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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第16回 久野 富美子さん

いい加減なことをしたりしないで、
辛くてもその人のためにしてあげるということがやっぱり大事

久野 富美子さん

明治44年1月30日生まれ 兵庫県神戸市出身 兵庫県芦屋市在住

戦争が終わって何もない時だって、ハーモニカ1つでもあったら、子供を集めて幼稚園のようなことをしたかった......。そんな話をしてくれた久野さん。子供が好きで、かわいくて、かわいくて、仕方がなかったのだとか。だから、戦前、戦時中、そして戦後、 77 歳になるまで、学校や幼稚園で子供たちと接し続けた。
足は多少不自由になっているものの、はっきりとした話し方で、時にはユーモアを交えながら、これまでの人生を振り返り、語ってくれた。

「ものすごく良かった。いい人生」

そう言う久野さんの思い出話には、いつも子供たちに囲まれている姿があった。

■幼少期 ~父との思い出
私が生まれたのは、神戸市の県庁近く。今では観光施設になっている「相楽園」が当時は小寺さん (三田藩士・小寺泰次郎)の 大きなお家でね、その西側にありました。いいところでしたよ。
私は3人兄弟の真ん中。兄と妹がいました。もう2人とも亡くなりましたけど......。
父は学校の先生をしていました。でも、私が 10 歳の時に亡くなってね......。あの頃は教師の給料は安くて、労働組合のような制度もちゃんとできていなかったんです。それを改革しようと演説して廻って、そのときの流行性感冒にかかって亡くなりました。それからは、母も学校の先生の免許を持っていたものですから、母が先生をやりながら、苦労して頑張って、私たち3人をちゃんと学校へ入れてくれました。
父の思い出ですか?ありますよ。性格は昔気質で、でも前向きの人やったわ。私はその血を受け継いだみたいで、すぐでしゃばるほう(笑)。父はあっちこっち連れて行ってもくれました。その時分は、喫茶店などなかったから、外で食べさせてくれたのは、田楽やオムレツ。そんなのを覚えてるわ。



■子供の頃の生活
バターを初めて食べたお友達が「バターって美味しいねぇ」って言ってきた時、私はまだ食べていなかったんです。食べてみたかったけれど、母は田舎の出身だから、「そんなもの臭いからイヤ」って言って、私は食べさせてもらえなかった。神戸の真ん中辺りに住んでいたので、台湾やロシアの人がいて、焼き豚、ハム、ベーコンなどをもらうことがあるんだけど、それも母が匂いを嗅いでは「こんなもの食べられへん」ってみんな捨ててしまって......。友達の話にあわせるのに苦労したわ(笑)。
お友達のお家に行って、初めてお紅茶をいただいたのもその頃。ミルクとお砂糖が入っていて、ものすごく美味しかったの。その味がずーっと今でも残ってる。最近はあまり飲まないけど、よそで出されると、「あ、子供のときの味だ!」と思い出します。こういう新しい味はほとんど友達から教わって、母からということはなかったですね。

子供の頃の遊びといえば、近所のお友達と、かくれんぼ、まりつき、なわとび、ままごとなど。ままごとは、お菓子の箱などを使ってお部屋を作って、紙で作ったお人形で遊ぶことが多かったわね。広い家を作って喜んだりね。
ああ、でも、今でも思い出すのは、お雛祭りのときに、母がお雛様と一緒におもちゃや実際に使えるようなままごとの道具も飾ってくれてね、つくしをつんできて煮て、初めてそれでままごとしたわ。七つくらいの時やったかしら。一番嬉しかった。普段はそんなことできないでしょ。
10 歳で父が亡くなってからは、だんだん暮らしが辛くなってしまいました。母は一生懸命働いていたけれど、遅咲きで学校の先生になったから、いろいろギャップがあったりして......。私は長女だったから、家のことばかり思うようになってね。見事な孝行娘になったんです(笑)。

