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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第8回 吉行 あぐりさん

世の中は進みましたが
良くなったんだか悪くなったんだかねぇ・・・

吉行 あぐりさん

明治40年7月10日生まれ 岡山県出身 東京在住 美容家

「96歳にして現役美容師のスーパーマザー」
というTV番組のタイトルを、覚えておいでの方もいらっしゃるでしょう。今回、お話してくださった、「あの」吉行あぐりさんのことです。

1907年に岡山の弁護士ご一家にお生まれになり、15歳でご結婚。その後、「アメリカ帰りの洋髪美容師」山野千枝子さんの内弟子を経て、29年、東京市ヶ谷に美容室を開店なさいました。その後、ご主人との死別、負債、戦争、大病、再婚などさまざまな困難を乗り越えられ、現在も同じ場所でお仕事を続けられています。そして、97年、自伝『梅桃(ゆすらうめ)が実るとき』がNHK朝の連続テレビ小説「あぐり」として放送され、一躍時の人に。ほかにも著書『あぐり 95年の奇跡』(集英社)などがあります。 また、亡くなられたご主人の「あの」吉行エイスケ(栄助)さんは昭和初期の新興芸術派を代表する作家・詩人、お子さまがたも、「あの」作家の故吉行淳之介さん、「あの」女優の吉行和子さん、そして、詩人であり作家としてもお兄さまに続き芥川賞を受賞なさった「あの」吉行理恵さんと、ご自身始め、全員に「あの」がつくご家族でいらっしゃいます。
その吉行あぐりさんに、お忙しい時間をお割きいただき、1時間ほどお話をうかがわせていただきました。08-1.jpg

取材に伺った私達2人の事を・・・ 「お二人ともお顔が小さいのねえ」
プロとして人の顔を見続けて来た方ならではのお言葉です。そして、さる大女優の方を引きあいに出され、「舞台だったら、大きい方が見栄えがすると申しますものね。......でも、あなたがた、私の半分くらいしかないんじゃないのかしら」
必ず、ご自分を「わたくし」とおっしゃり、戦前のよいご家庭をしのばせる非の打ち所のない日本語で、可愛らしく、茶目っ気あるお話し方をなさるあぐりさんは、ともかくチャーミングな方です。そして......。

●身長163cm
そうなんですよ。そのころの平均は150センチくらいじゃなかったかしら。『大女 総身に知恵は回り兼ね」って言われましてね。大きいから馬鹿だって言われていたの(笑)。

●あぐりと言うお名前
子供の頃、嫌だったのよ。女の子はみんな可愛いお名前でしょ。どうして、私、花子だとか清子とかって名前をつけてもらえなかったのかしらって思いました。
戦後に「あぐり美容室」にしたんで、その前は「山の手美容室」でした。その頃に、前を通りかかった方が、「ここの人、あぐりっていうんだって。変わった名前だね」って。あぐりって言う名前、なかったのね、ほとんど。 浅草の芸者さんにはいらしたそうなんですよ。だから、ここ、芸者かなっておっしゃりながら通って人もいらしたとうかがいました。

●おてんばなお嬢さん
回りのことを意識しないで、自分で勝手に行動していんでしょうねえ。
私の家には書生、といいいまして、何人か父の下におりましたんです、勉強している方たちがね、それで、その人たち引き連れまして街のメインストリートを歩いたりして......後でねえ、もうたいへん評判になったらしいですよ(笑)。なんにも気がつかないの、そんな(=評判になった)こと。買い物に行くのについて来ると言うんで、じゃあ来たらというだけだったんですけれど......。
ですから、ちょっとやっぱり「総身に知恵が回りかね」ていたんでしょうね。周囲を気にしないというのは、未だにそうらしいですよ。

