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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第11回 田中 千代さん

年寄りにはお金のいるようなことは
もうございません。
ただ家族の愛情が必要でございます。

田中 千代さん

明治38年11月27日生まれ 兵庫県加古川市在住

わざわざ遠いところをお越しいただきありがとうございます。
好奇心はございますが、もう耳は遠いし勘はとろいし、皆さんにご迷惑の掛からないような毎日を送ることが私の本望でございます。病院の先生にお世話になるような事はございません。健康についての心配のない事が何よりでございます。

11-1.jpg 母との離別
幼い頃に父と母は離婚しておったんじゃないかと思います。
7歳くらいのときに母親のところから父親に連れてこられましたが、それから母親との縁が遠くなってしまい、父親に相当ごんたを言うて困らせた覚えがございます。 「お父さんのお腹から生まれたんと違うわーっ」と口答えしたことが、未だに記憶に残っています。
親一人、子一人というので、いじめられたりもしました。頭の上に毛虫をのせられたり、帰ったら「田中千代のあほ」と障子に書かれたりもしておりました。私はその代わりに「竹中邦治のあほ」と書きまして、帰ってきたおとっつあんに何を書いとるのや、と叱られたりもしました。

おとっつあんの仕事
父親は新聞配達の為に、薄暗い時間から2,3里の距離を歩いて通い、夕方までかかって神東上の街を全て配達していました。朝の2,3時に出かけていく姿を障子の穴からじっと眺め、姿が消えると、「ああ、いってしもうた」とさみしく思ったものでございます。今のように朝で配達を終わるということはございません。ぞうりを履いて一日かかって配達し、帰りは川で身を清めて帰ってきました。配達ができなければ食事を抜かれるなど、大変な思いをしておったようです。
父親は多分栄養不足だったんだと思います。それに加えて世話をする人も居ない。私は未だ10歳やそこらで、逆に世話になるほうでしたから。何でもっと良くしてあげなかったんだろうかと、後悔の念に耐えません。十一、二歳の時にはまだまだ遊びたい盛りでして「親を大事にせにゃならん」なんていう想いが沸きませんでした。可愛そうな事をしたという思いでいっぱいなので、精一杯供養をせにゃならんと思っております。

一家の危機
あるとき、父の甥である田中弥太郎の口車に乗せられて、爪に火をともすようにしてためたお金を騙し取られてしまいました。叔父は印刷を生業にしていましたが、印刷の機械を借りていたら採算が合わないので、買いたいというのです。父親はお金を貸してやりましたが、弥太郎はそのまま逃げ隠れてしまいました。
しかしながら悪いことはできないものでございます。弥太郎は肺結核で、奥さんと子ども三人と共に亡くなってしまいました。
家を追われて、私は父と二人、近所の二階を貸してもらって、細々と暮らしておりました。父親は、だまされて生きる望みがなくなった、と四條の河原の橋の欄干にもたれて泣きました。私も、おとうちゃん、私もつらいから泣かんといて、と袖をつかんで泣きました。あの苦しい気持ちは忘れられません。

11-2.jpg柴島で奉公に出る
12歳のとき、大阪の柴島(くにじま)にある天理教のお家に、住み込みで奉公に参りました。田中善三郎さんと言う方のお家です。実際にはお手伝いの出来るような年齢ではございません。子守に行きました。
お手伝いに参りました家には、3人のお嬢さんがおいでになりました。私はいつも3畳のお部屋で就寝させていただいていたのですが、お嬢さんたちのおもちゃが触りたくて触りたくて...。朝早く起きて抜き足、差し足でおもちゃ箱に近づき、隠れて触っていました。ある日とうとう見つかってしまい、「千代さんがおもちゃ触ったーっ」と怒鳴られ、びっくりして部屋に舞い戻りました。

奉公その後
しばらくは柴島でお手伝いさせていただいて、その後豊国神社の社僕で働いていた父親のところへ戻りました。色町が近くにございまして、そこのお裁縫をたどたどしいながらも寝巻きから縫わしていただいておりました。けれども、父親は坐骨神経痛がひどく、豊国神社を出ましてその後は寺町で過ごしました。汐町の余所の家の二階をお借りし、何でもよろしいからさせてくださいとご近所にお願いして、お賃をいただきました。旧共同という文具屋さんが中ノ島の奥座敷で隠居していたので、座敷掃除や台所などの用事をさせていただきながら、字なども教わりました。また前に巫女さんのお宅がありまして、そちらでは台所や裁縫のお手伝いをさせていただきました。
父は失意の中、坐骨神経痛がありながらも四国のお参りに出ました。親一人子一人、寂しいなかにおとっつあん、千代さんよ、と言いながら二人で過ごしました。

結婚
宮崎県から神戸に出稼ぎに来ていらしていた方を好きになりました。神戸で同棲して、とよのりという長男ができました。結婚することを約束して宮崎についていったのです。向こうでは養蚕をしておりまして、蚕の桑の葉を取ったりしていました。
宮崎には1年ほどしかおりませんでした。しかし神戸に置いてきた父親が気になって落ち着かず、結局神戸に帰ってきてしまい、その人との縁が切れてしまいました。

