和 13 年に召集令状が来た。俗に言う「赤紙」ですわ。これもちょっと説明しておくと、当時の日本では原則として満 20 歳で徴兵検査をうけます。私のように甲種合格だと、現役兵として 2 年間の兵役がありますが、乙・丙種は軍隊へは行かず、地域に残留します。それに、 2 年間の兵役を終えて帰郷した甲種合格者が、“在郷軍人”として市民生活を送る。この在郷軍人を召集するための命令書が、赤紙です。

第 37 兵隊かなと思っていたら、どういうわけか広島の宇品港にあった陸軍船舶司令部へ配属された。ご存知のようにこの頃から日本は戦争の時代へと突入していく。船舶司令部は、徴用船舶の入出港の司令塔のような役割を持っているので、私も上海、南支那、北支那、仏印、香港、ラバールと、転々として結局 8 年間の戦時生活になりました。

香港へは当時の統治国である英国の軍隊との戦闘を経ての上陸です。私も弾丸が飛び交う攻略戦へ夢中で参加しました。“陸軍”ではあっても、船舶司令部ですから、降伏を勧告するメッセージの看板を、軍用船へ付けたりする仕事もやりましたね。

香港で召集解除かと思っていたら、そのまま軍隊へ残り、ラバールへ転勤を命ぜられ、剛部隊の参謀部に所属しました。仕事は兵站です。ガタルカナルをはじめ、東南アジア方面の各部隊への物資の補給計画の立案が主な仕事でした。

そして昭和 18 年、広島へと転属。結婚をしたのも広島でした。昭和 20 年 8 月 6 日には米軍によって原爆が投下されましたが、私もこの身を持って、その恐ろしさを経験しました。

私は当時、陸軍大尉でした。朝 8 時から朝礼開始の点呼を取っていたのですが、空が真青に晴れていたのを、今でもよく覚えています。広島の原爆投下は 8 時 15 分ですから、まさに朝礼の真っ最中に巻き込まれたわけです。投下時の記憶はあまり無いのですが、砂煙が物凄い勢いで背中を押したことは覚えています。気が付いたら、私は防空壕の中にいました。おそらくそのために原爆の直撃被害を免れたのだと思います。

とにかく夢中で防空壕から出てみると、あんなに青かった空が、一転して火の粉が混ざった厚い雲にモクモクと覆われている。ガスタンクに命中したのかと、兵隊を出して周辺を調査した結果、異常なし。軍の幹部ではこれは“特殊爆弾”だと判断しました。“原爆”なんて皆知りませんでしたからね。

家族は安芸の宮島に近い五日市という所へ疎開していました。当時、昭和 19 年生まれの長男は 1 歳です。心配でたまりませんでしたが、妻と共に無事であることが分かった。これは私の想像ですが、家の中に居て放射線を直接浴びなかったのが良かったんでしょうね。家内は私より 8 歳下の 89 ですが、まあ無事に生きていますからね。

子供は長男と長女の 2 人。長男は 山梨県甲斐市 に住んでいます。すでに定年退職し、現在は再就職して元気に働いています。一方、長女ですが、平成 19 年、 61 歳という若さで癌のため亡くなりました。孫は 4 人で、曾孫は 3 人。今年の正月は例年通り、長男の所で迎えました。温泉も多いし、山梨は良い所ですよ。南の方角に富士山が見えるんです。

ところで、終戦後、帝国陸軍は西日本 10 地区所在の 12 機帆船運航会社を合併して、西日本石炭輸送という公社を作ったのですが、終戦時、私はこの会社で仕事をしていました。戦後は公団としてこの会社は存続したので、そこに務めていたわけです。ところが、昭和 25 年に“統制解除”でこの会社が解体されてしまった。

そこで、とりあえず自立を決意。エンジン付きの木造船で、若松から石炭を大阪へ運ぶ仕事を 1 〜 2 年続けました。そうしたら今度は統制解除。詳しい説明は省きますが、船舶による輸送が自由になったら、戦前の船舶輸送の拠点だった九州へ多くの輸送船が帰ってしまった。自分で舟を所有していたのではなく、いわばコーディネートビジネスだったので、私が動かせる輸送船はほとんど存在しなくなってしまったのです。

しょうがないので廃業。親戚の世話で石炭問屋へ就職しました。と言っても大会社ではなく、お得意先へリヤカーで石炭を配達する程度の規模です。私はまあそこの番頭みないなものだった。