●家を襲った不幸 そして、15歳での結婚
私が女学校の頃に、スペイン風邪が日本国中に流行りまして、父と姉を亡くしました。それで、そのころの女の人が働くなんてことございませんでしたからね。父が死にますと、急に一銭もないわけよね。それが、私の母って見栄っぱりだったんでしょう(笑)、外へ向かって派手にやっていたのができなくなって、たから、住んでいた家を売りまして、かなりのお金を得たんです。
ですけれど、お金が入ると、今も同じですよね、事業を興すとかいろいろな人が現れて......それで、すっかり一文無しになってしまいましたんです。
母は子供たちには全然そういう顔はみせなかったんですが、たいへんだったらしいです......。(結婚は)学校へ行かせてあげるからと騙されましてね。吉行の家とうちとは、(亡くなった)姉と吉行の母の甥との間に縁談がございまして、私の家のこともよく知っていたわけなんです。それで母は、私をそこの不良息子(作家の吉行エイスケ氏)といっしょにさせれば、と思ったんでしょうね。私は学校に行かせてもらえると思って行きました(笑)。結婚という意識は全然ございませんでした。
(15歳での結婚は)あの頃でも、普通ではなかったですね。世間の噂になったらしいですけれど。
ですから、私に青春時代なんてないわけよね。今になって思いますとね。そんなことは思ったこともないでしたよ、生きるのに一生懸命でしたから。たいへんでしたから、私が嫁ぎましてから。戦争がございましたでしょう? その前にもいろんな事件もございましてねえ......90くらいになりまして、私には青春がなかったなあ......なんてね(笑)。

08-2.jpg●吉行あぐり美容室(昭和4年開業 当時は山の手美容院)
子供の頃に、家に髪結いさんが来て髪を上げてくれますのね。それを眺めておりました。見るのが好きだったんですね、まあ、綺麗にできるんだなあ、でも、難しいんだろうなあって、そんな風に思って見ていたんです。第一、その頃は鬢付け油(日本髪を結うのに使う整髪料)の匂いがひどかったものですから、綺麗だけど、とてもあんなものにはさわれないと思っておりましたの。
日本髪はたいへんですよ。ええ、私は洋髪をやりましたので、日本髪はできないんです。

あの当時、女性が働くことはほとんどなかったです。美容師という言葉もね、私の先生の山野千枝子さん、あの方がアメリカからお帰りになって、それからできたものですからねえ。吉行の義父に「女髪結いになるのか」とたいそう怒られて、こわくてとてもとても義父の顔を見ることもできなくて......そんな時代ですよ......
何しろ、「女髪結い」ですからね。あの頃は、和子がやっております俳優のことも、「河原乞食」って言ったの。淳之介の職業なら「三文文士」。三文の値打ちっきゃないってわけよ。ですから、義父に言わせますなら、孫たちはみんな「三文文士」と「河原乞食」(笑)。怒っただろうと思いますね(笑)......そんな言葉があったのよ。

―三階建てで、外観も当時としては相当モダンな建物(建築家村山知義氏設計、現在の建物とはちがいます)だったと思いますが

その時は何とも思いませんでしたけど、たいへんだったでしょうねえ。ご近所にね、「本髪結い床」と書いた木の札を下げたところがあったんですが、それはがらがらと玄関を開けてはいるような普通のお宅で......大体、そういうなのが髪結い床だったわけで、そこへ三階建ての美容院建てたんだから......(笑)。それが私には全然ぴんと来なくて(笑)。やっぱりちょっとどこかが抜けてるのね。

開店当初は馬鹿にされました。坂の下で商売するのは駄目なんだそうです。私、そんなこと知らなかったんです(笑)。一番、流行らない場所だと言われました。
何しろここはお屋敷町で、前の通りには今みたいに車なんて通らないんですよ、軍人さんが馬に乗ってぱかぱか走っていました。ええ、バスは走っておりました。30分おきにいっぺん一度くらい通ってたんです。お客さまは2人......くらい乗ってらしたかしら。バスと私のお店と、どっちがたくさんお客さまがいらっしゃるだろうって、開業当時は眺めてたくらいでした(笑)。

―内装も、懐かしいといいますが、レトロな雰囲気で素敵です。

中のつくりもなるべく昔のまんまのようにしております。(TVを見て来られるお客さまは)たくさんはおられませんけれど、それでもいらっしゃるのよ。そう言う方には、申し訳ございません、ここは会員制でございますと言っております。どうしてしてあげないの?とも言われますけど、いえもう、お若い方は駄目ですと申し上げてるんです。昔からいらしてる方だけにいたしますということに。
こんな美容室、世界にないと思いますよ(笑)。

