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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第23回 高野 留雄さん

たとえ何歳になろうと人のためになりたいからな。あれよあれよでここまできたけんど、それがわしの生きる道だから

高野 留雄さん

明治43年4月20日生まれ 山梨県出身

「それでは、わしの詩吟を披露させてもらうだ」
背筋をピンと伸ばし、視線を一点に集中させた顔に赤味が差す。その腹の底から出る声は、声量、音程ともに少しの狂いもない。そして、自作の 詩 ( うた ) を いっきに 詠 い上げるとひと言、
「いやぁ、このくらい朝飯前だな!!」
満足げな顔に笑みがこぼれる。

なんとも頼もしい歌声を披露してくれたのは、今年 98 歳になる高野留雄さんだ。こんなに元気な留雄さんだが、実は数日前に退院したばかりなのだという。近所に住む次男の嫁である高野佳子さんは、こういって目を細める。
「この 4 月 20 日におじいちゃんの白寿のお祝いがあるんですよ。だから大事をとって、みんなで入院させたんです(笑い)」
約百年生きてきて初めての入院だとか。まったくもって恐れ入る。耳も以前よりは少し衰えたというが、会話に支障はない。目だって決して悪くないという。そして、家族が何よりもうれしく思っているのは、みんなと同じ食卓につき、同じメニューを食べられるということ。
「肉が好きだな。あとは天ぷらなんて大好きだね! 天丼なんかにしたら、そりゃもう最高(笑い)」

まるで年齢を感じさせない留雄さんの健康を縁の下で支えてきたのが、料理上手な妻のいそ江さん( 87 )だ。その証拠におやつに出されているのは、畑で採った野菜のお浸しやほんのりピンク色に染まったらっきょう、そしてさまざまなお新香がテーブルを飾っている。これは全部いそ江さんの自家製なのだ。脇に座るお嫁さんたちから、こんな声が飛ぶ。
「おばあさんのお料理のおかげで、おじいさんは病気ひとつしなかったんだもんね~」
常に時代を先取りしてきた留雄さんの大きな両手が、恥ずかしそうに顔を包んだ。

23-2.jpg留雄さんの 目標の一つには、運転免許の更新だという。車の運転に立ち合ったが、さすがに元運転手さん。それはそれはスムーズな運転で、バックもお手のもの。
さて、そろそろ取材開始の合図を送ると、留雄さんは開口一番、
「何でもしゃべくるだよ !!  でもな、一世紀やからそう簡単には終わらないだ !! 」
部屋は笑いに包まれ、百年という時空を越えた回想が始まった。

明治43年生まれ。出身地は 富士北麓の標高およそ 940m に位置する 山梨県南都留郡忍野村。この周辺は、忍野八海にみられる豊富な湧水とさわやかな気候、そして何よりも 富士を配した美しい景観と豊かな 自然が大変魅力的な土地だ。
農業を営む両親のもと、9人きょうだいの7番目として誕生したのが留雄さんだった。留雄さんは、出生時をこう振り返る。
「明治時代はな、きょうだい多いと『一人つぶすべぇ』って、゛おろぬき゛、要するに間引きされたんだ。それがわしの番だった。でも、親戚のおばさんが『男の子だから、もったいないからとっとけ』って生かしてくれてな。わしはそこで一回死んだんだと思っている。そうなると、もういつまで生きたって同じさ。何も怖いことなんかない。だから何でも思い切ったことができたのかもしれないだね......」
長い人生、留雄さんはこの考えを根底に持つことで、強い自分がいたと公言する。

当時、電話はもちろん、電気もガスもない。 「どの家も電気のかわりにランプを使っててね。学校時代よくランプの掃除をさせられていただよ」
ある日、近所の庄屋の家にはじめて電気がついてたときのこと。
「見に行ったらな、ランプは赤いけんども、それが青い。本当にビックリしてな。でも、まあなんて明るいもんだな~って。そしてマッチもすらんで電気がつくと知って、なおビックリしただ(笑い)」

23-1.jpg そして、もう一つ印象的だったのが雪の日の出来事だという。
「この辺は雪がものすごく降ってな、学校にいけねえだ。だから雪かきの代わりに馬を3頭か4頭だして雪の上をバタバタバタバタ歩かせて道ができるん。それでみんな下駄でその雪踏み道を通っていく。でも歩けるのはいいけんど、下駄の歯に雪がひっついてよ。ときどき払わないと動けない。しょうがないから下駄は吊るして裸足で学校にいっただよ」
いまでも冬になっても裸足だという留雄さんに、嫁の佳子さんはこういって笑う。
「おじいちゃんに靴下はかないんですかっていうと、『山の獣が靴下を履いているか?』『カモシカが雪の上を靴下履いているか!?』っていうんですよ」

