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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第12回 三ツ村 タツエさん

ご先祖のおかげ。
今はもう感謝だけで生きています。

三ツ村 タツエさん

明治43年2月1日生まれ 和歌山県有田郡湯浅町在住

和歌山のみかんの産地で産まれました。
明治 43 年 2 月 1 日生まれです。
子供のころの記憶では、神人三次郎という小学校時代の先生の名前を覚えています。
当時の小学校は複式といって、 1,2 年生、 3,4 年生、 5,6 年生が一緒に授業を受けていました。平均して一クラス 50 人でした。小学校に行くには、座敷と庭を掃除してから行かせてもらってました。そして、小学校での掃除当番もあるときには、先に学校に行って掃除を済ませてそれから家に戻って家の掃除をしてから出るようにしていました。そして、学校から帰ってきたらまた 16 尋 ( ヒロ、両手を広げた幅長約 32 メートル ) の藁縄を機械で作りこれを使って、縄は縦糸、横糸に藁一本ずつを ( ワラスベ ) を入れて編みあげ、むしろに仕上げて 4 ~ 5 枚くらいを毎日お手伝いさせられました。 1 枚 2 時間としても小学生だからもっとかかっていたと思います。家業がみかん作りなのでそのみかんを守るためにかぶせるむしろでした。又、家業は他に牛を飼ってもいました。 35 匹くらい飼ってました。馬喰 ( 博労・ばくろう ) という仕事も家業でしていましたので。
その仕事は、丹波の但馬や尾道で小さな牛を買ってきて大きな田圃をしているお百姓さんに売りに行きます。その当時は機械が無いから田を耕すのは牛の仕事だからそのための牛。小さな牛を渡すと同時に前回渡した大きくなった牛と交換してもらいます。その差額を支払って大きくなった牛を引き取りその牛を又売りに行くという商売をしていたのです。それが馬喰という仕事でした。いわゆる牛馬の商売のことで生まれたての家畜を買って来て大きな田圃をしているところに売りに行って一年くらいで交換して又売りに行って儲けるという商売です。小さなころの遊びは「けんけんぱー」とか「お手玉」とかそんなことでした。夢中になって遊びすぎて袖のところが擦り切れるくらいお手玉で遊んだこともありました。勉強はよくできたほうだったと思います。四人兄弟でしたが、もう兄弟は今は皆死にました。小学校の次は湯浅高等小学校に行かせてもらいました。高等小学校は 2 年制でした。 ( 月謝は 1 円 50 銭、中学・女学校は 5 円 ) 女中奉公とかは私は行きたかったけれども行かせてくれませんでした。家の手伝いにしばられてましたから。勉強が大好きだったから高等小学校へは行かせてほしいと言って行かせてもらいました。
学校を出てからは裁縫を習いに行きました。山田村のシンボルみたいな場所 ( 春秋閣 ) という集会場みたいなところに畳の部屋がありそこで習いました。先生が自炊していたためご飯を作ってあげたりお風呂を炊いてあげたりしました。当時そこにお化け ( ミネサ ) が出るという噂があり暗い夜にその前を通るのが怖かったのを覚えています。


12-1.jpg 結婚したのは 19 才の時でした。先方のお父さんが亡くなられたので早く来てほしいと言われてお嫁に行きました。三ツ村家利大夫から分家した家に嫁ぎました。当時六一連隊という兵隊さんに行かれていて第二代目の三治郎さんが亡くなられたからだったのです。結婚当初初代の方が大変厳しい方でした。働きにいったようなものでした。無茶苦茶忙しかったし厳しかったのを覚えています。子供は四人できました。男三人女の子一人。
結婚当時は戦争のない平和な時代でしたので主人の三ツ村家三代目の孝一は軍隊に、二年ずつ訓練だけに行っただけでした。軍隊では成績で格付けがされました。主人は軍隊でも好成績で、特別上等兵を経て退役しました。ですから、旦那は召集令状は来なかったので戦争には行っていません。戦争の時はやはり食べるものは少なくなりましたが、百姓していたからそれほど困ることはありませんでした。このあたりは食べるものが無いということは無かった。百姓があるおかげ。お腹すいたことは無かったが良いものは食べられなかった。役場での米の配給も二合だけだと、、、ぜんぜん足りなかったけれど、米に芋や大根なんかを混ぜたらたくさんになりましたから。四人も子供がいるものだから芋の蔓やいなごを焼いて食べることもありましたが、、、。いなごは体に良いと評判でした。

天皇陛下が謝ってくださったから今があるんやで。そうでなかったら今頃どうなっていたかわかりません。終戦を迎えた、その当時冗談で「マッカーサーに歳暮持って行っといてあげたんよー。」とか言って笑ってました。日本が無条件降伏したという事を聞いたとき、お父さん ( ご主人 ) なんかは放心状態みたいになってしまって近くの海に磯釣りに自転車で行って一日中ぼーっとして、、、しばらくの間ずっと通ってました。やはり軍人の訓練も行って精神はありましたから。