16-1.jpg ■学校の勉強
学校の勉強は嫌いではなかったわ。算術で教わったのは鶴亀算とか並木算。並木って「間の数」より「木の数」が1つ多いでしょう。それを使って考える計算。鶴亀算は、亀の足は4本、鶴は2本でしょ。それを使って計算するの。これはわかったら面白かったです。
その時分はね、ちょうど日本の作曲家が曲を作り出した頃。それまでのお唱歌はほとんど単調なもので文語体が多かったの。平家と源氏の一の谷の戦いで、敦盛の笛が残っていただとか、そういう叙情的な歌を習いましたね。それから、東京のほうの稲村ヶ崎っていう浜辺で新田義貞が剣を海に投げて......という歌や、義経の『 鹿も四つ足 馬も四つ足 鹿も越え行くこの坂道 馬の越せない道理はない』 という歌とかね、面白いのよ。歴史の歌が多かったです。それで、歴史が面白くなって、いまだに覚えてるもの。学校ではいっぱい良いものをもらった気がするわ。

■女学校・師範学校へ
母が一生懸命働いてくれましたが、家も替わって、替わって、場末のような所まできて、女学校へということになったのだけど、女学校なんか受けさせたこともないような学校やってね。でも、女学校へ行きたいという人が何人か出てきて。そんなふうに女性がだんだん目覚めていった時代だと思う。
それで、先生が一生懸命考えてくださって、新しくできた、神戸市立第二高等女学校というところがあったので、そこへ行って。それからちょうど4年生から5年生に上がるときに、神戸高等商業学校といって、今の神戸大学だけど、そこへ行っていた兄貴が、東京の一ツ橋大学に好きな先生がいるから、そこに行って勉強したいって言い出したの。母親は行かなくていいって言うんだけど、私が「兄さん、行って。その代わり、私が早く仕事について、学資くらい送るわ」って大きいこと言って(笑)。
私は5年生になるときだったから、卒業してもよかったんだけど、師範学校を受けたら受かったの。2年間通う、今でいう短大みたいなものだけど、そのときはまだ1年でよかった。もう本当にね、トコロテン突き出すみたいに、早く出してもらって......(笑)。

■教師になる
その頃は師範学校を出たら、2年間は先生をしないといけない。補助があってほとんどタダで授業を受けられるから、先生にならないんだったら、お金を返すの。
それで、とても頼りなかったと思うけれど、先生になって。「鼻の頭にいっぱい汗かいて、なんかいじらしかった」って言われてました(笑)。
初任給は 40 円。男子校だったら 45 円。不景気の真っ最中で、 40 円でももらったのは1年くらいで、次は 38 円に下がったわ。
その頃は、大恐慌で銀行が次々につぶれて......。相楽園のそばに住んでいた頃は、米騒動もあったし。小寺さんの家(現在の相楽園)はお金持ちだったから、火をつけられたり、門にいろいろ投げられたり、とにかくすごかった。それ見てガタガタ震えていたわ。

■結婚 ~共働きの生活スタート
兄貴に「学資くらい送ってあげるわ」って大きいことを言ったけど、 21 歳で結婚しました。夫は、県立工業学校に勤めている人で、あまり給料もよくないし、家は貧乏していたし、兄貴も学校へ無理して行っているしで、私も学校の先生に戻りました。いろいろ理由はあったけれど、一番は先生の仕事が好きだったから、ずっと続けたかった。
それで、いわゆる共稼ぎをやりだしたのだけど、すぐに子供が生まれて。今みたいに保育所はないし、どうやって育てようか悩みました。でも、何とかやり通したいと思っていたら、助けてくれる人がいるものね。
ただ、女中さんには本当に苦労したわ。きつい人だったから、だんだん子供の顔から笑顔がなくなるの。それが本当に辛かった。でも、私はお乳がよく出たから、女中さんに学校へ連れて来てもらって、お乳をあげたりして、なんとかやり通しました。
ある日、女中さんが夜中にいなくなったこともありました。部屋を見たら道具も何もないの。次の日におまわりさんが来て、「おたく、女中さんいなくなったでしょ?」って。なんでも牛乳屋の配達員と留守中に逢引きしていて、示し合わせて荷物を全部持って出て行ったんだって。おまわりさんがつかまえて荷物を調べたら、行李の中からうちのスプーンとかナイフとか所帯にすぐいるようなものを入れてる。......なんかいじらしくて、「もういいですわ」って言ってあげました。

