いいね! このエントリーをはてなブックマークに追加

明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第10回 橋本 宗一さん

世の中は何と言うたって実行ひとつだ。
実行がなけりゃいかん

橋本 宗一さん

明治44年10月10日生まれ 北海道旭川市在住

「最近は情が薄くて、親しみがない。友達や、て言うて遊びに来ても、酒だけ飲んでさっさと帰ってしまう。そのくせ、飲みたくなったらまた友達やと言うて寄ってくる。若い連中だけやと意気投合して話してるけど、年寄りの話は聞きたくないんだろう。まあ、聞く耳は持たんわなぁ。道徳心がなくなってきてる。昔は勉強せいやとは怒られることはあっても、親が子供を殴り殺したりすることはなかった。昔のほうが情が厚いと思うわ。学校の先生からして違う。明治の時代は、勉強を教えるのは給料をもらっているから、なんて考えの先生はひとりもおらんかった。今はどうだ。おまえら勝手にやっとけ、てなもんだろう。道徳教育がなくなってしまってから、世の中がらっと変わってしまったように思う。だから親子が殺しあったり、夫婦が金を目道(目的)に保険金かけて殺したり...。最近は日常茶飯事になってしまった。国を挙げて、何とかしてもらわんと直らんのじゃないか?なかなか難しいじゃろうな。どうやったら世の中を直せるか、考えていかないと。

私ら宗教者から言わせると、人様に喜んでいただくこと、ためになることをさせていただく。徳を積むことで、大難を小難、小難を無難に通らせていただき、陽気ぐらしの道に進ませていただくことが大事だと思うわな。 せやけど同じ明治生まれの者でも、信仰者とそうでない者は違うように思うなぁ。今の世の中でそんなことは言うてはいられない、と。年寄りそのものが変わってきているように思う。政治でも宗教でも、何でもいいから今の世の中を変えていかないと、喜び溢れる平和な世界に連れて行ってもらうのは難しいんじゃないだろうか?時代は確かに変わったが、ランプと電気、その明かりの先にあるものは何も変わらないのじゃないかな?


10-1.jpg 私は長生きしているが、私の家は長生きの家系ではない。父親が三代続いての肺病で、42歳で亡くなっている。それで四代目のおじいさんの時に、滋賀の甲賀大教会から「にをいがけ」(=天理教に導いてもらう事)があり、肺病の因縁が消えた。その頃は甲賀の朝国村で商売をしていた。朝国村で商売しているのは、うち一件だけ。広い屋敷だったから、集会所みたいになっていた。酒や油揚げやこんにゃくやらを売っていたから、それを肴に酒を飲んでいたんだろうな。

明治38年ごろに北海道に移り住み、愛別という田舎で私が生まれた。8人兄弟の3番目。男3人と女5人だった。生まれてすぐ、はしかにかかって死んだのもおったなぁ。肺病で亡くなったのもおった。今、生きているのは3人だ。その中で明治生まれはわしだけ。10歳くらいの頃、一度大水の川に魚とりに遊びに行って一度は死にかけたらしい。その時もお授け(=天理教のお祈り)で息を吹き返したんだ。だろうなぁ。小豆の商売をして2年ほどしたころ、家を建てていたらその家が火事になった。今度ははっかを植えて儲かったから、愛別の端に5ヘクタールの土地を買った。そこに家を建てようと思っていたが、縁あってそこを料理屋に売った。ところが、その年の春に大洪水がおきて、土地が半分駄目になってしまった。料理屋にお金を半分返すと言ったが、「そんな金は受け取れない」と言われた。そんなことが続いたこともあり、商売を辞め、料理屋へ渡すはずだったお金を元に教会をすることになった。

10-2.jpg教会を建てる間、母親は教会本部の別科(修養科)に半年間入った。文字の読み書きも出来なかったから、そこで教えていただいたようだ。父親は山に木を伐採に行くかたわら、教会を建てるために動き、教会を開くことを許された。その後、ついには15箇所の新しい教会を部内に作り上げた。「札幌の北海中学か、旭川の旭川中学か」と言われていた当時、私は旭川中学に通っていた。英語もしゃべれた。当時は試験は厳しく、実力がなければ入れなかった。そのまま北海道大学に行くという道もあったけれど、行っていたら戦争に召集されて死んでたかもしれないなぁ。天理大学を受けようと天理に出てきたが、教会の「ひのきしん」(いわゆるボランティアのこと)ばかりやらされた。そして明日が試験という日に、教会のとある人から3日間説教された。『外国語(学部)だったら海外に行かないといけなくなるかもしれないぞ!男一人なのに家を絶やす気か!』と怒られて、やめてしまった。凄く悔しかった。勉強は好きではなかったけれど、しゃべるのが好きだった。英会話が好きだったなぁ。