とにかく元気印の留雄さんだが、小学校5年生のときにはチフスにかかり生死をさまよった。
「2ヵ月以上寝ていて治しただ。でも姉さんはチフスで死んじまったな......とにかく生まれてすぐ一度死んでっから、二度は死ねねえだ(笑い)」
留雄さんの強い生命力と精神がものをいった瞬間だった。

大正 12 年、小学校卒業後、近くにある小浜?糸工業に奉公に出ることに。
そして大正 12 年 9 月 1 日、午前 11 時 58 分 44 秒、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード 7.9 の大地震が発生した。関東大震災である。 留雄さんは、大きな被害をまぬがれたもの、奉公先で被害にあった。 地震の範囲は大きく東京・神奈川を中心に、茨城・千葉・埼玉・静岡・山梨にまで及んだ。ちょうど昼食の時間帯であったため、火災の被害が甚大で、 死者・行方不明者約 10 万 5 千人という多大な被害をもたらした。

「田舎の家だから丈夫やったので、家がおっ潰れたところはなかったな。でも、慌てて外に飛び出したら、すずめが道に落ちていて飛べないだ。きっと空気がおかしかったんだな......」
この地震では、深刻な流言被害が発生した。地震当日の夕方から、『朝鮮人による暴動発生』などの流言が広がり、自警団・軍隊・警 察などによって約 6,000 名以上の朝鮮人が殺害されたといわれている。

「何が怖いかというと、地震のあとに起こったこの朝鮮人騒ぎのほうがよっぽど怖かっただ。地震で各刑務所に入っていた朝鮮人をたくさん解放したんだ。そしたら朝鮮人が暴れるぞっていうんで、みんな騒ぎだして......。そんなんで朝鮮人がだいぶ殺されてな。しまいには日本人と見分けがつかないから、『生年月日をいえ!!』っていわれて、スラスラいえないとやられてしまう。まったくでたらめだったな......」 隣で留雄さんの話にじっと耳を傾けていた妻のいそ江さんも、
「地震は揺れがおさまれば終わりだけど......。朝鮮人騒ぎはな、本当に怖かっただよ......」
声を詰まらせ回想する。

15歳春。留雄さんはこのような体験を経て2年の奉公を終えると富士紡績に入社した。そして働きながらその工場の夜間補習学校に入学すると 1 日も休まずに 3 年間通学し、精勤賞をもらい卒業した。また、5年間早稲田大学の校外生となり、努力を惜しまず勉学に励んだ。その前向きな姿勢は多くの人を魅了し、次第に人望を集めていく。結果、自動車労働組合の副会長に就任した。

仕事は順調だった。だが、時代は不穏な空気に包まれていた。昭和 6 年、 9月 18 日夜、満州(中国東北部)の奉天(瀋陽)郊外にある柳条溝で起きた南満州鉄道の線路爆破事件をきっかけに、日本の関東軍が軍事行動を開始。満州事変の勃発である。関東軍は、戦線を拡大。日本はここから一気に戦争に足を踏み入れていく。

そんな中で、留雄さんは昭和 10 年、車の運転免許を取得し横浜で横浜市電気局自動部に入りバスの運転手となった。そこではブラスバンド部に入り、クラリネットの演奏を楽しんだ。また柔道部では2段を取得する。だが――
「そうこうしているうちに満州事変が始まり、支那事変がはじまりって戦争色が強くなって、召集がはげしくなったんだ。それで外地に行けば準軍属になるから召集をまぬがれるっていうので支那にいっただよ」

中国に渡ると済南自動車部に入り、雑穀・綿花の運送するトラック運転手を経て、再びバスの運転手となった。後には、統計係に抜擢される。そこでは信じられないことが起こった。
「ガソリンが満タンに入っているのに、バスが途中でエンコしてしまうんで、変だな......。って思っていただ。どうもおかしいっていうんで夜中、バスを見張っていたら、そこに自分たちのコック長がやってきてガソリンを抜いているだ。まわりには普段、私たちを守っている兵隊たちが銃を持って見張りをしている。そりゃ驚いたね。中国人たちは、昼間は親日で、夜は反日で中国軍となるんだ。戦争とはそんなもんさ......」
生きていくためには、手段を選ばない。人間の本性をしっかりと目に焼き付けた。