■ 10 年間の東京生活
昭和 10 年、 25 歳くらいの頃、夫が東京の都立大学を作るために引っ張られて、私も一緒に東京へ行くことになりました。私が勤める学校もすぐできて、東京暮らしが始まりました。
東京の子は標準語でペラペラしゃべるでしょ。賢そうな子ばっかりやと思って。吉祥寺の住宅地で、山本有三とか野口雨情が住んでいたようなちょっといいところでした。そこの子供さんたちだから、言葉がきれいで、私がしゃべると「言葉がおかしい」って笑うのよね。私はすぐに順応したけれど、主人は標準語にならずに困っていたみたいです。

■戦争勃発 ~明石へ逃げる
そのうち、戦争(第二次世界大戦)が始まって、空襲で火に囲まれて、本当に危なくなることが何度もありました。生徒の家もずいぶん焼かれて預かったりもしました。昭和 19 年に息子が生まれましたが、その頃は母親も学校を辞めて家にいたから一緒に東京へ来てもらって、私が働いている間の面倒を見てもらっていました。
それが、その母親が咳をしたり、血を吐いたりして、お医者さんに結核だと診断されてしまって......。うつらないように母を2階に住まわせて、子供も上に行かさないようにしていたんです。そうしているうちに、焼夷弾が落とされるようになって、明石にいる妹が「危ないからこちらへ帰ってらっしゃい」と言ってくれたので、汽車に乗って子供2人と母親を連れて明石へ戻りました。切符も無理やりとって、母親を2人分のシートに寝かせて、私たちは地べたに座って。それが昭和 20 年。
でも、明石へ帰ってから母親をお医者さんにみてもらったら、結核じゃないって。当時はちゃんと検査する道具もなかったから......。ただ、カルシウムとか結核に効く高価なお薬をいっぱいもらっていたせいか、その後、母親はずっと元気でね、風邪ひとつひかなかったからよかったです。それでね、じゃあ、あの血は何だったんだろうって聞いたら、たぶん歯槽膿漏やったんちゃうかって(笑)。

■明石での空襲体験
せっかく帰ってきたのに、今度は明石に爆弾が落とされるようになり、明石公園に逃げることになりました。でも、母親がトロトロしていて、「先に逃げて、後から行くから」って言うんだけど、「離れ離れになるから、一緒に待ってる」って言って待っていたら、公園のほうからポトポト顔の皮がむけて、ボロボロの人ばっかりがトボトボ帰って来るのよ......。結局、公園に爆弾が落ちたらしくて。......行かなくてよかったんです。
その代わり、何日か経ってから家が焼夷弾でやられてしまったけどね。妹の家の空いている所を借りていて住んでいたんですが、そこは機械油の仕事をしていて、倉庫にいっぱい油があったものだから、そこへ焼夷弾が落ちたら、よう燃えてね......。丸焼けです。
私は前日に怪我をして右手を吊ってたのよ。上の娘と下の子は 12 も歳が離れてるから、すごく弟の面倒をみてくれて、この時もおぶってくれて。私は焼けかけた家に置いてきた物を取りに行くって戻ったんだけど、気付いたら足踏みミシンの上に妹の家から借りていた柱時計を置いて、手が痛いのも忘れて片手で引っ張ってたの。子供のおしめや着替えを取りに戻ったのに(笑)。だから、必要なものはみんな燃えてしまった。後からは笑い話だけど。気が動転して頭が真っ白になってたのね。
右手は交通事故で骨折したのよ。広い国道を娘と乳母車に乗せた赤ん坊と3人で渡ろうとしたら向こうからトラックが来て、逃げようと走って歩道まで着いた時に、トラックが私の肩をさっと擦って、店に突入してしまった。乳母車は国道を走って......。無事だったんだけど。でも、その店も次の日に焼夷弾が落ちて焼けてしまったの。私のせいでつぶしたかと思っていたんだけど、それで罪悪感がなくなったわ(笑)。

