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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第20回 永西 千代さん

生きてきて嬉しかったことは、
みんなからええ言葉もろたことです。

永西 千代さん

明治45年1月29日生まれ 兵庫県津名郡塩田出身
大阪市住之江区在住

「取材に伺ったのは、2月末。

「昨年 11 月に脳内出血で倒れて入院して、歩けなくなったんですよ」
という息子さんの言葉を疑った。

千代さんは明治生まれとは思えないほどの驚異的な回復力で、既につたい歩きまでできるようになっており、ニコニコ笑って座っていたからだ。
近所でも「元気なおばあちゃん」で有名な千代さん。その優しい笑顔とは不釣合いなほどの"強さ"は、一体どこから来たんだろう......。息子さん夫婦のお話も加えながら、千代さんの人生を辿ってみた。

■幼少~女学校時代  淡路島で育つ
「私が生まれましたのはね、兵庫県の、昔は津名郡の塩田というところです。今は名前が変わってしまったんですけど(淡路市)。三人兄弟で兄と妹がおりました。父は『代書』といって、今の司法書士にあたるような仕事をしていて、母は特に仕事はもたず、家庭のことをいろいろとやっていました。
子供の頃に好きな遊びと言えば、昔のダンスというか、音楽ならして、踊るのが好きでしたね。まりつきやお人形ごっこもありましたけど、私は体を動かすのが好きで、みんなで踊るのが楽しかった。あとは、海の近くでしたので、水に入って泳いだりもしました。楽しかったんですけどね、あの頃のお友達はみんなもういなくなってしまいました......。
その頃の好きな食べ物といっても、今のようなものは何もありませんでしたから、母が作ってくれたものを喜んで食べていました。三食のときもあれば、日によっては二食のときもありましたけど。
小学校では、数字を覚えたり......、読み書きそろばんですな。学校は好きでしたね。面白かったです。その後行った女学校では、お花や和裁を習っていました。着物を縫ったりするのは好きでしたね」

以前、千代さんの妹さんが話していたことによると、実家は淡路島の漁師町であったため、誰でもが女学校まで出られるわけではなかったらしい。千代さんのご実家は町では裕福なほうだったのではないかと推測できる。
裁縫を習っていたので、いろいろと作るのも好きだったとか。残念ながら、子供の頃の記憶というのはあまりはっきりと残っていない。

■結婚して大阪へ
 「高校を出てからは、幼稚園の先生をしていました。塩田村のお寺が子供を集めていましたので、そちらで子供たちを教えておりました。子供は好きでしたので、遊んだり、遊戯をしたり、楽しかったです。遊ぶだけでなく、1から 100 までとか、 1 から 50 までとか、数字を教えたりね。今の幼稚園とはちょっと違うかもしれません。早いこと言うたら、託児所みたいなものです。この時期が本当に楽しかったです。そんなに長いことではなかったですけど、2、3年はやっていました。できればもう少し長くやりたかったんですけど、結婚の話が出て大阪来ましたから、それきりになったんです。

結婚したのは遅かったんです。 28 か 9 くらいやったと思います。主人の姉の旦那さんが松屋町(大阪)で紙問屋をやっておりまして、そこで私たちはお手伝いをさせてもらっていました。その後、お手伝いばかりしていてもということで、のれんわけしてもらって、独立して自分たちでやることになりました。
紙問屋というのは、包装紙やらポリエチレンの袋やら作ったりもしていたんですが、そのポリエチレンの袋を作る機械を譲ってもらって、住吉で商売を始めました。大きなロールで巻いたポリエチレンを切って、底をつけて袋にして売るんです。病院などの得意先に入れさせてもらっていました。
住吉から松屋町まで配達するんですけど、今みたいに車はないし、配達が自転車なので主人はえらかった(辛かった)と思います。おこづかいが多少は入ると嬉しかったですけど、でも、主人はほんまにえらかったと思います」

■戦時中 ~疎開経験
「戦時中は大阪におりました。戸籍を入れようとしても家は倒れて住所がわからなくなっているような、そういう時代でした。空襲もありましたけど、おかげさまで店が焼けることもなく、親しい人が戦争で亡くなるということもあまりなかったです。ただ、食べるものは少なかったですなぁ。だけど、私はあまり辛い思いはしていません。
戦時中に辛かったことと言えば、半年ほど淡路島のほうに疎開していた時が辛かったです。父の実家においてもらっていたんですが、お世話になってるからと思って水汲みやらお料理やら手伝っていました。あの水汲みがほんまにえらかった。井戸までが坂道になっていまして、そこまで下りて行って水を汲んで、またそれを持って坂道を上って帰らなあかん。お風呂の水も入れなあかんし、何回も何回も行きました。これがほんまにえらかった。
そのうち終戦になって大阪に戻りました。バラバラと家がたち、区役所がたち、また元のような生活が始まりました」