今、お客さまで最年長の方は百歳になられます。昭和6年から来てくださってるんですから、最近はお体を崩されたようで......。
一週間に1回必ず来られる方がいらっしゃって、今日はその方のためにお店を開けております。時々、二週間にいっぺんとか一月にいっぺんとかいう方もお見えになるんですが、今朝の方は、戦争前からのお客さまです。戦争中、私は疎開しておりましたので、どこか違うところへ行ってらして、しばらく途絶えておりましたんですが、戦争が終わって戻って来ますとね、その方がどうしても私にとおっしゃるので、ずっとしてさしあげているんです。
私は全然、自分のカットのこととかわからないんですが、その方がおっしゃるのには、違う方にしてもらうと他の人にもすぐわかるそうで、どうしてかなあ?と、ずっと考えてたんですよ(笑)。私がカットしてパーマネントをかけますでしょ、その方は、後で形が崩れないので綺麗にまとまっているので楽だ、とおっしゃるんです。
なんでかなあって......ずっと考えてねえ。それがね、私、髪だけでなく、その方のお顔を見てカットしたり、御髪(おぐし)を上げたりしますから、だからかなあと、やっと、今日、気がついたんです。
本当に今、気がついたの、さっき(笑)。

 ―でも、静かなところですねえ、ここは。

そうでしょ? こんなところで美容院やっているような人は、だいぶへそ曲がりよ(笑)。

●おしゃれについて......若さの秘訣は?
特にないですねえ......。

―でも、背筋がぴんと伸びていらっしゃって、こう申し上げては失礼かもしれませんが、お元気というか、お若くていらっしゃいますもの。

そうですねえ......私の若い頃は和服を着ていましたから、洋服を着るとなると、頭の上に本を乗せまして、まっすぐ歩く稽古をしました。そういうことするの好きだったの(笑)。おしゃれが好きだから、このお仕事をやろうと、勉強しようと思ったくらいですからね。
私の頃は、お洋服はそのへんに売ってないんですよ。自分で作らないとなかった。ですから、セーターもカーディガンもなんでも自分で編みました。人が着てないようなものをと、自分で考えて、一生懸命作ってました。

●流行について
私、どうしてみなさま、流行だと、おんなじ(力をこめて)、格好をなさるのか、どうしてかしらなあっと思うんです。
疎開に行きまして、久しぶりに東京へ帰ってまいりましたときね、電車の中で、前にお嬢さんがたが、同じ格好をされている方が、五人くらいいらしたの。どうしてかなあ?と思ったんです。流行ってるんだなと思ったんですけど、今、思うと制服だったんじゃないかしらとも思いますけどね。でも、みんな同じ格好というのはねえ......どうもねえ......どうしてかしらねえ。
本当に私、たとえ流行でも、お似合いにならないお髪(おぐし)なんて、嫌ですね。

自分の髪は......私、たくさんお弟子さんを使っておりましたでしょ。自分の髪はお弟子さんのお稽古台になっていました。何十年もお稽古台にばっかりなってきて......(笑)。この連中が全部、一人前になったら、私は有名な美容師さんにやってもらおうと思っていたんですよ(笑)。それが、今では有名な方もたくさんお出になりましたけれど、先生たちは、ご自分ではなさらないんですね、お弟子さんに......。
よほどのお得意様にはなさるのかしれませんけれど。それで、今では、自分の髪は自分でやっています。有名な先生にはしてもらえないままなの(笑)。

●子どもを育てることについて
あの子たちは、育てられたとは思っていないみたいですよ。何もしてもらえなかったと言ってますからね。
今のおかあさまはみんな、女の方も大学をお出になりますでしょ、ご自分がご立派すぎて、かえってお子様に干渉なさりすぎるんじゃないんでしょうかねえ。
といいますのも、私の両親と言いますのは、変わってたんでしょうね、勉強しろとか一言も言わなかった人たちなんですよ。

―放任主義のご家庭でいらしたんですか?

主義主張があったかどうか知りませんが。とにかく、人のうわさ、というものも一切しなかったですから。
ですから、私のお友達が、狭い町ですので、あの文房具屋のなんとかさんがなんとかしてとかおっしゃるのを聞くと、どうしてそんなことを知っているのかなあって、不思議でしょうがなかったです(笑)。私の家ではそういうことはまったく聞きませんでしたから。
実は、私の妹は勉強が好きでしてね、県立高等女学校始まって以来の秀才と言われておりましたんですが、でも、そんなことも、私、全然、知らなかったんです(笑)。母も(比べるようなことは)何も言いませんでしたから、私はのほほんと大きくなりました(笑)。
それがね、女学校何年生だったかしらね、教員室に呼ばれましてね。何か悪いことしたかしらと思いましたなら、先生がね、「あなたはもうちょっと勉強なさい。妹さんはとってもよくできるんだから、あなただってできないわけはないわよ」(笑)......ええ、そう言われましたけど、勉強なんてしなかったの(笑)。

