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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第3回 魚野 熊治さん

料理人はよう金持たん

魚野熊治さん
明治40年3月31日 大阪市中央区東心斎橋在住

大阪府堺市に9人兄弟の8番目として生まれた。全員が男の兄弟だった。今、現在生きているのは自分だけ。10歳くらいの頃には、「バイ」という鉄で出来たコマで遊んだ。正月が終わって10日くらいに、「しめ縄」と「門松」を集めに回って、お宮さんに持っていって燃やした。

小学校だけ出て、12歳から3番目のお兄さんがしていた料理屋を手伝った。
朝早く魚を仕入れて、昼間に玉出・岸和田・新開地・天下茶屋なんかの中堅以上のサラリーマンの家に行商しに行った。夕方からは店に戻って、兄の手伝いをした。18歳くらいになると、兄は若い子を3~4人使っていた。
行商に行って売れ残ると、兄に叱られるが怖くてよく家を飛び出した。17歳ぐらいの時に初めて飛び出したが、20歳くらいになるとしょっちゅう飛び出すようになった。料理人としてのいっぱしの腕はあったから、簡単に他の店に奉公に入れるわけだ。だが、近所の目にも勝手が悪いから、と、なだめられてすぐに連れ戻された。またすぐに飛び出してしまったけどね。

兄弟は9人とも全部、男。1番上の兄が「漁師」、2番目は「軍事工場の鉄工所」、3番目が自分と一緒にしていた「料理屋」、4番目は「やすり研ぎの鍛冶屋」、5番目は銀行を辞めて「理髪店」、6番目は「魚の行商」、7番目は「軍事工場」、8番目が自分で、9番目が「散髪屋」。9番目の弟だけが戦争に召集された。
他は誰も戦争に行ってないのは、軍事工場で働いていたり、仕事以外で警報団等に入って戦争に携わっていたからだ。自分も32歳くらいで警報団に入り、警備の副部長をしていた。警報団は、空襲警報や毒ガス隊や焼夷弾を落とされると、その位置や情報などを高い台から町会全てに知らせていた。

24歳の時に恋愛で結婚した。今まで結婚は4~5回している。妻は自分は3人目と思ってるようだけど、おまえが知らんだけや。見合いは1回だけ経験がある。以前の奥さんは他界していて、子供は、一度目の結婚の時だけ2人出来たが、長女は15歳の時、長男は一昨年62歳で亡くなった。

27歳からは、ずうっと戦争が続いていた。だが、食べる物を扱う商売だったので「食うに困る」ことはなかった。食べるのに不自由している多くの人々は、着物と米を交換したり、重い荷物を背負って列車で米を買い出しに行ったりしていた。
37歳の時、例に漏れず自分の自宅も丸焼けになってしまった。その時の事をはっきりと覚えていて、おもしろいんやけどな。店をしている業者には配給があり、酒や米が入った。「ちょっと一杯やろう、皆うちに来い。」と言って、いい気分で飲んでいた。大分飲んでから、夜中の2時頃だったろうか・・・突然、警戒警報が鳴った。空襲だ。皆を避難させて、自分ひとりだけ残った。家の主人だから、逃げるわけにはいかない。何とか助かったかな?と思ったら、隣の家が炎に包まれながら燃え落ちた。こっちまで燃え移ってきたので、消そうとしてバケツの水をかけたが、そんなものではらちがあかない。仕方ないので「ええい、ほっといたれ!」と、自宅が焼け落ちるのを見ていた。あれは末期の酒だったのか、と思ったが死ななかった。その時死んでも、ちょっとも不思議じゃなかった。ひとつ間違ったら確実に死んでいた。午前4時頃に「警報解除」になったので、西成区役所の屋上の環視場に昇って、警防団として皆に「避難するように」と伝えた。 住む家がなくなったけど、その頃はなんぼでも空屋があったから、いくらでも住むところはあった。

38歳くらいの歳に戦争が終わって、周囲一帯焼け野原で何も出来なかった。商売しようにも材料もないし、客も来ない。けれども、知恵を絞って「店頭販売」の許可を取り、売れる物を探して売っていた。個人ではダメだっただろうが、組合で申請すれば許可がおりたのだ。

しばらくしてようやく何とか店を改築して、料理屋を再開できた。板前一筋だったから、他に何も考えられなかった。そして、その頃大阪では初めてだった、「ふぐ料理の店」を西成ではじめた。神戸にはその前からふぐの店があったが、大阪では初めて。料理屋としても、飲み屋としてもよく流行った。商売は良かったが、逆に「たおれ」(=貸し倒れ)も相当多かった。

13年間西成で店をした後、今住んでいる心斎橋に支店を出した。今は廃業してしまったそごうのえらいさん(重役)は、みんな常連客だった。今はさすがに引退されてしまったが・・・。
昭和58年まで、心斎橋で料理屋をしていた。終戦後から続いていた店も不景気になり、「社用族」が利用しなくなって、主要な客が全て来られなくなるのと同時に店もたたんだ。戦前・戦中・戦後と料理屋一筋に続けてきたが、「老舗」「昔ながらの料理屋」と言われるお店は、見事なくらいこの周辺(心斎橋界隈)から姿を消した。一件も残っていないだろう。

結局、小学校上がってから74歳の年まで、料理人としての人生を送った。

多趣味で、10年ごとに内容は変わったのだが、嫁が「きちがい」と言うくらいにとことんのめり込む性格だった。少し余裕が出来たからだろうか、40歳から「熱帯魚」に夢中になり、ちょっと珍しい熱帯魚を見つけると片っ端から買い込んだ。その当時で一匹、数千円する熱帯魚を、山のように買ってきては飼っていた。
次は「カメラ」。徹底的に高価なカメラや8ミリを買いまくり、自宅に暗室まで作った。
その次は「盆栽」。特に「サツキ」と「サボテン」に凝って、家の屋上に建てた温室を、自分の好きな盆栽だらけにした。店の玄関や店内にも飾っていた。何千万円も費やしていたから、セキュリティは万全にしていた。あまりに見事な盆栽だったから万国博覧会の時に、日本庭園に貸してくれないか、という話もあった。

74歳で仕事を引退してからは、特に何もしていない。今年の8月に腰を痛めてからは車椅子の生活で、家で寝ていることも多くなったが、それまではしっかり歩けてた。病院の先生もまた治りますよと言うてくれた。
今は大きな趣味は卒業して、浪曲・長唄・小唄・民謡などの音楽を聴くのが好き。嫁は「ジャズ」が好きで、全然趣味が合わん。

私の店、「松月」は、高級料理屋で、社用族も重役クラスばかりだし、歌舞伎役者さん達もよく利用されていた。芸人さんでは、西川きよしさんもよくご家族できていただいた。
「歌舞伎の世界に来てくれないか」とよく誘われた。当時は「高田浩吉」「長谷川一男」「片岡弐左右衛門」なんかに似ていると評判だったらしい。「飲む・打つ・買う」のうち、賭事(打つ)だけはしてこなかった。料理人はよう金持たん。
こんな年までまさか自分が生きていると思わなかった。今はもう楽しみなんて何もない、死ぬのが楽しみや。

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