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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第6回 芦田 ふいさん

人と言い合いしたとか
人の悪いことを言ったとか覚えんなぁ

高木 辰三さん

明治37年5月5日生まれ 東京都出身 大阪府松原市在住

周りは全てお百姓さん、一般的な田舎の村。滋賀県の岩根村に女2人男2人の一番下、「尻子」として生まれた。家業は百姓だけれど「土臼づくり」もしていた。上と下とあって、真ん中に籾を入れてひいていたけれど、上手く全部籾殻が取れないので、何度も引き直していた。今は全部機械やけどなあ。
子供の頃は、こんめ(=お手玉)をして遊んだ。米は高価で入られなかったので、中には砂を入れていた。お手玉を縫うことはしたが、あまり得意じゃなかった。他には「手まり」遊びを覚えているけれど、やはり買ってもらえなかったから、自分で古紙等を芯にして糸を巻いて作った。上手く作れないから、なかなか飛ばなかったね。
尋常小学校だけ行ったけど、勉強は嫌いだった。走りが早くて、体は小さかったが学校で2位になった。尻子で生まれて結構やんちゃだった。親が野洲川に魚を捕りに行くといつもついていって、浅瀬できばって(=がんばって)魚とりをしていた。前川(おもい川)という少し小さな川では、蛍を捕った。夜はきれいだが、昼間は葉っぱの裏に付いていただけでおもしろくなかった。蛍の良さは夜暗いときだけだね。学校をさぼって、田圃の草刈りばかりしていた。

小学校を出てからは、裁縫の学校だけは行った。その時代の女は、裁縫が仕事だったからだ。21歳の時に結婚して、子供は、10人産んだが3人死んだ。今残っているのは女の子6人、男の子1人だ。結婚してから毎年のように子供を授かっていたのだろうが、良く覚えていない。4歳の時に病気で亡くした、長男は、惜しかったなぁー。後の二人は産まれてすぐ亡くなった。昔は死産も別に珍しくない。
連れ合いは無口な人だったけれど、子供のことは人一倍大事にしてくれた。そのことは嬉しいことだった。子供のなかった義理の親も、孫をとてもかわいがってくれたそうだ。
おじいさんが百姓をようきばってくれた(=頑張ってくれた)から、田圃が1丁5~6反もあり、米が100俵獲れたこともあったそうだ。連れ合いは子供のない家にもらわれた養子だったが、その家のために本当によく働いた。難しい親だったから、相当苦労したみたいだ。連れ合いは、86歳で亡くなった。
冬仕事は米を入れる袋を編んでいた。昔は農協の袋なんてなかったから、みんなわらで編んでいた。それも全て連れ合いがしていた。若いときは胃が悪く、特に冬は食られずに起きられなず、寝ているばかりの日もあった。そんなとき、おじいさんは外にあるトイレに背負って連れていってくれたり、赤ちゃんの乳が出ないときは隣近所に乳をもらいに走ってくれた。体が弱かったのは若いときだけで、その後は丈夫になった。

それでも体調が良いときは、きばって手伝っていたそうだ。今も忘れないのが、寺の八の鐘(午後8時)が鳴る頃、もう皆は寝る頃なのにまだ働いていたこと。足りなくなった苗をもらいに歩いた事を良く覚えている。
夜になると家の門で、わら草履を編んだ。その時代はわら草履しか履く物がなかった。手の早い人は沢山編んだが、私は手が遅いほうだった。
稲刈り時期や苗植え時期は人手が足りなくなるので、手伝いを頼みにも歩いた。今で言うアルバイト募集だ。乳牛を4~5匹飼っていたから、ほとんど寒い中も下駄を履きながら、乳搾りをしていたそうだ。
子供にももちろん、家の手伝いをよくさせていた。長女は働き手だったからよう学校にやれなかったが、みんな高等学校まで卒業させた。その当時、隣近所ではなかなか出来ないことだった。
学校に行ける子は学校で縫う物があったが、家にいる長女は縫う物がないと言っては泣いていた。布など買うお金はなかったから、着物などは縫いたくても縫えない。
学費のために米を売ったお金が正月まで持たなくて、お供えする50円のお金を親元に借りに行ったことを忘れない。今の時代の年忌のお供えは1万円だが、その頃は50円だった。
荷車1つ押すのもカネの車輪だったから、乳牛に引かせるのも一苦労だった。百姓仕事も全てが手作業、牛の世話も含め、それこそ朝から晩まで身を粉にして働いていた。

「おむつ」なんて買った事がない。古い着物の良い部分だけを切り取り、布だけだと漏れるから古い布団の綿を縫い込んで作った。その綿入れおむつを、日より(天気)の時に天日に干して使い回していた。
戦争の時は食べる物がさすがになく、サツマイモをお粥にして食べていた。しかし百姓しているから、米がなかったのも一時だけだった。連れ合いの親は日露戦争に行ったが、おじいさんは幸い兵隊にとられなかった。村では戦前、兵隊の検査はくじ引きで決めていて、当たらなかった。

おじいさんは、本当に甲斐性があり良くきばってくれた。その分きつい人でもあり、良くたたかれもした。経済は全ておじいさん任せで、家にどれだけのお金があるのか全く知らなかったが、ある時期、田圃や山が国に買い上げされ、それまで苦しかった生活が一変した。それからは、しょっちゅう旅行好きだったおじいさんが日本中を旅行に連れて行ってくれました。
ただひたすらに連れ合いであるおじいさんの言われるがままの人生を送ってきました。 今の時代は女性が家庭の経済を握っているケースも多いように思いますが、そういう家計の苦労もなーんにも知らないで一生来ました。そうやって生きてきました。

連れ合いは旅行が好きだったから、子供達を皆学校出して義理の親も亡くなった後は、きばっっちゅう、旅行に連れて行ってくれた。九州や北海道、熱海など、本当に良く連れていってもらった。友達の中には、何処へも連れていってもらわなかった人も沢山居たから恵まれていたと思う。とてもありがたいことだ。今では乳母車を押さないと歩けなくなったから、何処へも行けないし行きたくなくなった。温泉で転んだら恥ずかしいし。

人と言い合いした覚えも、人の悪いことを言った覚えも無いなぁ。
年をとってから5~6人、近所の茶飲み友達が出来て、誰かの家に寄っては話をするのが楽しみだった。今は皆死んでしまって、長生きしすぎたら話し相手がなくなった。

朝ごはんに必ず、細かいじゃことこぶを酒に一晩漬けた物と、焼いたおもちと、みそ汁を飲む。それが毎朝の日課になっている。嫌いな物は何もない。夜寝る前に、アリナミン1粒と養命酒も毎日飲む。

今は、息子夫婦と孫1人の4人で暮らしている。嫁もとても良くしてくれるからありがたい。良い嫁や。わしはあほやさかい・・・勉強も出来なかったし○○さんは賢かったけどなぁー尻子でやんちゃだったし・・・。

取材後記

「じゃことこぶを酒に漬けた食べ物」は、初めて聞く食べ物だ。
ふいおばあさん開発の食品だろう。こういう自然で単純な食べ物が、現代の健康食品よりずっと良いような気がする。

取材を終えて帰るとき、「話し相手になってくれて嬉しかったわ」とおっしゃって下さった。
茶飲み友達が皆亡くなられたそうだけど、一時だけ私が茶飲み友達になれた気がした。

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