■終戦後、再び教師に
8月、戦争が終わって、一人東京に残り、文部省に勤めていた主人もこちらへ帰ってきました。東京では学校をつくる仕事をしていたので、帰ってきてからも、今の大阪府立大学をつくるのに奔走していました。
芦屋駅の近くに大きなお家があって、終戦後は8年間もそこでお世話になりました。主人の中学時代に面倒をみてくださった方なんです。主人は成績は良かったのに貧困家庭で上の学校へ行くお金がなかったから、その方に世話していただいて。
それで、ちょうど離婚されて奥さんが出た後だったから、部屋も余っていて、事情を話したら「来い」って言ってくれて、行ったら喜んでくれました。

そのうち、私もだんだんともう一度学校の先生がしたいと思うようになって。やっぱり子供が好きやったからね。
芦屋駅を降りて山のほうを眺めたら、山の上にホテルみたいなきれいな建物があって、「あれ、なんだろう」ってきいたら「山手小学校や」って。東京では建て替える前の学校ばかりやったから、「きれいやね。あんなところで先生できたらいいな」って言っていたら、そのお世話になっていたお家の方が芦屋でちょっと顔が利く方で、「それやったら、僕が言うたるで」って言ってくれて。終戦後やったから、先生もちょうどいなかったんです。
それで市役所へ行ったら、昔一緒に勤めていた男性が総務部長になっていて、その話をしたら「そりゃ来たらいいわ」ってトントンと話は進んで、その小学校へ勤めることになりました。
忘れられないわ。ホテルみたいなきれいな学校。本当にきれいだった。春には桜がいっぱい咲いてね、職員会議よりも桜の散るのを見てるほうが楽しかった(笑)。

■幼稚園の園長に抜擢
その小学校で3、4年勤めた頃、芦屋には4つ小学校があって、それぞれに幼稚園が付属してたんです。それを市長さんや教育長が、独立させて幼稚園としての教育をしたいということで、私の所へ来られて「園長になってくれませんか」と。
いきなりだったし、経験もないけれど、子供はかわいいし。戦争が終わった時に、ハーモニカ1つあったら子供を集めてそういうことしてみたいなと思っていたこともあって。主人もやれって言うし、私もやってみようと思って迷いもなくその話を受けました。それから1年ほどして、次々に幼稚園が独立していったので、定年まで園長をやりました。

■定年後、私立の幼稚園へ
でも、定年といってもまだ 57 、 8 歳で元気でね。これで辞めてしまうのは惜しいと思っていた時に、ちょうど幼稚園ブームになって、入園できずに待つ子供が出てきたの。その時、西ノ宮のお百姓さんで土地をいっぱいもっている人が、「幼稚園作ってあげるから園長になってくれませんか」と言ってきました。
それで、芦屋で一緒に勤めていた時に一番優秀だった先生を引っ張って、二人でそこへ行ったの。でも、1年目の園児がたったの 45 人しか集まらなくて......。 45 人の月謝だけでは運営は難しいし、幼稚園を作ってくれた方を満足させるのと、引っ張ってきた先生にお給料を払わないといけないのとの間に入って大変でした。
だけど、その先生が「 45 人でもやりましょう」と言ってくれたんです。それが嬉しくて、嬉しくて。ほんまに先生は大事にしなあかんって、改めて思いました。
運動会もたった 45 人じゃ淋しいし、どうやってこの広い運動場を使おうかと悩みましたね。でも、その先生は頭のいい人だったので、例えば行進なら、一人が歩いて1分くらい待って、次の子を歩かせて......というようにしたんです。そうしたら親は自分の子が歩くのがよく見えるでしょ。人数が少ないから遊ぶ場所や道具もいっぱい使って遊べるしね、そんなのですごく評判がよかったんです。