学校を出てからはずっと天理教のお助け(=人助け)に歩いていた。毎日片道12キロの距離を歩いて困っている人のところに行き、朝づとめと夕づとめも欠かさなかった。しなかったらご飯が当たらなかった。真面目だったなぁ。人が信仰するのに聞きたければ来い、と言うのと、こちらから長い距離を出向いてお話しさせていただくのと、神様はどちらを受け取ってくださるか?と言うことだ。お助けの後、電灯もないあぜ道を、提灯をぶら下げて帰ってくるのは辛かったなぁ。戦争に召集されたのは32歳くらい。もし外語学部に行ってたら、シベリアに一人で暗号通信指令部に生かされるところだった。が、私はずっと軍の事務局みたいなところで、軍隊手帳を書く役目をしていた。四部隊の二中隊にいた。

心定め(=決心のこと)をしてから本部(奈良県天理市)や上級の教会(滋賀県岩根村)のお参りを、62年間一度も欠かさず続けてきた。昔は飛行機が無かったから、北海道から鈍行電車で片道3日かかった。昔は他にも集会や協議委員やらで、1ヶ月に3回行ったこともあった。そうするとほとんど一ヶ月間が移動で何もしていられなかった。一番嬉しかったのは二代目教会会長に就任したときかなぁ。26歳くらいだった。その頃に当時18歳の家内と結婚。子供は出来なかった。家内は腎臓を病んでいて、そこを焼いて治したら、子供の種ができるところも焼けてしまったそうだ。親が貰え、と言うからはいはい、と言う感じだった。子供は、姉に婿さんを貰って分家させ、姉の2番目の子供、男の子を一人貰った。今は四世代同居の9人家族だ。ひ孫は2人、今月中にもうひとり生まれる予定だ。三代目会長になった養子の一人息子は60の時に突然死んだんだ。朝、腰が痛いと言って病院に行って、夕方には病院で亡くなった。だから今は孫が四代目を継いでいる。まだ26歳だ。うちの家訓で、会長は40までに譲れ、というのがあったから、私も息子が38くらいの時に譲った。青年期でなければ、石橋をたたいたような信仰になるからだ。それじゃ駄目なんだ。連れ合いは86歳のときに老衰で亡くなった。今は寂しくはないよ。毎月おぢば(=天理) に来るのが楽しみだ。62年間、来年は63年になる。おかげさまで体は健康だ。50歳で糖尿だと言われるまでは一日タバコ60本、酒一合毎日飲んでたが、50を過ぎてスパッと辞めた。

ある時、うちの信者さんが相談に見えた。高校二年生の男の子が、医学部に行きたいというのだけれど、先生に言うと今の成績じゃ無理だといわれた。それでも行きたい、と言うてきたので、それならば心定めをしてみろ、と言うと、それから一日も休まず神殿掃除に来た。60畳の一般礼拝場と15畳の中殿と神殿に、毎朝通ってきよった。そして、2学期の終わり頃になって先生から呼ばれると成績がグンと上がった。これならいけると、更に3学期も続けた。私らはお授けしかないから、そうしてみろと言うしかなかったのだが...。結果、見事に一回で医大へ受かった。天理の病院「憩いの家」へ研修医に行った後、アメリカへ行き、帰って来てから36歳と言う若さで医学博士、助教授になったんだわ。

10-3.jpg お授けの利とはたいしたもんだ。親様が言うたもんだ。病助けはほんの細道、身上、事情を聞いて助けるものだ。だから神様の道というのは本当にありがたい。ここはこの世の極楽やわしも早くに参りたい、蒔いたる種は皆生える、肥えをおかずに作り採り、と「みかぐらうた」におっしゃっているのは断じて嘘はないということだ。若い人は何か事が起こって、壁にぶち当たらないと分からんもんさ。面白おかしく行けばいいというものでもないんだ。外食をするのを一回辞めて、その分を神様にお供えする。そういうちょっとしたことが大切だ。結婚しているなら夫を立てる。今時の家事分担とかそういうのは全然駄目だ。してやっているというのでは駄目。させていただいているという気持ちでないと。子供は親の後姿を見て育つ。けれども、見せつけるのでは駄目。口でも言わん、そこを姿で見せていく。神様に今日一日の無事を感謝で通らせてもらっていたら、絶対に子供はついてくる。間違いない。陰徳を積むということだな。 口で言うたっていかん。世の中は何と言うたって実行ひとつだ。実行がなけりゃいかん。それが一番大事だ。

« 前の回へ              目次へ戻る              次の回へ »


このページの先頭へ