60代後半からはゲートボールを 25 年間続けました。 92 歳までやりました。指導員の試験も 72 歳の時に一回で合格して先生から「あなたなら今日からでも教えられるから教えなさい。」といわれました。
100人受けて 27 人合格するというテストでした。それからずっと指導員や審査員を続けました。「プレーボール」と大きな声出して言います。ゲートボールでは会長を長くしていたので色々と役目があるので辞めるわけには行きませんでした。それに、試合があったりすると遠征にまで行くこともありましたが、主人がおおらかな人だったので 25 年も続けさせてもらえたと思っています。ありがたいです。おおおらかな家でなければ普通は続きませんねぇ。大会でも四位になったことがありました。それもご先祖さんのおかげだと思いました。

今はみかんの収穫の時期なので 10 月くらいから家が忙しいからこちらのデイサービスの施設に入らせてもらっています。正月には帰るつもりです。もう年寄りにはみかん獲りはさせてもらえませんから。私は 80 才まではずっとみかん獲らせてもらって仕事もしてました。 10 月から正月くらいが一番忙しくなります。後の時期はみかんの世話をします。
みかんの収穫に年寄りを行かせないには理由があり、上手に獲れなくなってしまうからなんです。年寄りを収穫に行かせていたら湯浅ではその家が笑われてしまいます。みかんを獲るにはコツがあり、枝と平行に上手く獲らないと傷物になってしまうのですが、年よりは枝を長く切ってしまうから傷物になってしまうからです。みかんの種類はいろいろとあり地域によって作っている品種が違います。

12-2.jpg人それぞれ寿命も色々ですからねぇ、、、。死にたくても死ねるものではありませんから・・・死ねるまで待つだけです。喧嘩はしたらあかん、いいことはひとつも無いから、いつも一生懸命させてもらっていたらそれが一番と思いますよ。ここの施設は良くしてくれるからいいです。ここに来て 36 日ですが、、、。新聞は今も毎日読んでいるけれど、デイサービスの施設ではおなご ( 女子 ) が偉そうにと思われるから遠慮して毎日は読んでません。時々にしています。今は少し足が悪い程度で後は健康です。テレビを見たりお手玉したり時々お出かけにも連れて行ってもらえます。食べ物は何でも好き。お肉もお魚も大好きです。何が嫌いかといえばシュウマイだけです。刺身は特に好きです。

昔のことは頭に入りやすかった。何でも覚えている。働くばっかりやったけれどな、、、山田の生き地引といわれています。主人は 64 で亡くなりました。私の 8 つ違いでしたから私が 56 歳のときですね。私の二男の勲も主人と同じくらい早死にでした。三和銀行の支店長まで勤めましたが 65 歳で亡くなりました。亡くなる 16 年前に受けた肺結核のオペで輸血したのが原因で C 型肝炎になり亡くなりました。その子の子供が女の子ですが今早稲田大学に通っていてとても優秀なので嬉しいですねぇ。三男は警察官で警視になってからもう辞めました。長男は今一緒に住んでいてみかん作りをしています。孫も嫁をもらってひ孫が家に二人になっています。長男はもう 79 才です。今は五代目になっていますが、私は三代目に嫁ぎました。その嫁ぎ先のおじいさんがそれはそれはたいそう出来る方で、山田の歴史をずっと書き留めていたり浄瑠璃に熱心でした。浄瑠璃の本が未だ残っていて家を建て替えたときに捨ててしまおうかとも思いましたがそれは、歴史なので仏壇の引き出しに入れてちゃんと保存しております。伝統芸能ですからちゃんと箱に入れて保存するようにしました。大事なことだと思います。昔の通貨も残しています。昔の一銭が今は 300 円らしいです。 5 銭だったら万になっているらしい。二銭もあります。二銭は大きな通貨だったので弾除けに胸ポケットに入れたものでした。主人が地域の区長さんやらいろいろと勤めさせてもらっていたので私もわからないながら地域のお手伝いをさせてもらってました。だから塩梅 ( アンバイ・塩加減の例え ) こらせてもらえたのでしょうね。
ですから、私は今、長男の隆雄と一緒に曾孫まで 4 代同居で暮らしています。すべてご先祖のおかげと感じています。そして、女の子ひとり産んどいて本当に良かったわーとつくづくこの年になっても思います。良いところに嫁いでくれて、女の子は優しく気遣ってくれるから本当に良いです。いつも新しいもの買ってきてはこれ着てみ、これ履いてみと言って私の洋服や靴を今でも持ってきてくれます。今履いている靴も娘が「お母さん、これ履いて。」と言って持ってきてくれたものです。 ( 嬉しそうに目を細めて見せてくださいました。 )

今までで一番辛かったことは母親死んだり兄弟死んだり、やっぱり身内の不幸です。うれしかったのはやっぱり子供らがみんな良い学校に入学できたことが一番うれしかったな。皆進学校に行ってくれました。

大事だと思うことは何ですか ? と最後にお聞きすると、
「なんというても、仲良うしなあかんわなぁ。働いて隣近所のみなさんと仲良うすること。それと、すべては先祖さん、神様のおかげだから、毎朝毎晩ありがとうと感謝する事。今はもう感謝だけです。それだけで生きています。」
とおっしゃってくださいました。

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