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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第22回 村上 きんさん

家族がいて、自宅でこうして毎日子供たちが来てくれるのが一番嬉しいです。

村上 きんさん

明治40年11月10日生まれ 岐阜県出身 大阪府在住

(生い立ち、子供時代)
明治 40 年 11 月 10 日生まれ。 岐阜県伊奈郡陶村に生まれました。
兄弟は 4 人、父も母も岐阜県の人で、父は陶器を作ってました。
名前は最初、母の友人できん子さんという名前ですごくいい人がいたので、その人の名前からもらってきん子だったのだけれど、当時は子がつく名前が少ないから役所がとってしまって。小学校時代はきん子と呼ばれていましたが、後に鳥取に疎開してからはきんと名乗るようになりました。
小さい頃はお手玉や毬をついたり、でもあんまり遊ぶってことはなかったね。家の手伝いをしていました。
小学校は昔のことだから 6 年生まで行っていました。
私は目が大きかったから「目玉の看板」だって、男の子にからかわれました。
はっきりした顔立ちだったので、小学校の 3 年生の時には役者にならないかという誘いもありました。父は賛成しておりましたが母が反対してやめました。
母は田舎の人だったから、厳しい人でした。しっかりした母でした。
母が反対しなかったら今頃役者になっていたかもしれません。父は役者の舞台関係の仕事もしていましたから私を役者にしたかったようです。

(陶器会社での思い出)
小学校を出てからは父の働いている陶器の会社に入って働きました。土をこねて、形を作って、穴をあけて陶器を作っていました。
そこでの思い出と言えば、誰にも話したことがないけれど、陶器の会社の社長の弟さんが私のことを好きになってくれて、交際していました。でも、私の母が、
「その人と結婚したって一生苦労せんならん。あんたを女中さんとして使いはるだけや」
そう言うて、一緒になったら自分が苦労するから駄目と言って、反対されました。
反対されましたが、その人から時計なんかも貰ってね、その時分娘が時計なんてはめることなかったけれど、映画やなんか見に行く時にははめて出かけたり。
でも、結局その人は、私の同級生の偉い方の娘さんと結婚しました。

22-1.jpg(横浜の旅館へ 結婚)
それで、私は諦めて、当時私のいとこが横浜で旅館をしておりまして、そこで 20 歳くらいまで働いておりました。
そしたらね、しばらくして、そこの旅館で下宿していた石屋の職人と結婚しないかという話が出て、その人と結婚することになりました。 23 歳のときでした。
横浜の写真館で長い間結婚式の時の写真を飾ってもらっていたのを覚えています。
主人は鳥取出身でしたが、石屋でしたので横浜で銀行やなんやらの建築の仕事をしていました。
そこへ主人の知り合いから東京で仕事をしないかという話が出て、東京へ行って、東京で初めての子供ができました。主人は東京では、宮内庁関係の仕事もしたようです。
そうして、東京でずっと子供を育てていました。

(東京から大阪へ、戦争)
そしたら、私の弟が大阪で電気の仕事をしておりましてね。手伝ってくれへんかいうことで、大阪の堀江へ越すことへなりました。
子供がさらに男の子やら女の子やら 3 人ぐらいできまして、そこで育てていました。
そうしているうちに戦争がはじまりました。
東京で生まれた10歳の長男を盲腸で、下の女の子も2人亡くしました。
よしこは牛乳を飲んだらお腹が痛いと言い出して、病院に入院せなあかんというときに亡くなりました。3歳でした。ひでこは風邪で肺炎を起こして2歳の時に亡くしました。
長男はやすろうという名前でした。
今だったら死なないけど、戦争の時分のことだから。
辛かった。
はじめは堀江におったけれど、そこで子供が 3 人亡くなってしまったから、天王寺へ移って。そこで、空襲やらが始まって防空壕に入ったり、残りの子供が集団疎開になったり。
食べることが不自由になってお父ちゃんの田舎へ帰ろういうことになって、主人の田舎の鳥取県へ帰りました。

(疎開 鳥取)
主人は石屋だから、鳥取では建築なんかはできへんでしょ。だから石塔なんかを立てていました。
私は瀬戸物のできるところの子供ですから、百姓の仕事なんてしたこともなかった。
山へ行ってキノコをとったり、みんなに教えてもらいながら畑耕したりして子どもを食べさせていました。
田舎で食べるものがないから、着物を食べ物にかえて。でもね、今から考えたらそれでよかったの、だってね、今着物なんて皆着やせんからね。着物持ってっては食べ物にかえて子供育ててね、子供大きして。
苦労しました。戦争のために。
防空壕の中に座っておったら、外でね、誰かが転んだの。
そしたら、中の人がな、「村上さんが転んだ」って。そしたら奥の方で「私がここにおります」ってお父ちゃんの声がして。お父ちゃんが死んだと思ったから、お父ちゃんの声を聞いたときはほっとして。