そういう家に育ちましたせいでしょうか、子供たちにも勉強しろとか、あれしろとかこれしろとかは言った覚えがないんです。あんまり何も言われないから、やっぱり自分でやらなきゃいけないと思っちゃったんでしょうね(笑)

今の東京のお子様がた、塾に引っ張っていかれて、かわいそうに思いますね。小さいとき、野原で遊んだり花を摘んだりとか、そういう思い出が何もおありにならないだろうと思うのね。......何だかかわいそうだと思います。

●さらにお子さまたちのこと
―みなさん、そうそうたる方々ですが、お小さい頃頃からその片鱗はございましたか?
全然、ありませんでした(笑)。
淳之介(故吉行淳之介さん)はね、麻布中学(旧制)から静岡の高等学校(旧制)を受験いたしました。一高(現在の東大教養学部)に入るようなレベルじゃなかったんですよ。何しろ、ご存じないかしら、「少年時代」なんて子供が読むような雑誌を、中学を出るまで読んでいたような人でね。文学的な雰囲気はなかったんです。父親は物を書いた人でしたけれど、早くに亡くなりましたから、影響は何も受けておりませんでしょ。静高に参りましてから、まわりの方たちに刺激されまして、ああいう風になっていったんです。ですから、私のせい(教育)ではございません(笑)。

和子(吉行和子さん)は3つの時から喘息持ちで、学校にも殆ど行かれませんで、よく卒業させていただいたと思うくらい、何もできませんでした。この先どうなるのかなと......どうやって食べていくかなと思いましてね。でも、ものすごく手先が器用だったんです。お人形さんのお着物を作りましたり、編み物をしましたり。うまく作るんです。
ですから、ちいちゃな小間物屋さんみたいなのを作ったげて、そこでそういうものを一生懸命作って、売ったりしたら食べられるかなあと思ったりしたんですよ。

一番下の理恵(吉行理恵さん)は、金時さんみたいにまん丸く太っていまして、一日外に出て遊んでいました。よく、(うちに)そのへんの子供をみんな集めましてね。ですけど、(集まられても)、そのころですからお菓子なんてないんですよ。食べ物だってなかったころですからね......ええ、戦後ですけれど、戦争中からもう、ものはありませんでしたし、着物だって衣料切符がないと買えなかったんです。
それがうちには、大きなビオフェルミンという薬が買ってありましてね。おなかのお薬(注;整腸剤。飲んでも害はありません)なんですけれど、甘いのね。それを持ち出してまして、集まった子供に配ったりしていましたね(笑)。そうやっていっしょに遊んで......そういう人でした。
その衣料切符で上着をね、買うことができまして、それを理恵に着せたんですよ。それを着て外へ遊びに行きまして、遊んでて暑かったんでしょうね、脱いでどっかへ置いてきちゃって......。探しに行ったんですけど、もうないの(笑)。そういう時代でしたよ。

人間なんて(どうなるか)わかりませんよ。今では、あの和子が、いつもどこにいるかわからないくらい、しょっちゅう外国に行っていて、あの理恵は一日、家に閉じ隠って物を書いているんですから......変わるのよねえ、人は......。

ああ、でも、私、女の子が二人おりますのに、この人たちがお嫁に行くってこと、まるで考えた事がなかったんです。それはちょっとおかしいですね(笑)。今、思いますと、私、本当に変なおかあさんだったなあ......と(笑)。

●和子さんとの海外旅行
本当に和子はねえ、あちこち行っておりまして、お芝居でも回っておりますし、しょっちゅう外国へ行っておりましたの。私は、(和子は)仕事で行くんだから、連れて行けとも言うわけにいきませんでしょ?
それが、90を過ぎてから、ある時、今度は遊びで行くと言うから、ついて行ったんです。
ネパールとかメキシコ、そんなところが好きなんですね、彼女は。そういうところを歩きましたけれど......そうですね、イタリーに参りました時はよかったですよ。石の建物ですから、何百年も保つんです。歴史があって......そういうのはいいなあと思います。
だから、日本も頑固に木の建築を守ればいいのに、と思いますね。古いお寺なんて、保ってるんですものね、大切に、気をつけて......百年、二百年、火事さえなければ保つんですよね。マルビルなんて八十年そこそこで駄目って言って立て替えたでしょう? 日本の風土には、ああいう建築は合わないんだと思いますよ。
でも、海外旅行はもう駄目だと思いますね、私。最初、メキシコに参りましたときは90歳でしたけれど、今は96歳でしょ。その時は若い人といっしょにいくらでも歩けたんですけど、今はもう歩けないの。年っていうのは恐ろしいものですねえ。あなたたちにはまだおわかりでないでしょうけど(笑)。