父の死を迎えて
父親はその後、社僕として豊国神社に勤めておりました。私が二十歳そこそこの時、父親は60になるかならないかで食道癌で亡くなりました。
孝行に気づく時分に親はない、とはよく言うたもので。昔の人の言われたことに間違いはありません。ああ、罰当たりな私。おとっつあんは寂しかったやろうなあと思います。何で寂しい言葉を親にかけたのでしょうか。
その後、私の母がどこか付近におりましたが、上手に言われて女中代わりに使われました。育てられたわけでもないのに、言いなりになっていることが耐えられなくなってしまって、また柴島の家にお世話になることにしました。

戦死した長男
私の結婚は二十歳過ぎだったかと思います。父が社僕の時に、知人にお世話になり、結婚することになったのだと思いますよ。
結婚してから子供は男の子3人と女の子1人を授かりました。しかし、長男は戦争でルソン島で戦死しました。遺骨が帰ってくるというので、白木の箱をもって神妙に迎えに行ったら、入っていたのは石ころだけでした。それ以外には何も入っていませんでした。あまりにもあっけなくて落胆いたしました。その当時、将校さんも皆絞首刑になりました。兵士達が皆戦死しているのに自分たちだけが生きてはおれないということで、その当時の指揮官は全て絞首刑になられました。
長男は志願兵でした。それも時代。若くして命を落としたのもそれも宿命。
戦争中は危ないからどの家にも床下を掘って、避難するとき入れるようにしておりました。空襲警報が鳴ると板をめくって避難するものでした。食べるものは無かったです。あの時分のつらかったこと。たくさんのお方が爆弾でやられて酷いものでした。私はその中でも怪我ひとつせずありがたいものです。明治・大正に産まれた者には戦争があり国難の厳しい時代でありました。
次男はあまり健康に恵まれず、今は病院に入院しています。
今は孫が7人ほどと、ひ孫が3人おります。孫やひ孫にはそれぞれの親が成長を楽しみにしておりますので、私には関係ございません。

震災
震災までは神戸の長田の山下町に住んでいました。未だ主人も生きておりまして製鉄所にいっておりましたが、やはり短命でした。鋳物場の熱地獄みたいな場所でずっと働いておりましたので、早くに健康を害したのでしょう。
震災の時は、はだしのままで近くの小学校に避難しました。足の裏が痛くて痛くて、窓枠を外して運び出していただきました。着の身着のままでした。避難所のお手洗いは溢れかえっており、おしっこがしたい上にお腹は張るというのに、便器もむちゃくちゃでまともに使えませんでした。
加古川の娘が迎えに来てくれた時は、地獄から天の助けのように思いました。それ以後は、加古川の住人になりました。

施設へ入る
一年位前に老人ホームに入ることになりました。施設で約3ヶ月くらい辛抱しましたが、本当に辛うございました。大好きな「詩吟」を止められ自由が効かないということの辛さを感じておりました。読書も好きなだけ出来るわけではございませんでした。
私は年齢はいっているのですが、ぼけきらないのです。ぼけてやろうと思うのですがぼけられないんです。施設は障害者がとても多く、スタッフの方々は、障害者の方々のお世話で手が回らない状態でした。私は障害者でなくて良かったなぁと思いました。
老人には、お金も何も要りません。ただひとつ、家族の愛情だけが必要でございます。やはり家族との暮らしが一番でございます。

現在の生活
肉類は一切いただきません。お酒類はもちろん禁物ですし、いただきますものと言えば、お野菜かあっさりしたお魚を三日に一度ほど食べるくらいです。油気のものは、毎日はいただきません。
100歳は超過しまして、お笑い種になさってください。何事も天命と思っております。
趣味と言えば詩吟。詩吟が大好きです。施設では声を出してはいけないと言われ、一切詩吟を止められてしまいました。詩吟が健康を支えてくれていると思っていたので、その時の落胆はたとえようがありません。熱心に勉強して、七段までいただきました。
周囲はもう友達もございませんし、足腰が悪くなりましたので遠くへ出かけたりも出来ませんから、会いに行くこともできません。けれど、今は極楽です。
今までで一番嬉しかったことは、血の繋がった相手からは勿論、血の繋がらない相手から温かい愛情をかけていただいた時ですね。そういう愛情は、お金では買えませんので。
先祖の仏壇を大切に守るのは、私達の大事な大事な義務の一つです。朝晩欠かさず手を合わせています。神仏を敬う心というのは、何を置いても大切な心です。
私の心に凝り固まっていたものが溶けたような気持ちになりました。ありがとうございました。

田中千代さん 人生語録

11-3.jpg ・壮健は最高の宝
壮健なことはありがたいことです。壮健でなければご家族に心配をかけることになってしまいます。悪いこともありますが物は取りよう。健康体であることがなによりもありがたいと思って。