16-2.jpgだから、次の年からだんだん生徒が増えていって、入れずに待つくらいになりました。自分は芦屋で長い間、園長をしていたし、自信はあったんです。どうやって子供を喜ばせて、遊ばせて、幼稚園を好きになってもらおうかと一生懸命考えていました。先生達とも相談したり、勉強したり。それで、ここが一番いい幼稚園だって、自負できるくらいにはなりました。
保護者はいろいろ要望があるんです。送り迎えのバスや給食が欲しい、保育時間は長くしてほしいとか。でも、私は「送り迎えにバスを使っていると子供の足が弱りますよ。今は親が子供を一番大事にみるべき時ですから、朝は間違いがないように連れて来てください」とか、「子供が健康でいられるように、栄養や配色を考えてお弁当を作るのもお母さんの仕事ですよ」と説明して、バスも給食も取り入れませんでした。子供がいかに遊ぶかということばかり考えて、先生らにもそういう教育をして。私が辞めるまではそのままのやり方できました。
保育が面白かったから、またそこで 20 年。 77 歳まで。振り返ってみると、ものすごく良かった。いい人生。

■夫の死 ~人のありがたみ
主人は私が 45 歳のとき、 48 歳で亡くなりました。学校をつくるという仕事は、とても大変だったようです。芦屋(兵庫県)から堺(大阪府)まで通っていたので、「遠足みたいなものや」ってよく言っていました。最後のほうは、授業を午後にとってゆっくり行くようにしていたんですけど。
日曜日の朝、突然、脳溢血で亡くなったんです。大阪府立大学をつくって、まだ間もない頃でした。上の子供はもう 20 歳だったけど、下の子はまだ 10 歳。だから、時々、「お父さんってどんな人やった?」って聞きますね。やっぱり父親のことを想うことがあるみたい。
共働きしていたのに、いつもお金がなかったのは、主人が人におごってばかりいたから。よく学生を連れて来ていました。だから、主人が亡くなったのが給料日の前日だったから、家にはお葬式を出すお金もなくて......。昔の父兄が近くに住んでいたから、3万円借りに行って何とかお葬式を出しました。
それで、私一人の収入になったら、なぜかお金に困らなくなったの。主人が生きているときは、あんなにお金がなかったのに。いかに主人がお金を遣ってきたかということね(笑)。だけど、いまだに主人が世話した人が「あの時、こんなことをしてもらった」「あの時、いただいたものが美味しかった」って、話してくれるんです。
いい加減なことをしたりしないで、辛くてもその人のためにしてあげるということが、やっぱり大事。

■人生を振り返って ~現在の暮らし
ずっと先生や園長をしてきたのは、子供がかわいいから。本当にかわいい。大きくなると顔を見てもわからないし、あまり接触はないんだけど、お母さんたちとは今でも付き合っています。園児の中には、ずっと来る子もいました。家庭に問題があって、荒れてしまって......。園長室から出て行かないくらい。
人生を振り返って想うのは、「人を大事にしてあげる」ということの大切さ。先生という仕事をしてきたら、よけいにそう思います。
辛かったことはあまりないわね。主人が亡くなった時は、下の子が 10 歳やったから、まだまだ頑張らないとあかんという気持ちが強くて、悲しんでばっかりおれなかったし。東京へ行ったり、戻ったりする時も、不思議と辛くなかった。戦争で家が燃えてしまった時も、あちこちの人が経験していることだから、あまり辛くなかったしね。
嬉しかったのは、カギっ子だった下の息子が、塾も行かずに一人でちゃんと勉強して、中学時代はずっと会長も務めて、東大に入ったこと。出てからは自由に生活をしていて、心配も多かったけれど。貧乏しても「金は天下のまわりもの」なんて言っているから、私は「地獄の沙汰も金次第」って言うんだけどね(笑)。まあ、どちらも本当でしょう。

今の楽しみは、川柳。川柳をやっていると、お題に対して常にいろんなことを考えるから、出来栄えよりも「考える時間がある」ということが自分にとっていいなぁと思うんです。みんなもそれが楽しいと言いますね。
お友達は、同年代の方はみんな亡くなったか病院やケアハウスなどに入っているかで、家へ来てくれるお友達は、川柳友達や学校の先生の後輩です。この間も4人で、ここで集まったの。忘年会しようって。
体は丈夫です。もう今更病気してもじたばたしなくていいから、お医者さんはなるべく行かないで、何かあっても電話で薬だけもらうようにしています。
年をとると大変なのよ。だから、何かやりたいと思ったときに、やらないと!私は何も考えないで走って、走ってから最善を尽くしてきました。 77 歳まで仕事があったということは、本当にありがたかったです。

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