●そして、今は......
お料理はね、仕方がないからやっています(笑)。得意料理というより、簡単なのをやっています。ワインを入れてどうとかしてこうとかして、というのは一切駄目(笑)。塩と胡椒でさあっと炒めるとか、茹でてちょっとお味をつけるとか......。
下の娘(理恵さん)はね、何も教えませんのに、とてもちゃんと料理を作ります。
あれはもう、その人のもって生まれたものなんでしょうねえ。きちんと昆布でだしをとって、おみおつけなんてとっても美味しいのを作るんですよ。だから、専らしてもらっています。
朝と昼は自分で簡単に作って、夜は理恵がきちんと作ってくれます(笑)。

昔は、和子と理恵の服は全部、私が作っておりましてね。可愛い子供服なんてなかったものですから、苦心惨憺して着せてたんですけれど、今は、和子がどこかに行って私の着るものみんな買ってきて、これ着てくださいと言いますのよね。

和子はそうやって私の着る物をみていてくれますし、理恵はおいしいご飯を作ってくれますし、いいですよ。
でも、あの連中、結婚していませんからねえ。どうなるんでしょうかと心配します(笑)。

―でも、お二人とも自立なすって、本当にご立派にやってらっしゃいます。

立派かどうかは知りませんけれどねえ(笑)。勝手に生きてるんですよ(笑)。
今は同じマンションに住んでますけど、ええ、みんな、一人がいいのね(笑)。

―お近くに住んでらっしゃるのはいいですよね。でも、一人暮らしをお寂しく思われたことはございませんか。

どうしても、人に何かしてもらわなければと思う方は、いろいろおありになるんでしょうか。子供の頃には、一家揃わないとご飯を食べられない大家族でしたが、それを懐かしくとも思いませんし、誰かがお世話してくれなければとも考えません。私は......やはり、きっと性格でしょうねえ......。

......ちょっと、あなたがたにお茶をあげましょうね。

●長年使っていらっしゃる机とお人形
そうなの。ずっと使っています。それで、このお人形かわいいでしょ。これはね、「あぐり」というのがTVで放送されましたでしょ。あれは嫌で嫌で、一生懸命断ったんですよ。でも、とうとう口説き落とされましてね......。そして、放映されましたら、九州の宮崎県のお嬢さんでね、あの頃は中学生だったと思いますが、その方が私のファンになってくださって、作ってくださったんですよ。かわいいでしょ。吉行あぐりって書いてあるの、これ、私なんです。

白いお皿

その小さい白いお皿は、いただきものなんです。秩父宮妃殿下が80歳のお祝いにお配りになられたんです。妃殿下は、戦後、昭和26年ぐらいから、お亡くなりになるまでお越しくださいました。いい方でしたよ......とってもよくおできになった方で......でも、宮中はたいへんなご生活ですよねえ。私だったら、三日も辛抱できないですね(笑)。

スペインの櫛
戦後、お客さまが外国を回っていらして、いろんなものを買っていらっしゃいましてね。そして、こちらにいらして、
「これ、あなた買って」とおっしゃるので......いただきました(笑)。カルメンってご存じ? ああいうので、ほら、ヴェールをかけて髪に挿すんですよ、踊るときにね。

古い鏝(こて)

見せてさしあげましょうか? 今の人が見たら笑うでしょうね。こんなの使っていたんですよ。鳩山一郎さん、今の鳩山さんのおじいさまですよね、その方の奥様がどうしても鏝(こて)でなくっちゃ嫌とおっしゃって、パーマネントはおかけにならないの。それで、この鏝が棄てられなかったの。......毎日毎日洗ってね、その後、油を塗って......
(おっしゃりながら、あぐりさんはそれをどう使うのか見せてくださいました)。

日課のお散歩と朝顔

このところちょっと、さぼってるの(笑)。
ここから四谷の駅まで行って、帰って来る、次に飯田橋の駅まで行って、帰って来る、それだけなんですけれど、
ずうっと桜並木の土手があって、そこを歩きます。
途中で朝顔の芽を見つけましてね、私、育てたんです。それが次の年はね、駄目だったの。それで苗を植えたんです、同じ場所にね。今年もまた出てますよ。
●若い人へ 今の日本へ