昭和 18 年、中国では、 2 人の子どもに恵まれた。だが、先妻に先立たれてしまう。後に現地召集があり、母と子供ふたりを連れて内地に戻ることに。そして留雄さんは再び妻のいそ江さんというよき伴侶をえて、長年苦労を共にすることになる。

日本に戻ると生家の忍野村へ疎開をしたが、電気もガスも通っていない。そこで、懇意にしていた電力会社に交渉。家の近くにも電気を通すと約束させた。だが......
「約束しても柱がないと電気は引き込んでもらえないからな。真夜中にばあさんと二人でカラマツで出来た電柱を盗んできたよ。ふたりでエッサ、エッサと担いできて、広い畑に電柱おったててな(笑い)電気ひとつ使えるようになるまでには、そんなことまでしただよ」
そうこうしながら、都留貨物自動車会社のトラック運転手となった。そして昭和 20 年、日本の敗戦と同時にいち早く、都留貨物自動車に労働組合を作り組合長に就任した。
「いまがよければいいってもんじゃない。常に 30 年先取りして考えて行動しているだ。だから、時代を先取りして先頭に立ってやったな。これまで本もたくさん読んだし、いっぱい勉強して、いろいろな物事を頭に入れてきた。理論で攻められる人って、なかなかおらんかったからみんなわしに頼んでくるだ」

後に、機織りの時代が到来。時代の流れに敏感な留雄さんは、機織りの会社を設立。
「機織りなら女にもできる。わしが死んでも家内が食っていけると思ってな」
常にトップに立ちバリバリと働いていた留雄さんだが、家族には思いやりと優しさにあふれていた。
それぞれの機織り工場では、夜中の 12 時まで機織りをするため、品物がだぶつき、織賃が安くなってしまう。そのため何か妙案がないかと考えた末、留雄さんは問屋に交渉。 「問屋は千台くらいある機械を 7 時にすべてストップさせることが出来れば、織り賃を上げるというんだ。時間を短くすれば商品のだぶつきがなくなる。『でもそんなこと絶対にできるわけがない!!』っていわれてな。だまっているわけにいかない。早速、組合を作って組合長になって全市の機織屋を説得して、織り賃を上げさせただよ」
留雄さんの行動力に、問屋は目を丸くした。

その後は、時計の部品を作る会社、高野精機を設立。時代の先を見越すように工場の建築現場から、自宅の建築から設計まで将来の青写真を練っていた。結局は、その考えが成功し現在につながっていく。

23-3.jpg留雄さんは自分の事だけではなく、困っている人をみるとほっておけない性格なのだろう。自治会においてもそんな性格をいかんなく発揮し活躍した。富士吉田市の旭町西自治会長を受け、そこから脱退する形で竜ヶ丘自治会を創立。『最低の自治会費で最高の自治を行う』をスローガンに掲げ、初代自治会長に就任。費用のかかる『消防』や各家持ち回りの『火の番』制度などを廃止し、効率的に行うことに成功する。『竜ヶ丘会館』の建設にも力を注いだ。多くの改革は、富士吉田内における生活環境をおおいに躍進させた。
そんな留雄さんに目をつける人は多い。老人クラブでも会長職を依頼され、先頭に立って盛り上げていった。

もちろんその間、障害がなかったわけではない。 物事を決定する場合、意見が分かれることもある。 だが、問題があればあるほど、その苦境を乗り切る知恵と力を兼ね備えた留雄さんの魂に火をつけていく。ちなみにこの精神で、自分の病気を 15 日間断食をして治してしまった経験もあるほど。
「物事を進める上では、もちろんいろいろな意見もあるだよ。でも理論で攻めれば、相手は納得するしかないだ。断食だって『断食すれば細胞が死んじゃ困るってんで、ものすごく細胞が強くなって病気が治る』って本で読んで知っていたから、医者を説得できたんだ。人間は水だけで 45 日間生きていることがわかっていたからな」
嫁の佳子さんは留雄さんをこう評す。
「おじいちゃんは、自分のいうことには、必ず確信があるんです。博学ですからね。世界情勢なんかもすごい詳しいから、おじいちゃんの話を聞いていたほうが新聞なんか読むより楽しくて、楽なんですよ(笑い)」
留雄さんは、毎日その日にあった出来事や、気がついたことなどを日記に書き留めている。
「いつも 30 年先を見ているからな。平成なんてきっとすぐに終わっちまうだ。だから墓建てたときも元号なんかじゃなく、世界に通用する 2000 年とか西暦で書いてもらっただ。坊主がキリストじゃあるまいしって嫌がったけどな(笑い)」
百歳に手が届くほどの年齢で、これほど世界に目を向けている人は希少だろう。