その当時、面白いエピソードがあります。戦前の陸軍大尉時代によく行った飲み屋が私の会社のお客さんだった。石炭をリヤカーで搬んで行ったら、「石炭なら裏に積んどいてや」と女将にいわれてしまった。戦前の陸軍大尉時代はまさにしたにも置かない扱いでしたから、人間、立場や地位が変わると、相手の接し方も手の平を返したようになるのだと、痛感させられましたね。

その後、その石炭会社から、昭和 28 年に野口ゴムというゴム靴を製造するメーカーへ転職。創始者がまだ経営を指揮していて、当時は 80 人位の規模の会社でした。総務や営業の仕事を任されましたが、ここでは大活躍しましたよ。

この頃は、まだ物資不足で革靴の製造は無理。そこで、ビニールを原料にした靴が多く出回っていました。しかし、ビニール靴は冬になると寒さで硬くなり、亀裂が入りやすくなるという欠点があった。そんな中、創業者の野口進氏がそのような欠点を補う革付きビニール靴を発明して発売したところ、爆発的に売れたんですよ。

私も忙しく働きました。革付きビニール靴の売れ行きが順調なため、取引する問屋の数が急に増え、全国規模になったのですが、それらの問屋への折衝・営業のため、日本中を飛び回っていましたね。

また、私は工事現場や工場で利用されている安全靴に目をつけました。つま先の部分に薄い鉄板が仕込んであり、靴底も釘を踏み抜かない丈夫なゴム底の靴です。これから、経済が成長する日本では、モノ造りに関するビジネスは伸びると思ったので、社長へ安全靴の製造を進言したんです。

この企画は受け入れられて、私も最前線で営業を指揮。当時の国鉄、いまの JR にも売り込みをかけて採用してもらいました。新幹線の路線の工事現場で働く人たちは安全靴をはいていますから、私が売ったものも随分利用されていたはずです。高度経済成長の只中で、夢中で仕事をしてきたなと思います。

私は野口ゴムでは最終的に営業部長まで務めましたが、その頃には創業者の子供達も成人し、専務や常務になっていた。そこで、彼らが働きやすいようにと考えて身を引きました。ところが縁とは本当に異なもので、陸軍船舶司令部時代の上司だった富田三男氏から、声をかけられたのです。かれはダイキン工業 ( 旧大阪金属工業 ) の専務をしていました。ダイキンの総代理店の常陽ダイキン空調で働いてみないかというのです。人は出会いによって人生が決まりまるものですが、私も軍隊時代の縁によって大阪へ戻ってきたわけです。この会社へは長く勤めて営業部長や関連会社の社長もやりました。

この関連会社は 10 名に満たない小さな会社です。その中で、経理の担当者の仕事振りが、特に目に付きました。真面目でよく働いてくれるんです。そこで、すっかり信用して小切手の印鑑も彼に渡して自由に決済できるようにしたところ、城陽ダイキンの経理部から、 3000 万円程度の使い込みの可能性があると指摘を受けたんですよ。

そこで、調べたところ、帳簿に記載されていない小切手が多数切られていた。ビジネスでは人を不用意に信用してはならない、そして印鑑の大切さを痛感させられた事件でしたね。使い込みをした社員は、結局追い詰められて自殺をしてしまいました。とにかく私の人生の中でも、非常に後味の悪い出来事でした。

関連会社を退職してからは友人と会社を共同経営しました。 61 歳くらいの頃ですかね。そのオフィスが大阪のうつぼ公園の側にあったのですが、仕事も昔と比べると落ち着いたので、朝公園を走ることにしたんです。そうしたら、「早朝走ろう会」というグループと出会い、私も入会。それからジョギングがやみつきになりました。

とにかく走るのが大好き。始めたのは遅かったのですが、77 歳と 86 歳の時、ハワイのホノルルマラソンにも参加したほどです。ちゃんと完走しましたよ。 77 歳の時が 6 時間、 86 歳の時には 7 時間 20 分のタイムでした。さすがに今ではフルマラソンというわけにはいきませんが、 60 歳以上のシニアクラスのジョギングクラブに属しています。毎月 1 回大阪城を一周するイベントがあるのですが、欠かさず参加してますよ。ですから、友人も多いですね。