......世の中だんだん変わっていきますからねえ、でも、それにちゃんと順応していっていらっしゃるんだから、今の若い人たちは。やっぱり人間って進歩したんだなあって思いますよ。ですから、もっともっと、いい方にね、のびていらっしゃればとね。
でも、今、日本はどうなるかって心配していますよ、私は。若い方たちも、ですけれど、政治をなさる方たちがねえ......。日本がいつまであるのかなあ、というような気がいたします。
明治(という時代)は、私は5年くらいしか生きていませんからわかりませんけれど、昔はもっとしっかりした方がたくさんいらしたんじゃないかと思います。
世の中があまり便利じゃなかったから、自分で工夫したり、考えてやらなきゃいけなかったから、なんでしょうね。便利になりすぎたってことは、いいのか悪いのか。
でも、人間てすごいと思いますよ。コンピュータとかなんとかかんとかああいうものをどんどん考えてくんですものねえ......。私なんて長く生きていますからね、何しろ、ろうそくの時代からですから(笑)。

ひところ、使い捨て使い捨てって流行りましたけど、私たちの頃は和服を着ておりましたでしょ。そうなると、袷の着物でも単衣の着物でも、それを全部ほどいてから洗濯をして、また縫い直さなきゃならない。ほどきますときには、糸をこう、できるだけ長く、後で使えるようにね、その糸はまたおぞうきんを縫うのに使ったりね。絶対に無駄をしなかった。そういうことを教えられてきましたからねえ......。今は豊かになってきましたけれど、私たちのころはそうせざるを得なかったんでしょうねえ。

●本に書かれていた「不便を懐かしむ」というお言葉
田圃の草取りでも何でも、昔は手でなさったんですからねえ。私は、岡山の市内で育ちましたから(そういうお百姓さんのご苦労については)わからなかったんですが、戦争中に山梨に疎開しましたの。そのとき、(実際にやってみて)お百姓さんのお仕事って、本当にたいへんだと思いました。でも、尊いと思いましたよ。
今はもう物がありすぎてねえ......便利になりすぎて、なんですかねえ、いいんですか悪いんですか。

今の人たち、自由でいいだろうな、と思いますが、あまりにもね、さっきも申しましたけれど、電車の中で物を召し上がったり、お化粧なさったりとか新聞にそういう記事が出ているのを見ますと、びっくりします。それでいいのかなあと思っちゃいます。
たいへんでしたよ、私たちのときは、今のお嬢さんがたとちがって。今は外で、電車の中でものを召し上がったり、お化粧なさるとか、
私たちのときは着物でしたから、足袋を履いておりましたんですが、それも人様の前で履き替えてはいけないと言われておりました。(人前で)素足を見せるな、ということなんでしょうね。そういう点では厳しく育てられました。
でも、今のお嬢さんがたは、お召し物も夏は裸みたいな格好で歩いてらして......涼しくていいだろうなあと思いますね(笑)。

いわゆる発展途上国? ネパールなどの、近代文明の息吹がかかってないところは、これからどうなっていくかはわかりませんが、まだまだ、昔の日本のいいところが残っているようなところがあるらしいですね。

―兄弟愛とか家族愛、思いやりとか、ああいう国ではまだ生きて残っていますよね。

そうね。どんどん便利になっていい世の中になっていきましたが、人間がよくなるかどうかっていうのは、ちょっと問題よね。そういった今の日本が失ったものを取り戻さなければ、この国は滅びるんじゃないでしょうか......。

・・・あぐりさんは、お話しなさりながら、ご自分でもよく声を上げてお笑いになります。本当に人を惹きつける、上品なユーモア精神に溢れた方です。
ですが、ご自身のご苦労については「たいへんでしたから」「そんな時代でしたから」とさらりとおっしゃるだけでした。その短い言葉に、この方が生きて来られた時代、「そんな時代」に、この方が自分で切り開いて来られた道程の重みを、ずん、と感じました。
働く女性の草分けであられたこと、早くにご主人を亡くされ、負債を背負い、たった1人で3人のお子さんを育て上げられたことなどなど、語り尽くせない「たいへんなこと」がおありだったろうに、「(周囲が自分をどう言っているか)なあんにも気づかないの」と笑っておられるあぐりさんに、人生の達人としての凄味をひしひしと感じました。
そして今なお、物事で腑に落ちないことについて、「どうしてかなあ?」(この「かなあ?」の響きの愛らしさ! お聞かせできないのが残念です)と好奇心一杯にお考えになります。その心の若々しさには、ただ脱帽するしかありません。どうか、いつまでもお健やかでいらっしゃいますよう。

(編集;村木阿古)

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