22-2.jpg(終戦後)
終戦になってからは、東京で仕事がなくて、主人は石屋だから鳥取で長者さんやらの石塔を作る仕事をして、私は、製材屋で働いていました。
朝は 4 時半か 5 時くらいに起きて、子供の用意をして、子供を送り出したら会社へ行ってね。子供にもよく手伝ってもらいました。
20 年くらい勤めていました。

(鳥取から大阪へ 現在までの道のり)
それから末っ子が高校に入るくらいになって、また大阪へ帰りまして、大阪で末っ子を高校へ出して。そのあとはずっと大阪へおります。
大阪へ越してからは、 50 代の頃には昼間近所のお宅へ女中で働きに出たこともありました。
60 歳を過ぎてからはゴルフ場の喫茶店で働いていました。
孫ができてからは孫の幼稚園の送り迎えもしました。

働くのが好きです。
じっとしていることが嫌いで、ずっと働いていました。
お金でなくて、働く癖がついているから、何かしないと逆に落ち着かない。
家にいるときは内職をしていました。
80 歳過ぎの時、温泉に行く途中、内職募集の張り紙を見つけて、家族に言うたら働き過ぎや言うて怒られる思って、一人でこっそり内職の応募へ行きました。昔から子供の服でも全部編んで着せました。帽子かてなんでも編みました。よその着物も作っていましたしね。
90 代は傘の内職をしていました。

お金ではなくて、手を動かして仕事をしているのが張り合いがあって好きでしていました。
働けるのがありがたいと思って内職をしていました。 今は体が不自由になってしまいましたが、 2 年前までは家事もすべてしていました。
新聞を読むのが好きで、毎日読んで、雑誌の広告記事なんかを見て、家族に買ってきてほしい本を頼んだりもします。
時代劇や相撲が好きです。
子供 8 人のうち、 4 人は亡くなりました。
戦争の時分に 3 人と戦争の後に 33 歳の息子を1人。
4 人亡くなって、 4 人元気でおります。
今ひ孫はようけおります。 20 人以上います。
健康で気をつけていることは、特にありません。
食べ物はなんでも好きです。
肉や魚も食べますが、野菜が一番好きです。
でも、もう耳が悪くなってしもうたし、歯も悪いし。
働いているのが好きだったから、足が動かないのと手が動かないのが辛いです。
一昨年末っ子の洗濯を手伝おう思ったらね、躓いて転んで、足を怪我してしまってそれから足が不自由で。
せんでもええことを、少しでも手伝ってやろう思って手伝ったらけがをしてしまいました。

デイサービスは週に 4 回。
前は 2 回だったんですが、家でお風呂に入れなくなったので、お風呂が大好きだから週 4 回通っています。
朝早くにいって、楽しくさせてもらって、夕方に帰ってきてます。
今は私の方が病気になっちゃってね、不自由なからだになっちゃったでしょ、転んじゃったから。だから今はこの末の子が世話してくれてね、エヴァグリーンってデイサービスに通ってます。でもね、そこでも私が一番歳大きいからね、みんな「金さん、金さん」言うて誰も「村上さん」言うてくれません。
22-3.jpg足が動かんからね、不自由なこって。他のところは何も悪ないけれど。
難儀してきました、若いときは。子供がようさんおって、空襲にあって、食べ物も不自由でしたでしょ。苦労しました。
でも、苦労したけれど、長い間生きてきてやっぱり一番辛かったのは、子供が死んだときです。
本当に辛かった。
戦争中に亡くなった 3 人は、風邪や盲腸で、今だったら死なないけれど、戦争の時分のことでどうしてやることもできんかった。
33 歳の息子が死んだときにはね、こっちも歳がいっているし、子供がいたけどどうしてやることもできんし、かわいそうなことになったと思ってね。でも、今は植木屋さんになってくれてね。立派になってくれて本当によかった。
長い人生いろいろ苦労してきました。戦争のためにね。
でも、みんないい子に育ってくれて、子供らもみんなようしてくれてね。
助かります。息子も立派になって。
敬老の日に阿部総理から賞状と祝 100 歳というお皿をもらいました。
3 月には娘が申し込んでくれた市役所の植樹へ行きます。
娘が昔作ってくれた人形も枕もとにあります。
男の子と女の子の人形があって、女の子をくれました。
ちょっと娘に似ています。
家族がいて、自宅で、こうして毎日子供たちが来てくれるのが今一番嬉しいです。

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