昭和 63 年 11 月から、枚方大橋から淀川河川敷を走る、市民マラソンイベント「大阪リバーサイドマラソン大会」を創設し、“健康は自らの足で鍛えよう!” をスローガンとして健康の自己管理を呼びかけ、今年で20回目、2,000人以上の参加があり、毎年継続してゆく予定です。
平成12年12月には、ランニングの普及発展に貢献したと第13回ランナーズ賞を受賞しました。
このジョギングという楽しみは、今も続いています。ついこの間も、小豆島で 3Km ほど走ってきました。そうしたら、村長から表彰されちゃいました。

ところで、話は変わりますが、私は東京軍事裁判には疑問を持っています。侵略国家だというアメリカ側の一方的な判断を押し付けられた。その後の占領政策でも、修身や歴史道徳や歴史認識に至るまで、日本人の家族観に関する考え方に、アメリカが極端な介入を行った結果、日本人の家族制度の良い部分が決定的に破壊されてしまった。そして、そのような占領教育を受けた世代が団塊で、すでに定年の時期を迎え、その子供達が働き始めている。躾もまったくないような家庭がものすごく多くなっています。

私は今年の年賀状に、“明治男の大風呂敷”で、平成 20 年は大転換の年になると書きました。「民の力で関西に新都市をつくろう!そしてそれを官に賃貸する。関西が変われば日本が変わる!」とぶち上げたわけです。骨子としては「 1. 国会議員堂と官庁街を最新技術で造営する。 2. 観光都市としての景観整備。 3. 大物流センターの建設と運営 ( 大大阪構想 ) 。 4. 日本海文明開発。 5. 瀬戸内海のリゾート化。 6. 地球環境対策センターの設立」などです。

とにかく、民の力で国を運営するのだという自覚。気概と夢を持って日々を明るく生きる。それが大切だと言うことを、私はこの年賀状に込めたつもりです。

東京は江戸時代から現在に至るまで、 400 年以上も首都として機能してきた。でも、そのせいで、弾力を失っていると思うんですよ。私はこれからは「関西の時代や」と思っています。大阪は町人の街だったけど、江戸時代から“天下の台所”として栄えていた。その潜在力があります。世界経済は中国やインドの台頭など、アジアに注目が集まりつつある。ですから、大阪へアジアのハブとなるような大物流センターを作れば、絶対に大きな影響力を発揮できると思いますよ。

それと日本海。いままではあまりにも太平洋側へ注目も財力も集まりすぎていた。日本海側を発展させるための基地としては地理的に大阪がいい。舞鶴や敦賀、新潟などの日本海側の諸都市と位置的に非常にいいわけです。

また、瀬戸内海のリゾート開発のカギは、水上飛行機による交通網の整備だと思います。小さな島が点在しているので、別府、道後、松山、広島などと短距離の航空網を整備すれば、外国人を多く呼び込めるはずです。

あまり大きなテーマに触れてしまうと収拾がつかなくなるので、ここでちょっと方向転換。私は健康にも興味を持っていて、今度『お金のかからない健康法』という本を出版します。本は結構多く出していて、『仕事は死ぬまで寿命はあるまで』という本では、生きることそのものが大切な仕事なんだと訴えました。

私は 88 歳で色々なボランティア活動も整理して、青春ならぬ“老春”を謳歌するために、カナダのバンクーバーへロングステイしました。友人が居たということもあったのですが、夏でも 27 度くらいまでしか気温が上がらず、風光明媚、物価も安いバンクーバーは魅力的に映ったんです。

暮らしていたのはもともと友人が住んでいた 30 階建てのコンドミニアム。 17 階の物件を借りました。ちょっと変わったビルで、外観が円筒形をしているんですよ。眺めも良くて全面ガラス張りの部屋もある。全部で 5 部屋、家賃は日本円に換算して 12 万円。 4 月から 9 月までを過ごしました。子供の頃の海外雄飛という夢がかなった気がしましたね。

それからバングラディッシュへも行きました。 250 万円あれば、現地に学校を建てて教師を雇うことができる。そのような目的の募金活動している人が友人にいました。その人に誘われて、募金で建った学校の開校式に出席したんです。首都のダッカから車で 6 時間ほどかかる村まで行ってきました。 700 人位の男女生徒の歓迎を受けて嬉しかったですよ。