20.jpg ■女手ひとつで......
「昭和 18 年、私が 31 歳のときに娘が生まれて、 36 歳のときに息子が生まれました。戦後も変わらず住吉でポリエチレン袋を作って配達して生活していました。音がするのでご近所に気の毒と思ったけど、納期に間に合わせるように夜中まで機械をまわしていたこともあります。でも、夜も寝ないで機械をまわしたり、配達したりが大変やったからやと思うんですけど、主人が 54 歳で亡くなりました。それが本当に辛かった。人生で一番辛かったことです。
これからどないしていこうか......、なかなか一人では商売もできんしと思って。だけど、子供も二人おるし、元気出さなあかんと思って、そこから機械をまわして、一人で商売をやり続けました。一人で、なんせえらかったですけど、子供らを育てていかなあかんと思いましたし、機械がありましたので、なんとかまわしてやりくりしていました。お友達に頼んで配達してもらったこともあります。それで、なんとか子供らが高校出るまで働き続けました。
体を動かすのは好きだったんですけど、働くばっかりで楽しむということはあまりなかったです」

千代さんはご主人が亡くなってからずっと働くばかりで、息子さんから見ていても、特に「遊び」であるとか、「趣味」といったようなものはなかったという。子供たち2人を一人で育てようと、ただ一所懸命働く生活が続いた。
55 歳くらいで仕事を辞めたが、それ以降も遊びといえば、老人会などに参加し、たまに旅行に行く程度。ただ、近所の人と話すのは大好きで、そういった会などには積極的に参加し、同年代の人の話を聞き、自分の境遇と照らし合わせては常に感謝できることを探していたという。
息子さん夫婦とは結婚当時から同居していて、3人子供が生まれたため(千代さんにとっては孫)、子育ても手伝ってきた。「初めての子育てでいろいろと不安だったけど、一緒にしてもらったので助かりました」と義理の娘さんも話す。
働いてばかりの人生だったので、今までしたかったことや、これからしてみたいことがあるのではないかと思って尋ねると、「もうなにもありませんわ」と。
自分の境遇に不満を言うことなく、感謝しているのだろう。ただ、ご主人が亡くなった時だけは本当に辛かったようで、何度か「辛かった」と口にされた。

■いつも元気!健康の秘訣とは?
「 96 歳になるまでずっと健康で、病院ひとつ通ったことがありません。風邪ひいたなぁと思ったら、喉を湿布したりしたら治りますねん。去年倒れて入院しましたけど、ついとる先生も(回復力に)びっくりしまして、はよ退院してもええよっていわはりました。
健康の秘訣は、よくご飯をいただくことです。好き嫌いもなく、何でも。固いものも大丈夫です」

千代さんは昨年 11 月に倒れたが、それまでは本当に元気で健康で、 5 キロの米を近所のショッピングセンターで買って、自分で持って上がってくるほどだったという。息子さん夫婦と一緒に暮らしているが、共働きのため平日昼間は一人で家にいることも多かったが、カギの管理はもちろん、小包が届いても受け取り、電話がかかってきても用件をすべてメモして置いておくほど何でも一人でできた。耳も遠くなく、補聴器もつけていないし、普通の大きさの声でほとんど聞き取ることができる。
倒れた時も自分で携帯を使って息子さん夫婦に連絡をしたという。慌てて駆けつけた息子さん夫婦に付き添われて入院し、一時は左足が動かなくなったのに、たった2、3ヶ月でつたい歩きまでできるようになった。これには担当医もびっくりしていたという。
息子さん夫婦も「寝たきりになることは、この時覚悟していた」と言うが、あっと言う間に退院。元々健康ということもあるが、「周りの人に迷惑をかけたくない。自分で何でもやりたい」という気持ちの強さが回復を早めたのだろう。
これについては、義理の娘さんがこんなふうに言っている。
「退院できたことが本当に素晴らしいと思いました。この歳になってもまだ、『もう一回歩こう』という気力があった。その前向きな気持ちが一番すごいと思うんです。回りの人に迷惑かけたらあかん、またがんばらなあかんと、そういう気持ちがあったのでしょう。『自分のことは自分でしよう』と思うことが、一番の生きる糧であり、長生きの秘訣なのかもしれませんね」

■感謝 ~みなさんのおかげです
「今まで生きてきて嬉しかったことは、みんなからええ言葉もろたことです。みんなから『おばあちゃん、どうや?』『元気にしとるな』といつも言うてもらえるのが嬉しかったです。みなさんのおかげでこないなりましたんよ。みなさんのお力を借りまして、 97 まで生きられました。また、この人(娘さん)がようしてくれるねん。何より嬉しいです」

入院していた時、千代さんは自分の世話をしてくれる看護婦さん全員の名前を覚えた。「あなたはどなたですか?」と一人ひとりに聞き、名前を覚え、そして「○○さん、ありがとうございます」と、ちゃんと名前を呼んでお礼を言っていたという。自分がしんどくて入院しているのにも関わらず、お世話をしてくれる人に「ありがとう」と感謝を忘れない。その姿を見て、息子さん夫婦も改めて感心したとか。
「物事の始まりと終わりは肝心やから、何か教えてもらう前は『お願いします』などの挨拶をきちんと言う。そして終わったら『ありがとうございました』とお礼を言わないとあかん」と、以前からよく言っていたという千代さん。
取材の終わりにも、何度も何度も「ありがとうございました」と頭を下げ、そして優しく「気をつけて帰ってね」と声をかけてくれた。
優しく、強い千代さん、どうぞこれからも前向きな気持ちで、長生きなさってください。

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