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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第2回 谷口しかさん

「おかげさん」
耳は「ありがたい」目は「うれしい」

谷口しかさん
明治41年1月20日生まれ 滋賀県湖南市岩根在住

現在8人家族で、実に4世帯が同居しております。家族構成は、私と74歳の息子、そのお嫁さん70歳、孫、孫の嫁さん、孫の子のことを「ひこ」と呼んでるけれど、高校生と中学生と幼稚園のひこ達3人の合計8人。

明治41年、滋賀県の岩根村に6人兄弟の5番目として生まれました。現在兄弟は、私以外みんな死んでいて、おりません。
その頃、小学校を卒業して終わりという人が多かった中、高等2年生と補修学校っていう裁縫ばかり習う学校に3年間行かせてもらいました。頭はよくなかったけどな。その頃のお友達が近所の村に居たけど、皆とっくに亡くなりました。
学校を18歳で卒業して、20歳で同じ名字の谷口家に嫁ぎ、すぐに長男の源一郎を生みました。今でも自分の年齢は良く覚えてないので、長男に「おまえは今いくつになったんやいね?」と聞いて、20歳を足して自分の年を思い出します。子供は男の子2人です。01.jpg

結婚してからは、ひたすら気張って百姓をさせてもらいました。たいしたことはしませんでしたが、ただひたすら「つづれ」ばかりしていましたね。つづれとは洋服などの繕いのことで、その頃は男でもおなごでもつづればかり着ていたから、なんぼ着ていても恥ずかしくありませんでした。つづれ着ている方が値打ちがあったくらいや。機械なんてなかったから、田植えやろうとなんやろうと、みんな手でやっていました。今は何でも機械で楽さしてもらえるようになったもんやがなー。
私のお姑さんに当たる、おひでさんという人が、それは賢い人やった。厳しい方で、何をするにも了解が要った。おみそ使うならその量を相談。お漬け物を漬けるにも相談、といった具合で家のことを何一つ勝手にすることは許されなかった。50年仕えたけど、よく姑が自慢げに言うてたのは、「わしとおシカは、50年間一度も喧嘩したことがない」と。裏を返せば50年間、姑に一度も口堪えせずに仕えて来たということになる。人間、時には「すやけどな・・・」と言えるときもあるやろ、すやけど何も悪いこといわへん。男勝りのおばあさんやった、あんばい仕込んでもろうた。ありがたいこっちゃった。
おじいさんは幸い戦争に取られることもなく、区長さんや、寺の檀家総代や村会議員なんかをしていた。「院方居士」という偉い戒名をもらいました。
まにあわんこっちゃったけど、村の事やら寺の事やらさしてもろてはった。戦争で村中がガチャガチャの時も、百姓して食べる物作らしてもろてたさかい食べる物の不自由はなかった。88歳のますきりまでがんばってもらおうなーといっていたけど、82歳の時にたった3日の患いで風邪をこじらせて亡くなりました。何も痛いとも苦しいとも言わずにいい往生させてもらいなさった。

毎日目が覚めたらお布団に入ったままで、好きな歴史や昔話の本をしばらく読みます。起きる頃にはきちんと髪をとかし、着物でも洋服であってもきちっと整えて、それからお経と祝詞を唱えます。これは、朝・昼・夜の一日3回の日課です。お仏壇に向かってお経、隣に祭ってあるお稲荷さんには祝詞を丸暗記して、大きな声で唱ます。お腹から声を出すのが、長生きの秘訣やないかな。何もしなくて良いと言ってもやはり楽していられないのか、長すそはいて草引きしたり、小芋を置いておいたら「これ剥こうか?」と声をかけたりもします。
若い者より沢山食べられるくらいで、ご飯茶碗たっぷり2杯のご飯と、野菜類ややわらかい物をおいしいおいしいと食べられる。毎日私用に、何か必ず一品は「炊いた物」をしてもらっています。
あんこの入ったお菓子などは、ほとんど私がいただきます。大好物です。
新聞を隅から隅まで読み、テレビ欄をしっかりチェックして好きなテレビ番組は欠かさず見ます。ひこ(曾孫さん)達と、テレビの話題が一番合うそうで、Jリーグやワールドカップ、野球のイチロー選手がどうしたこうした・・・などと話したりもします。「テレビと新聞の名人」と家族から言われるくらい。
今年の6月に転んで足の骨を折って、18針も縫って入院したことがあります。その時お見舞いに来てくれた孫と同級生の顔を、20年近く会っていないのに、「はっちゃんやわな、とよちゃんやわな。」と言い当てたんで、周りがびっくりしてました。入院の日、大部屋から個室に移った日、退院の日、全部覚えてます。昔のことも、息子が「ヨカレン」に入隊した日、帰って来た日、農協に務めて町→郡→県と勤めてきた赴任先の経緯も全部言えますよ。孫が当時、この村では初めて全国大会に行った優秀なサッカー選手だったこととかね。
その孫が現在料理屋をやってるんですが、一年前までそこのお客さん用座布団を全部してあげていました。座布団は約100枚、小さな1階用と大きな2階用があって、洗濯されたカバーにアイロン当てて、たばこの跡を繕い、中の綿を全部天日干してから座布団飾りをつけます。糸を針に通すのが出来なくなったので、今は自分の着物の繕い事しかしてませんけどね。未だに孫は、「また座布団汚れたからやっといてや」と、どさっと持ってきたりしますよ。
耳だけは遠いんですが、真ん中のひこの話すことだけは聞こえるんです。私のことをすごく大事にしてくれてね。履き物を履きやすいように揃えてくれたり、食事の最中にみんなが何で笑ったのか分からなくて、聞いたら紙に書いて教えてくれるんです。

耳くらい聞こえなかったら聞かなかったら良い。目はとてもよく見え、今でも新聞まで良く読める。だから、耳は「ありがたい」・目は「嬉しい」。
今まで生きてきて嬉しかったことはな、こうやって嫁さんに来てもろて、またその次の代の嫁さん来てもらってあんばい後継いでくれて、それがこの世のだんだんの事やからそれが嬉しい事や。悲しいこととか辛いことは別に無い。

取材後記

取材中、幾度もお聞きした言葉は、「おかげさん」と「ありがたい」、それと、「若い者が皆良くしてくれるから嬉しい」と言うことだった。
こんなおばあさんなら周囲から大切にしてもらえるだろうし、神様だってきっと、「いつまでもこの世に生きていても良いよ」と言われるだろうと思えた。
ご家族もおばあさんを決して「蚊帳の外」に出さず、常に大切な家族の一員として尊重されている。
こんな素晴らしいご家族に囲まれた幸せな暮らしぶりがかいま見られた。

「本当に悪いことは何一つ言わはらへんやろ、私はこんなおばあさんになれるやろかと思う。人に言えない苦労もして来てはるはずやし愚痴の1つも言えそうなものやけどなー」とおっしゃる、お嫁さんもやはり良い方で、おばあさんの事をいとおしくて仕方がない、と私の目には写った。
話をされながら、うっすらと目に涙が見えた気がした。
私もこのおばあさんを見ているだけで、いて下さるだけでありがとう、という感情が沸いた。
祖母と多くの事が重なり、私も涙が出そうになった。とてもすがすがしい、良い気持ちにさせていただけた。

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