また、留雄さんの魅力のひとつは、その趣味の多さだ。スキー、水泳、囲碁、大正琴、詩吟など、すべて指導できるほどの腕前なのだ。カラオケに至っては、現在もまだ先生を続けている。
カラオケのレパートリーも幅広い。病後は、カラオケ教室で習っている『男の地図』を元気に熱唱し回復をアピールした。

同じ屋根の下に住み、身近で留雄さんの様子を見てきた嫁の織子さんも続けていう。
「 97 歳で肺炎になりかけて入院したら、他の人ならバタバタって逝っちゃうかもしれませんよね......。でも、おじいちゃんは、『病院なんて一日中、寝るしかない。病院なんかにいたら、かえって病気になっちまうだ!!』っていうんです(笑い)それで3週間入院の予定が 13 日で出てきて、ほら、すっかり元気になったんですもんね。健康の秘訣はやっぱりおばあさんの手料理だったと思います」

留雄さんは、おばあさんにむかっていった。
「おばあはブキでバカだけんど、料理はできるな」
いそ江さんが、答える。
「ハイハイ、私はブキでバカですよ。私は何でもおじいさんのいうこと聞いているだけでね。ブキ(不器用)だブキだって、戦争じゃねえだからブキ(武器)はいらねえだからな、っていつもおじいさんにからかわれているんですよ(笑い)」
長年連れ添った夫婦にしかできない会話が心地いい。

隣に座る織子さんが再びそんな二人にフォローを入れる。
「昔ね、おじいさんがあまりに感心することをいったので、『私がおじいさんと結婚してたらよかったわ!!』っていったんです。そうしたらおじいさんが『おめえとじゃケンカ別れしているだ。ばあさんだから、ここまで一緒にこられただ』って。それを聞いて、『ああ、おばあさんじゃなきゃダメだな』って。二人はすごく仲が良くって理想の夫婦なんです」 毎晩、畑で採れた野菜やいそ江さんの色とりどりの手料理がテーブルを彩る。それをほお張る留雄さん。
「長生きの秘訣は水と太陽と空気。なるべく陽に当って、なるべくたくさん水を飲むように。そして山などに行って、いい空気を吸うこと。この三つが一番栄養になるだよ」
「それに、なんといってもおばあさんの愛情がぎゅっと詰まった手料理でしょ !! 」
まわりからの声に留雄さん、少し照れたようにニッコリとうなずく。

「そうそう、あと元気の素はまだあるだ」
ポケットから取り出したのは、愛用の赤い携帯電話。さすがにメールはしていないというが、裏に貼られるひ孫の写真を愛しい眼差しで見つめている。
大きくなった孫たちも常に留雄さん夫婦を気遣ってくれているという。 10 年前のアルバムには、孫からの一通の手紙が大切に保管されている。

『おじいちゃんおばあちゃんおめでとう。
無事に米寿と喜寿を迎えられたことをとても喜ばしく思います。 16 日には参加できなくてとても残念ですが、2人の仲の良い姿が目に写ります。くれぐれもお体を大切にこれからも二人三脚で楽しい日々を送って下さい』

このように約百年かけた留雄さんの遺伝子は、しっかりと受け継がれている。

最後に「これからの夢は?」の問に、身をぐんと乗り出しながら答えた。
「どえらい事をやる予定なんだ !!  悪者を排除していい者を助ける『黄門市民団体』っていうのを作ろうと思っているだ。たとえ何歳になろうと人のためになりたいからな。あれよあれよでここまできたけんど、それがわしの生きる道だから」

いくつになっても夢があり、希望がある。人間の強欲ばかりが目立つ昨今、どこまでも人のためにありたいと願う姿に、心が洗われていく。

「さあ、最後にもう一節、わしの作った 詩 ( うた ) を 聴いてくれ」
陽が傾き始めた頃、長い回想を終えた留雄さんは、そういって身を正した。

♪ 秋の葉落ちる
わが人生の行路は
人生の花道も終わり
白寿の年
明治・大正・昭和・平成と長生きし
人生の道しるべ
晩秋の年
我が人生の行路は
年既に白寿の祝い  ♪

その歌声は居間を震わせ、南にそびえる富士の峯に向かい、朗々と響き渡っていった――

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