・読書は人間をつくる
いくつになっても読書から学ぶことが多うございます。読書は人生の楽しみ。
読書をしなければ人間としての常識が生まれません。しておっても常識のない方もいらっしゃるけれど。

・人間は死ぬまで勉強
向上心を忘れてはなりません。

・猫にとって人間は、神仏に同じ
かわいがって大切にしてやらねばなりません。
小さい頃は、猫が大好きでした。奉公先のお嬢さんが猫を触らせてくださらないので、お嬢さんが眠った後に、寝床から猫をそっと取り出して抱いとったものです。
猫や犬にとりましたら人間は神仏のようなものでございましょう、その猫や犬をぶったり蹴ったりするのは理解できないことでございます。そのような人間がいるというのは本当に驚かされます。

・発声力は健康に繋がる
詩吟健康法です。

・腹の立つこと
原因があるからこそ言われるのですから、辛抱しております。
自分の楽しみのない長生きをさせてもらってもしようがないけれど、楽しみがあるからこそ長生きもさせていただける。

・みなさんのおかげ
まことに人生というものはありがたいものです。先生のおかげ、みなさんのおかげ。あちらさんの先生、ありがたいことでございます。

・性分を見極めて
人間は馬鹿正直でもいけません。相手を見て性分を見極めて対応しなければなりません。

・親の苦労を良く思う
しりからげにして歩いていた父親に、恥ずかしいからあっち歩いてよ、と言うてしまったことがあります。何と言うことを言うてしもうたのやろうと思います。
親の苦労のおかげで今日があると思って、感謝せなあきません。

・人間は強くないと
くよくよしていたらきりがない。何でもいいほうへ解釈して。自分の健康のためにも悲しいことも思い出さないようにすることです。
自分が健康でなければ家族が心配する。絶対に家族を心配させてはならない、と思って健康に気をつけています。

・人間は相身互い
助けたり助けられたりというのが、人間の常です。それは廻ってきます。家族は助け合いをしなければならないのです。お互い様。

・腹で口答えします。
嫌なことを言われて感じが良いことはありませんが、なにくそ、ばかにするなよ、言いたかったら勝手に言っておれと思っています。心の中で。

・人間は実より言葉
父からも何度も言われました。
「千代さんええか、人間は理論よりも言葉が大切やで」
人を傷つけるようなことを言ってはなりません。実より言葉。言葉一つでどれだけ人が喜ぶか、どれだけ人が傷つくか。口から出る言葉は優しい言葉を使うのやでといわれました。昔の教育とただいまの教育はこんなにも違っているのです。

・老人になったら寂しい
年を重ねるほど友達が欲しいものです。

・人間には趣味が必要
年をとった時のことを考えて、若いころから趣味を持つことが必要です。年をとってからでは遅すぎます。

・謙虚な心
読み書きがあっても、常識というものが備わっていなければなりません。
悪いことがございましたら、指導してくださいませね。いくつになっても、自分の欠点は自分で考え直して気付けないものでございます。そのときは「こら、田中よ」とご指導してくださいませ。

・食に感謝
ああ、おいしい。
山海の珍味!昔はこんなに美味しいお菓子はなかった。ああ、父親に食べさせてやりたい。私のような下衆口にもったいない食事でございます。

・前向きに
物事は良いほうに考えまして。娘にえらそうに言われて、それで因果の種が晴れるのではないかと思っております。

・皆に感謝
先生のような方がいらして本当にありがたいことでございます。ようよう、このように近くにいらしてくださったものです。
捨てる神あれば拾う神あり。

・親に孝行、臣に忠
親に孝行、臣に忠、ということを現代の方は忘れていますね。
明治時代のものですから教育勅語は覚えております。孝は百行の元。その孝は戻ってきますでしょう。

・向上心
ご詠歌を勉強したい。勉強しとうございます。

・天命を拝受
何歳まで生きましょう?
そればかりは天におまかせしましょう。天命に従います。私にはわかりかねます。

・神仏は私の心の中にあります。

・悪の栄えた試しなし。

・宿命
人間には必ず宿命がございます。
それを辛抱してきたからこその寿命かもしれません。

・天知る地知る
悪いこと、やましいことはできません。

・腹八分目が医者要らず

・意のまま3人
子どもは3人が一番良いといわれていますね。

・生きること
人生はいいことばかりではございません。つらいことも多うございます。 しかし、それが人生というものでございます。
若い頃は苦労しましたが今は極楽です。苦労が報われるか否か、それもまた宿命。人間は宿命を背負っております。その宿命が尽きるときが、寿命の尽きるときと考えております。

・お金はあってもなくても罪悪をもたらす。

・親の恥は子の恥。子の恥は親の恥。

・仕事は健康につながります。仕事をさせていただくと、良かったなと思います。

・老齢になれば人は多少ぼけてしまうものです。

・自分の気分転換の手段を持っておかねばなりません。

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