海外生活と言えば、「コトバの壁」があると、特に高齢者はしり込みしがちです。でも大丈夫。そこそこの規模の都市ならば、スーパーは日本と同じようなシステムですから、現地語が喋れなくても問題ないんですよ。海外旅行以外にも色々と挑戦していますよ。例えば、 CD も出しました。とにかく勇気を持って行動することが一番。

私の“人生回顧”を一言でいうと、「我、この日本に生を受け、明治・大正・昭和に平成と四代の日々を過ごす。教育勅語に国語・地理、歴史、修身、道徳と基礎学問を教えられる。召集されて、軍人勅諭を空んじ、召集、参戦 8 年間。広島では被爆せるも、怪我もなし。召集解除で民間人。目指すは復興・再建と無病息災で粉骨砕身。仕事に励み青壮年は瞬く間。 60 にしていたって元気。 70 現役、 80 にしてさあこれからと海外生活。 90 を迎えても気力の衰えず、東奔西走で休みなし。これぞ天の恵みとぞ感謝感激極まりなし。広大無辺のこの恩に報いる道はただ 1 つ。人生を人と世のために尽くさんと命の限り働かん」と言った所でしょうか。

昔の日本についてもちょっと感想を述べさせてください「北は樺太、北海道、南は台湾、九州、大小 6800 の島々並ぶ島国にて、同胞すべて 6000 万人。春夏秋冬、桜に紅葉、四季折々の風情あり。風光明媚で花鳥風月、霊峰富士は厳然たり。景観麗しき土地柄なり。島国育ちの国民は神仏混淆。万物に神、宿れりと自然を敬い、それに親しむ。侘び、寂び、渋み、粋など、情緒溢れる言葉の宝庫。仁義礼知信、名誉、道徳の教えを受け、義理人情ば厚くして、強きを挫き、弱きを助ける義侠心。恥の文化に、察っしの文化、勤勉実直、感性豊かな国民性。人みな慈愛に満ち充ちて、一旦、緩急起こりなば、挙国一致。守りは固し大和魂 ( ヤマトダマ ) 」

この言葉に込めた思いは、とにかくそんな日本を保っていくためには基礎学問が大切だとうことです。私達は教育勅語と軍人勅諭を丸暗記させられた世代ですが、幼い頃に脳を鍛えないとダメ。ゆとり教育なんて間違ってますわ。 3 歳までの脳への刺激が大切です。子供は世の中のことが分からないんだから、大人が手を差し伸べないと成長しないんですよ。

またここで、方向転換。私は 98 歳ですが、いまが一番楽しいと感じています。すでに他界したものもおりますが、子供達も立派に成長してくれて、やりたいことができる。しかも健康です。実をいうと私は 50 年間タワシ摩擦を朝晩 2 回行っているんですよ。私は白内障で手術をしましたので、まだ眼鏡なしで新聞も読めますよ。

ところで、最近ものすごく興味を持ったニュースは、京都大学の山中伸弥教授が、世界に先駆けて開発に成功した、人の皮膚細胞を用いた万能細胞である「 iPS 細胞」。神経や骨、臓器などの細胞に分化する前の細胞で、再生医療などで大きな期待が寄せられています。やはり“皮膚”は大切。タワシ摩擦は間違っていなかったわけです。

それと、健康にはまず快食快便。快食とはよく噛むことです。そして美味しく食事を頂く。快便とは決まった時間にお通じがあること。そして快眠です。快食快便・安眠・休息・運動をバランスよく毎日、保つことが大切なんですわ。それと気分転換をすること。

一番悲しかったのは娘が亡くなったこと。ですが、私は「なにくそ精神」でやってきましたから。本を読んで勉強することも大切。とにかく今でも忙しいこっちゃ。どこの明治の男と勝負しても負けませんわ。

論語の有名な教えに「我十五にして学を志す」と言うのがありますよね。ところがこれには 80 歳、 90 歳、 100 歳についての記述がない。私は 80 歳になったら、それまでの人生を振り返って集大成すべきだと思います。そして 90 にして養生第一、熟慮行動すべし。 100 になれば全てに感謝し、有終の美を飾るべし、としたいですね。

芳村思風先生の「感性論哲学」をここ 5 年ほど勉強しています。これからは感性の時代だと思いますよ。

論語といえば、もう一つ、中国の倫理詩文「千字文」を、ここ十年位、毎日少しずつ揮毫しています。
論語と千字文が日本にもたらされたのは應仁天皇の招聘により、韓国百済から博士王仁が日本に帰化し、持ってきたとされているものです。

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